三日目……⑤
「アマモぉ……! 助けて!」
一か八かの、恥知らずの賭け。
なぜ彼女が迎えに来てくれないのか。その仮説は実のところ、もう一つ頭にあった。単に彼女が気付いていないという可能性――あの子は割と抜けているところがあるから、私の所在を見失ってしまったんじゃないだろうか。
世界を自由に転移できるといっても、『私がいる場所』みたいな抽象的な移動は不可能だと以前に聞いたことがある。つまり、迎えに来ようにもどこへ行けば良いのか分からなかったわけだ。
また、ウロボロスの作った建物内に私が閉じ込められている、という点も気になっていた。
アマモの具体的な探知能力は不明だったが、彼女と敵対しているウロボロスがそれを、私をこのビルへ閉じ込めることによって、妨害していると考えても何ら不思議ではない。最初に会った時に彼は私の口を塞いだが、以降は特にそういった行動に出ていないことも、それを裏付けている。
だからこその博打。どうにかして、このビルから出さえすれば、アマモが迎えに来てくれるんじゃないか? そんな私の、いわば妄想。でも、決して破れかぶれの特攻なんかじゃない。なぜなら、どっちに目が出ようとも、私は後悔なんてしないから。
彼女が来なかったら、無論、地面に落ちて死ぬ。それは納得ずくの、ごく当たり前の結末で。彼女に要らないと思われているのなら、私はそれを受け入れるだけだ。
でも、もしも何かの間違いで彼女が来てくれるのなら、その時はきっと――。
くるくる回る身体と視界。全身の血液が凍り付いていくような感覚に、意識はもう消えかけている。ときおり見える地上の光景はぐんぐんと迫ってきていて、ごく間近に感じる死の気配に、私はついに目を閉じた。
「神様――」
そして、祈った。次に開いたその時に、目の前に彼女の笑顔があったなら、どれだけ幸せなのだろうと、馬鹿みたいな夢を込めて、ひたすら天に。
「そこは」
耳元でその声が、聞こえた。
「私に祈るところでしょう。普通に考えて」
空から降りる光が照らす、神々しいまでの瞳の輝き。その身を包むのは、あちこちをフリルで飾られた純白のミニドレス。背に広がる翼はないけれど、重力なんて一切無視して、軽やかに私を抱き留めたその人は、天使のようにしか見えなかった。
「どこ行ってたのよ、あなた。さらわれでもしたのかと思って、散々探し回ってたけど、急に空から落ちてくるんだもの」
相変わらずのつっけどんな口調に、脳がとろけるような安堵感を覚えつつ、やっぱりビルが見えていないのか、と腑に落ちる。いくらウロボロスの手際が良かったとはいえ、直前までいた世界にこんな怪しげな建造物があれば、違和感を覚えるはずだ。
彼女から目線を外すのは非常に心苦しかったが、一応、さっきまで私がいたビルの方を向いてみる。やはりと言うべきか、そこには何もない中空が広がっているだけだった。おそらく、外側からは認識できないような細工が為されていたのだろう。
「アマモぉ……。私……あ、謝りたくって……!」
結局のところ、全部、私の勘違い。勝手に捨てられたと思い込んで、飽きられたんだと諦めた。でも……でも、彼女はこんなに近くに、いてくれたんだ。
「ご……ごめっ、ごめんなさい……」
だいたい言葉にならなかったその謝罪を、彼女は「だから違うってば」、と一蹴した。まさしくその通り、私はいったい何度間違えるんだ、と心底自分が嫌になりつつも、私はあらためて口にした。
「ありがとう。アマモ。助けてくれて、嬉しいよぉ……」
涙やら何やらのせいで、まともに発音できたかは怪しかったが、彼女はそれを聞いて、一瞬、花が咲いたように、にっこりと微笑んだように見え――すぐに「遅い!」、と怒鳴った。
「何なのよ、全く……。まぁいいわ。そういえば、あのミハネとかいうのは?」
「あ、ごめん。ミハネ、帰っちゃった」
そう伝えると、彼女は「はあ?」、と素っ頓狂な驚き方をして、ぷりぷりと怒り始めた。まだ勝負は決着していないのに放り出して逃げた――だとか、せっかくここまで準備したのに――と言って、目じりを釣り上げてみせる。ころころ色を変える彼女の横顔に、何で最初から気づけなかったんだろう、ととてつもなく後悔した。ミハネと始めた例の勝負――彼女は本気でやり遂げるべく、こんな世界にまで足を運んだのだ。
ふんわりと私を抱えてくれている腕の感触に浸りながら、そんなことばかりを考えていると、ふいに彼女は方向変換をして、確かビルのあった方へと向く。そうだ――まだ、ウロボロスが残っていた。
顔を上げて、中空を見渡していると、あの黒いスーツ姿が上の方から降りてくるのが見えた。ただし、襲ってくる様子などはなく単に、こちらへと向かってきているだけに思える。
「ねぇ、あの……」
「分かっているわ。あなたが出る幕じゃない」
アマモはそう私を押し切ると、ふわりと加速して、こちら側からウロボロスへと接近していく。ややあって、高度を合わせた二つの『神様』が向かい合った。
「何か私に用事?」
「……それは僕が言うべきセリフじゃないか? 勝手に入ってきたのはそちらだろう」
のっけからいつも通りの態度をぶつける彼女に、ウロボロスはやれやれといった調子で、肩をすくめる。お互い、まだ特に殺気立った様子は見受けられない。アマモにいつぞやみたく、両手に抱えられた状態の私は事の成り行きを、固唾を呑んで見守るばかりだ。
「いい天気だったから、日向ぼっこでもしに来ただけ。たったの一日くらい良いでしょう。他に言いたいことが無いのなら、私は帰らせてもらうわよ」
「無理な相談だね。君に壊されたあのゴーレム。いったいどれだけ時間をかけて作ったと思っているんだ」
小物じみたことを言い出したウロボロスだったが、やはりその声色は荒立つこともない、平板なままで変わらず、単に難癖をつけて彼女を引き留める、といった程度の意図のものだと思われた。といっても、彼がアマモの被害を受けたのは事実ではある。私が不安げに見上げた彼女はしかし、臆面も無く「私のせいじゃない」と言い放った。
「あっちから襲い掛かってきたんだもの。正当防衛よ」
「……なるほど。あくまで、自分に非は無いと、そう言い張る腹積もりか。他人の世界に勝手に乗り込んだ挙句、防壁と土地を破壊したお前が」
話は平行線の一途をたどり、彼女に触れている部分から、その苛立ちが伝わってくる。彼女は確かに偉大な能力を有した女神ではあるが、正直なところ、その思考回路は結構、残念な方だ。しばらく一緒に過ごして分かったが、察しはあまり良くないし、思い込みも激しいせいで、予期せぬ方向へ話が逸れることが多い。つまるところ、我の強い単純な精神構造で、こういった交渉事にはまるで向かない性格である。
だから、彼女が「もういい。邪魔するのなら――」、と言い出したのは必然とも言うべき結果であって、私はいっそう強く、その柔らかな身体にしがみつき、次にきたる衝撃へ備えた。
「しばらく消えてなさい」
一方的な通告とともに、ただ彼女が一睨みしただけで、巨大な紅蓮の炎が突如、ウロボロスのいたあたりを包み込んだ。押し寄せる余波の熱気が私の頬を舐め、とっさに彼女の着ているふわふわの真白に顔を埋める。花のようなかぐわしい香りが脳天まで突き抜けて、一瞬、状況を忘れかける。
「どこ触ってんの」
「ご、ごめ」




