四日目……①
王女様がお城で舞踏会を開催されるらしい。
いつものように屋敷の井戸で水汲みをしていた私に、メイドの同僚であるミハネがそう教えてくれた。釣瓶を引っ張り上げて、地面に並べた水がめ達へと移すのを繰り返す私の横で、屋敷の外壁やその周囲を掃除しながら、彼女は訊いてもいない話を続ける。
「何でも今年で十歳になることを記念してのパーティらしい。誕生日でもないってのに……ほんと貴族の頭は年中ハッピーね」
「そうだねぇ。ミハネ、こっち手伝ってくんなぁい? 疲れた」
時刻はいつの間にやら夕暮れの迫る頃合い、傾いた陽ざしが、屋敷の屋根から長い影を伸ばしている。朝からの慣れない(……?)、作業のせいで腰が悲鳴を上げていた。そもそも私は運動が得意じゃない。一時的に馬力は出せるものの、筋肉の使い方はいまだに慣れていない部分が多く、柔軟性や持久力には大きな問題を抱えたままだ。こんなふうな日常家事でも、人並みにこなせないことは多々あった。
「あなたはもう……。よくそんなのでメイドやってるな。ほら、貸して」
「ありがとぉ」
ミハネと場所を交代して、彼女から箒を受け取る。井戸周辺の庭を掃き清めて、落ち葉やゴミなどを片付ける。とりあえずはこっちの方が楽に思えた……が、屋敷の外周の広さを思い出して、自然と口からため息が零れ落ちる。
「嫌だなぁもう……。何でこんなことやってんだか。ねぇ、その舞踏会っていつあるのぉ?」
せっせと釣瓶を操作しているミハネの背中に喋りかけると、彼女は「明日だって」、と気怠そうに返した。
「急な話のせいで、家の方は準備に大忙しよ。たぶん、今日の晩はまともにご飯も食べられない」
「ひょぇえ。人使い荒! 横暴だなぁ……」
ぶつぶつと愚痴っていると、何だか疑問符がいっぱい頭に浮かんできた。私、そもそも何でメイドなんか始めたんだっけ? 身体を動かすのは嫌いだし、人と話すのも苦手だし、およそ使用人としての素養に欠けている。もっとも、この二つが不得手だと、たいがいの仕事は向いていないことになるのだが……。しかし、私達は現にこの屋敷の元で、メイドの仕事に就労している。
着ている服も、紺と白のエプロンドレス――各部にはさもメイドっぽい古めかしいアクセが備わっていて、頭にはご丁寧にカチューシャまで付けてある。身長が高くて、顔立ちが怜悧な印象のミハネにはとても良く似合っているのだが、私のそれは鏡を見るのも恐ろしい。
ん……? でも、いつ着替えたんだっけ。
「屋敷に仕えるメイドなんだから、仕方ないでしょ。さぁ、もう汲み終わったから。ちゃっちゃと運んで」
思考は霧に包まれたかのようにぼやけていて、どうも違和感が拭えない。てきぱきと水汲みを終えてしまったミハネと対照的に、私はまだ一度も箒を横へ動かしてすらいなかった。捉えどころのない疑念をどうにか消化したくて、質問を彼女の背にぶつける。
「ミハネぇ。私達って、いつからメイドやってたっけ?」
「は? そりゃあ……生まれた時からじゃない? いや、違ったかな」
……頭の回転の速い彼女にしては、やけに歯切れの悪い回答だ。頭のもやもやを解決したくて尋ねたのに、いっそうそれらの不透明さが増してしまった。生まれた時からなんて答えは有り得ないと、ミハネならすぐに分かったはず……。
箒を握る自分の両手に見入る。縦に長方形型の歪みの無い爪と、しわや節くれだったところなど一つもない五本の指。果たしてこれが、きつい家事炊事に従事してきた者の手だろうか? ミハネにしたってそれは同じで、全体の手際こそ良かったものの、釣瓶を繋ぐ荒縄を何度も引っ張った彼女の素手は、真っ赤に痛々しく腫れていた。
「ぼさっとしてないで。庭掃除は私がやるから、あなたは早く水がめを戻しに行って」
「はぁい」
しかし結局、脳裏を埋める種々の謎への解答は出ず、ミハネに急かされた私は水がめの二つを担いで屋敷の裏口へと向かって、えっちらおっちら歩き始めた。両腕にのしかかる大石のごとき水の重みに、やるせない気持ちが膨らんでいく。一度に持てるのはこれが限界、全部で六つあるから、三セット行き来する必要がある。メイドというのはそういう仕事だとは知っていたが、実際にやってみるのとは大変な違いだ。
