一日目……⑤
ミハネは青白い表情で、その視線を私達の顔へと行ったり来たりと見比べて、それを計三回は繰り返した後、か細い声で「まじ……?」と呟いた。
「まじなわけないじゃん! 付き合ってるわけないから! いくら私でも、小林先生は無理だよぉ!」
「あらひどい。彼だって、そう捨てたものじゃないと思うのだけど」
がらり、と扉を開けて、何のつもりか再び無表情のまま教室へと乗り込んでくる小林先生。彼は私の方を見やって、やおら唇を曲げてにんまりと笑顔を浮かべてみせた。さわやかな青年がやれば様になる表情だが、彼のそれは得物を発見したナマハゲである。
私の高校生活はごく短いものだったが、彼の性格やら授業の進め方は、実に良く頭に残っていた。決して悪い人ではないのだが、まず女子生徒受けのするタイプなどでは無かった。
日に黒く焼けた手足や顔つきは、精悍と呼べなくも無いのだが、いかんせん言動が粗雑すぎる。だいたい、年齢差の時点で交際自体がもはや犯罪レベルだ。二人で連れだって街中を歩いていたら、通報を食らっても文句は言えない。
「と……トワ。わ、私は……その」
がたがたと恐ろし気に肩を震動させながらも、ミハネはとうとう意を決したのか、私と目線を合わせた。弱々しくも、芯のある声がその唇から紡がれる。
「お、応援するから。トワならきっと……大丈夫!」
「なんでそうなるねぇん……」
全力で彼女をどつきたくなるのをどうにか堪える。堅物然というか、純粋なところのある女の子だとは思っていたが、よもや背中を押してくるとは。応援されるのは普通なら嬉しいところだけれど、この状況では逆に「止めとけ、絶対に」、といった感じの拒絶反応が欲しかったのに。
「……は? 何言っているのよ。この女」
しかし、予想外だったのはアマモも同じだったらしく、極めて不機嫌そうな声を彼女は漏らした。まずいと思ったが止める間はなく、その腕がミハネへと伸ばされる。襟首をきゅっと掴んで、自分の顔へと引き寄せた。
「あんなおっさんと、トワが釣り合うとでも? 馬鹿を言うのも大概にしなさい」
いや、君が誘導したんでしょうが――。そう突っ込もうとした私より先に、首元を掴まれているミハネが叫んだ。
「だ、だってトワを……信じてるから! ずっと病院のカプセルの中に閉じ込められて、歩くどころか、自由に腕すら動かせなかった彼女が。やっと通えるようになった学校で、好きになった人ができたって言うのなら――。私はそれを信じたいよ……!」
その言葉は誰に向けられたものだったのか。振り絞るようなその声に、アマモは彼女を掴んでいた腕を離すと、数歩後ろへと退いた。その口は金魚のようにぱくぱくと動いていて、どんな言葉を返せばいいのか分からない――そんな心境がはっきりと伝わってくる。
黙り込んでしまったアマモに、ミハネは続ける。
「好きとか告白だとかは、私は良く知らないけれど、トワの友達として、彼女の思いを否定なんてできるはずがない。たとえどれだけ意外な選択でも……!」
「……っ! もういい!」
とうとうと語るミハネを遮る形で、アマモはまたも彼女に飛び掛かった。しかし、今度のそれは本気の勢いで、強引に床へと押し倒されたミハネが苦悶の呻きを上げる。揉みくちゃになる二人を引きはがすべく、駆け寄った私がアマモへと手を伸ばした瞬間――。
視界の全てが真っ白に染まった。
足元の感覚が無くなって、身体は重力から解放される。三半規管はひたすらに違和感を訴え、車酔いしたようなめまいと吐き気が、私の頭を揺さぶり続ける。
アマモが使う、空間転移。彼女と付き合いだしてからというもの、幾度となく経験してきた異常な移動方法に、私の身体はいっこうに慣れる気配が無い。
もう限界かも――と口元に手をやりかけたところで、両足が地面に着いた。白に埋め尽くされていた視界が、次第に色を取り戻していく。視界に広がった光景は、床を覆う豪著な赤色のカーペットと、金の装飾が所々に施された白い壁紙の部屋。煌びやかな内装に合わせた色彩のテーブルや椅子が並べてあって、そのどれもが清潔に整えられている。
奥の方の壁には、私の等身ほどの大きな窓。少しだけ開かれたそこから入ってくる風が、備わったクリーム色のカーテンを揺らしている。はためく淡い色のもと、片膝を立てて行儀悪く彼女が椅子に腰かけていた。
高校から帰らされた……ようだ。ここはアマモが好んで使う空間の一つで、特に行きたい場所が無い際には、ああやって気怠そうにしているのが常だった。旅先で飽きたり、移動が面倒になったりした場合の帰還場所にも設定されているので、私にとっても見慣れた部屋である。そのため、ここへ戻ってきたこと自体はそう不思議では無いのだが――。
恐る恐る、視線を彼女から外して、室内をぐるりと確認する。
……案の定、ちょうど振り返った後ろには、私の親友であるミハネが呆然と立ち尽くす姿があった。
