五日目……⑧
もうもうと残骸の埃と煙が立ち上る中、真っ赤に輝くフェネクスはゆっくりとこちらを睥睨した。網膜を貫くとげとげしい色は、見ているだけで目が潰れそうなほど。まずいと分かってはいるが、堪え切れず私はまぶたを閉じた。
「逃れられると思うてか」
冷徹なその声に、私の身体はおこりに罹ったかのようにがたがたと震え始める。城の重厚な岩壁や、金属のテーブルを一瞬にして砕片とする威力。人体が触れればまばたきの間も耐えないだろう。今考えれば、部屋の鍵をかけたのは失敗だった。ここから飛び出すのに、無駄な隙が生じることになる――そんな猶予など、もらえるはずがないのに。
触れるキツネの体温はまだそこに。彼は一言も答えてくれない。はたから見れば、床に這いつくばったような無様な姿勢であろう私へと、一歩一歩フェネクスの足音は近寄ってくる。
「お願い……!」
目を閉じていても視える、ありありとしたその光る輪郭は、もはやこちらと一足の間合いも無い。今にもフェネクスの毒手が伸ばされる――直感は思考を痺れさせ、私の両手がひとりでに動いた。真下のキツネの両頬をがっしりと捉えて、その唇に。
「起きて! アマモ」
ふわりと軽く口づけを――しようとして、直前で止められた。
「時と場所を選びなさいよ。第一、この身体でやりたくないわ」
私のおでこを押さえたその手、彼の口調はいつも思い描いていた彼女のものに。とっさに開いた視界の中で、キツネはふっと挑発的に微笑んだ。
「いったん退くわよ」
その声を認識した時には、既に周囲の景色が変わっていた。フェネクスの燐光が消え、辺りを包むのは夜のとばり。伏していた石床のごつごつとした感触は、雑草の生い茂る草むらのそれになっている。思わず顔を上げた先には、直前までいた城が暗闇に淡く浮かび上がった。
「退いて。重いのだけど」
うざったそうな文句が下から聞こえて、私は慌てて飛び退いて立ち上がった。一緒に、キツネもやれやれと伸びをしながら、その私と目線を合わせる。背格好も、服装もそのままなのに、纏う雰囲気が全く違う。いや――あるいは元からそうだったのか?
「あ……アマモなの?」
キツネはそれに「ふん」、と鼻を鳴らして返すと、唐突に上着を脱ぎ始めた。それをぽんと投げ捨てて、下着の薄いシャツ姿になると、呆然と見入っている私を睨みつけてくる。
「何を見ているの。あっち向いてて」
「え、え?」
色々と状況に追いつかず、反応が遅れる私に、彼は大きく舌打ちする。同時に、私の視覚が無くなった。暗くて見えない――とかではなく、感覚としてのそれが消失したのだ。あたかも、眼球そのものがくり抜かれたような喪失感。
突然の仕打ちに生理的な吐き気が込み上がる一方で、しかし心の内にはじんわりとした安堵が広がりつつあった。なぜなら、このような悪辣極まりない乱暴を働いてくるのは、私の知る限り、彼女しかいないから。
口元を押さえて七転八倒することしばらく、「終わったわ」、と鈴の転がるような声が、私の耳を打った。キツネのものと明らかに異なる、少女特有の高い音程。
ぱちん、と指を鳴らす音が遅れて届き、視覚が何事も無かったかのように元へ戻る。見上げた私の前にあったのは、城の水晶に閉じ込められていたはずの彼女、アマモの姿だった。袖の短いトップスとショートパンツといった出で立ち。露出した手足や、突き出た胸元からは、暗がりでもはっきりと女性的な丸い身体つきがうかがえる。
「ど、どういうこと?」
「それはこっちのセリフ……。まぁいいわ。とりあえず今は、アレをどうにかするのが先ね」
会話をたったそれだけで打ち切ると、彼女はこちらに手を差し伸べてきた。
瞬間移動で退避したとはいえ、フェネクスが諦めたわけではない。今度はこちらから仕掛けよう――彼女の意図はもちろん理解できたが、どうしても前回のことを思い出して躊躇ってしまう。
ぐずぐずしているそんな私に苛立ったのか、ぴょんと飛び掛かってきたかと思うと無理やり抱き上げてきた。抵抗する間も与えてくれず天高く跳躍、夜空へと二人して舞い上がる。
あれだけ大きく見えた城は遥か下に、私を両腕に抱えた状態で、彼女は悠々と滞空してみせた。