物語ではよくある設定だが、年少の女子が好き好んでやるものじゃない。少なくとも、十数年ベッドで寝たきりだったような奴は……と頭の中でぼやいて、思わず「あれ?」、と独り言が出た。
「いやいや……。おかしいでしょ」
もう誤魔化しようがない。どう考えても私は生粋のメイドではない。あまりにも状況に矛盾が多すぎる。その……はずだが。どうしても思考がそこから先へ進まない。考えようしたら、頭の中でゴンゴンと割れ鐘が響き渡って……。
突然の頭痛によろめいた拍子に、抱えていた水がめを落としてしまう。柔らかな地面の上、丈夫な水がめは何とか落下の衝撃に持ち堪え、さらにミハネがきつく蓋を填め込んでくれていたお陰もあって、水の方も少量零れただけで済む。しかし、落下した先がまずかった。片方の水がめが足の甲を直撃、猛烈な痛みを覚えて、私は地面に転がった。
両足を抱えるような無様な恰好を続けることしばらく、どうにか再び立ち上がって、水がめ達を抱えなおし――私は首を傾げた。痛みと情けなさで、直前のあれこれは完全に忘却の彼方へと去っていた。思い出そうとしても、何を忘れてしまったかがまず分からない。
「変なのぉ」
不思議だ妙だと、そんな単語が頭の中で残響している。立ち止まっていた私の背中に、再びミハネの注意が飛んできて、仕方なくそれらを隅へと追いやった。
屋敷の見た目はいかにも文明の発達していない中世といった風の豪著なレンガ造りで、敷地の面積だけなら普通の民家の数倍はありそうだ。三階建ての外観は丁寧に塗装されていて、雑草やひび割れの影もなく、常日頃からたゆまぬ手入れが為されていると見受けられる。これらに庭の掃除、管理までを含めると私とミハネだけでは到底、手が回らない。この屋敷には何人メイドや執事がいたっけな……と思い出そうとしたら、鐘の音が聞こえ始めたので、すぐに止めた。
ひとまず何も考えないように努力しつつ、裏口である簡素な木製のドアを開けて、私は屋敷の中へと入った。
広がっていたのは木箱や樽が雑然と積まれた薄暗い物置部屋。照明は設置されていないらしく、小さな窓から差し込む落ちかけの太陽の日差しだけを頼りにして、私はそろそろと慎重に進んでいく。確か、ここに置いてこいと言われた気がする。
水がめをいっぱいに抱えているせいで、ただでさえ暗い倉庫の中、足元の視界が非常に悪い。あまつさえ缶やら工具といった細々とした物が床に点々としているので、これではもうつまずいて転倒してくださいとお願いされているようなものじゃないか……と歯噛みしながらも一歩一歩進んでいく。
先ほど打った足の甲が、まだじんじんと痛んでいる。自身の苦痛にはあれやこれやの経験で慣れているからそれは大丈夫なのだが、ここで水がめを落とせば、さすがに割れるのを免れない。せっかく注いだ水をふいにしたらミハネも怒るだろうし、どこかから見ているだろうアマモにも大爆笑されてしまう……といった考えが頭を過ったその瞬間、私は盛大にもんどりうってこけた。
「そう、アマモ……!」
止まっていた回路へ電流が走ったかのように、眠っていた記憶が一気に蘇ったからだ。アマモ……そう、私はメイドなどではなく、彼女の勇者で――。
脳内の霧がさぁっと晴れていく爽快感……しかし眼前の現実がそれによって変わるわけもなく。とっさに床に手をつこうとした私は、両腕の荷物をまるっと解放していた。
無論、物理法則にのっとって、二つの水がめは放物線を描いて飛んでいき、倉庫に置かれていたいかにも固そうな木箱の角へと激突する――かと思いきや、しかし破壊音は聞こえなかった。
直前で、暗がりから現れたその人が、手品のごとく華麗に捕らえてくれたからである。両手で抱えるほど大きな水がめの、その二つともをそれぞれ片手だけで下から支え、あたかもリンゴでも持っているような気楽さで、彼は私の方へと進み出た。