「え? ……あれ、私……学校に……?」
全くもって自分の置かれた状況が呑み込めていないらしい彼女は、きょろきょろと周囲を見渡して、ひたすら首を傾げている。突然、教室の中から豪華な造りの一室に飛ばされた一般人として、ごく当たり前の反応だ。
ぶすっとした表情で黙りこくっている彼女に向けて、大きくため息をついて見せた後、私は混乱しているミハネへと、優しい口調を心掛けつつ、喋りかけた。
「あのー……ミハネ? 落ち着いて聞いて欲しいんだけどぉ……」
「っ! トワ! よ、良かった!」
私の存在に気付いたミハネは、歓喜の声とともに飛びついてくる。とっさに抱き留めた私を、ぎゅうぎゅうと彼女は両腕で締め付けてきた。私の名前を連呼するその様子からは、ひどく怯えた感情が読み取れる。しっかり者のイメージの強いミハネといえども、空間転移という未知の体験は、正気を失うに十分だったのだろう。
濡れたその頬を拭いながら、「大丈夫だよぉ」、と声をかけて落ち着かせる。しばらく二人して抱き合っていると、がつんと異様な足音とともに、私のすぐ隣にアマモが降り立った。窓の椅子から跳躍したんだろうが、何をそんなに急いで――と慌ててそちらを向くと、氷のごとく冷徹な光を宿したその双眸が目に入った。
全身に痺れるような恐怖が走る。しかし、ここで黙ったら本気で殺される気がしたので、すぐさま私は口を開いた。
「や、これは単に友達を心配しただけで。というか、なんで私達の部屋にミハネまで連れてきたの? この子が特に気に入ったって話でも無さそうだし」
「……とりあえずその女から離れなさいよ」
心苦しかったが、このタイミングでは言い訳できない。いまだ震えの止まらないミハネの身体を私はそっと床に座らせた。近くに椅子があるにはあったが、そこへと連れていくのすらちょっと危うい。
「これで良い?」
「ええ」
アマモから感じられる殺気が、若干薄らいだことに心の中で一息つくと、「で、何でなのぉ?」と動揺を悟られないように注意しつつ聞いた。
「ムカついたからに決まっているでしょう。私に喧嘩を売ってくるとは良い度胸じゃない。白黒はっきりつけるまで、絶対にその女は逃がさないわ」
「そう……。珍しいねぇ、アマモがただの人間にそこまで苛立つなんて」
「あなたまで私を怒らせたいのかしら……。まぁいいわ。それは今に始まったことじゃないし」
言葉とは裏腹に、アマモのボルテージは下がってくれたようで、彼女の表情はいつものそれに戻る。この一か月、気まぐれ極まりない彼女と付き合ってきた私の賜物だ。
……しかし、ここまでミハネを連れてきたこともそうだが、先ほどからの態度を総合すると、アマモが嫉妬している――じゃなかった、私とミハネの交友関係に苛立ちを覚えているのは確実である。せいぜい私は愉快なピエロくらいだと思っていたのだが、少しは気に入ってくれているということだろうか。あるいは単に、自分の所有物である私が、他人に盗られることを危惧しているだけか。
どちらにせよ、今後のミハネへの対応は慎重にした方が良い。最悪、彼女を傷つけることすらも覚悟しないと――と考えて、いよいよ私もアマモの悪影響を受けてきたな、と自嘲した。まぁ……仕方ない、好きなので。
「白黒、ね。何のつもりか知らないけれど、まともにやったら勝負にならないでしょ。 それとも、さっきの言い合いをまた続けるの?」
ミハネはもちろん、一般的な女子高生に過ぎないのであって、私みたいな勇者ですらない。肉弾戦でアマモに挑めば、数秒で塵と消えるだろう。アマモはかなり好戦的な性格だが、ただの人間を自らの手でいたぶるような、つまらない作業は嫌っていた。
アマモはいったん近くの椅子へと座すと、額に手を当て何やら逡巡し始めた。ぶつぶつとときおり呟くその内容から、いかにして彼女を論破するかの策を練っているようだが……。正真正銘の女神様が、たかだか女子高生一人相手に、本気になって考え込むその様子は、当事者でなければ失笑ものとすら言える。
一人笑いを堪えていると、ようやく頭が整理できたらしいミハネが立ち上がり、こちらを見やった。しかし、その顔色は深い困惑の色に染まったままだ。少し状況を説明するくらいなら、アマモも許してくれるだろうと、私は一通りのことを伝えることにした。
「えぇ? こ、小林先生が女神?」
さしあたり『そこでうんうん唸っているあの子、実は女神なんです』、と言った私に対して、ミハネは開口一番そう答えた。もはやシュールとしか言えない返事に、笑い転げそうになるのをどうにか我慢しつつ、アマモにその旨を伝える。
「ああ、そういや暗示を解いていなかったわね」
ぱちん、と彼女がいつもの合図をすると、ミハネは「わっ」、とのけぞった。
「見えるようになった? あれが本来の姿――ってわけでもないからぁ……そう、いわゆる基本形態なの。ミハネをここまでワープさせた張本人」