まずは向こうの出方をうかがうつもりだろうか、などと私が考えていると、彼女はすっと右手を上げて、人差し指で眼下の城へと指し示した。
「アマモ! あそこにはまだ人が――」
私の言葉はあまりに遅い。彼女にとって、奇跡を振るうのは息をするのと同じなのだから。雲一つない上空から、幾筋もの雷が光った。落ちた先は無論、彼女が示したフェネクスの居城。認識できたのはそこまでで、直近で発生した落雷に、私の感覚はぐちゃぐちゃに撹拌される。爆発的な轟音と閃光。酷いめまいと頭痛が一度に押し寄せ、昨夜からずっと続いている気分の悪さとそれらが相まって、私の意識は白濁する。
なにより――アマモがまた人間を殺したことが……嫌で。
そんな状況じゃないとは分かっている。相手はこの世界の『神様』。アマモといえども、油断をすれば前回のように大怪我をすることになる。先制攻撃から全力を叩き込むのは、戦術的にも至極当然だ。
それでも……やはり私は人間で。苛む嘔吐感と罪悪感から、逃れられない。
「うるさい」
いつもと同じ、イラついた時の彼女の言葉。しかし、その口調はどこか……苦しそうにも聞こえた。それに今度は悲しくなって、いまだチカチカと明滅を続ける視界を必死に堪えて、私は彼女を仰ぎ見る。
「ごめん。私……」
謝ろうとして、それに気付く。視界の端に映った、落雷の衝撃によってがれきの山と化した城。あちこちに発生した火災に照らされて、おぼろげなくその光景が焦点を結んだ。
かつて大広間があったのであろう空間。そこに見えたのは、右往左往している大勢の人々の姿。突然、自分達が踊っていた豪華な広間が消失し、無残な廃墟と化したことに、ひどく混乱している様子が上空からでも伝わってくるが――それだけだ。誰一人として倒れている者はおらず、また怪我を負っていることもない。驚きのあまり、転倒している人はいたが、それも周囲に助け起こされている。
それらの事実がいったい何を意味しているのかなど、考えるまでも無くって。
「あ……アマモぉ……」
「だから、うるさい!」
嘔吐物にまみれた汚い私の頬を張り飛ばすと、彼女は急降下を始めた。城の一部、大広間から大分離れた箇所へと飛んでいく。近づいていくにつれて、私にもその目的が明らかになる。うず高く積もった壁や天井の破片の山から、弱々しい赤の光が覗いている。彼女はそこへ向けて一直線へ降りていき、たんと軽い音を立てて、近くのがれきの上に着地した。
てっきりそこで下ろしてくれるかと思いきや、私の身体からは手を離さず、そのまま目的地へと向けて歩んでいく。ついに眼前にまで到着すると、彼女はその光――フェネクスを残骸の山から、不可視の腕を用いて引っ張り出した。
念動力とでも呼ぶべき彼女の腕は、フェネクスの右脚だけを掴んでいるらしく、そこを支えに吊り下げられた無様な恰好で、赤い少女は姿を現した。ぼろぼろのワンピースは重力に沿ってめくれ上がり、露出した白い肌が近くの炎に反射している。……元は美しかっただろうその少女の肉体は、中途からずたずたになっていた。それ以上は視界に入れたくなくて、私は反射的に目を背ける。
「た……倒した?」
後ろを向いたまま、恐る恐る彼女に訊くと「ええ、まぁ」、とわりあいいい加減な答えが返ってくる。
「直に復活するでしょうから、またすぐ狙われても困るし、とりあえず封印しておくわ。かといって、そう酷い目に遭わされたわけでもないから、二億年くらいで良いかしら」
直後、ぱきんと固い物がぶつかり合う高音が響き、少し遅れて、重たい物が落下したような震動が起きる。草原の世界でのウロボロスの顛末を思い出して、あの水晶に閉じ込めたんだろうな、と想像がついた。
「さて――これで邪魔者は片付いた」
彼女は姿勢を変えて、私の上半身を持ち上げるようにすると、ぐっと顔を突き合わせてきた。暗闇の中、弱い光に照らされたその表情は、刃のごとき冷たい笑みに覆われている。
「じゃあ、話を聞かせてもらおうかしら。私が好きだなんだと口では言いながら、いざイケメンを前にしたらあのざま。私の雰囲気に似ていれば、男だろうが何だろうが良いってことよね?」
心臓を直接に素手で弄ばれる感覚に、ぞわりと全身が震えあがる。覗き込む彼女の瞳は、燃える朱色を湛えていた。




