第十九話
ボランティア部の部室から数メートル、三階に降りる階段の踊り場に扉があり、そこを開けると『ロ』の字型になった空間、通称『中庭』がある。七メートルの高い壁に囲まれながらも天井がないその場所は落下の危険が無い事と――まあ、女子高なんで無駄によじ登ったりする『やんちゃ』な子も殆どいない事から一般に開放されていたりする。尤も、一般の校舎からは少し離れている上に、別に風が吹き抜ける訳でもないし、殺風景なその空間を好んで訪れる人間は少数派だ。
「……はあ」
そんな『中庭』にお義理程度に置かれたベンチに腰掛け、アンは小さく溜息を吐く。ここ一週間、散々練習しても全然上手くならない自分に嫌気と……そして、なんとも言えない矮小さを抱えたまま、項垂れる様に視線を落とす。
「……巧くならない、な~」
エリカは新しい脚本で生き生きと演技をしている。コズエだって、気怠そうにしながら、でもそれが味となっている。二人とも名女優とは言わないまでも、それでも幼児相手の素人演劇ならば十分合格点が出せる演技が出来る様になっていて。
「……」
そして、それが一層アンを責める。では、自分はどうだ? と、自身の内なる声がずっとアンを責め続ける。
「……失敗したら、どうしよう」
一向に巧くならない演技。心を籠めようとすればするほど空回り、迷惑を掛けないようにしようとすればNGの嵐。その現状が、ちゃくちゃくとアンの心を蝕む。自分には全く価値がない様な、そんな錯覚すら覚え――『あの時』の様に、また誰かの、それも一番大事な友人達の足を引っ張ってしまったらどうしようと、そればっかり考えて。
――だから、だろう。
「お疲れ様、アン」
思わず頭上から掛かる声に、今まで気配すら感じて無かった自分に驚きながらアンは顔を上げる。そこにはスポーツ飲料の缶を持った見慣れた教師の姿があった。
「あ……ロッテ先生?」
「これでも飲め」
「あ、ありがとうございます。ええっと……お金は?」
「自身が顧問を務める部活の生徒にジュースを差し入れするぐらいは普通だと思わないか? 心配するな、エリカと松代にも差し入れをした。尤も、エリカにはセンブリ茶だがな」
「……なんでウチの高校ってセンブリ茶の缶ジュースが売ってるんでしょうね?」
「理事長の趣味らしい。健康と美容に良いらしいからな、アレは」
「理事長……ふふ、分かりました。それじゃ、遠慮なく頂きます」
嬉しそうににっこり笑い、アンは缶ジュースのプルタブを開ける。中学時代以来、出し慣れない大声を出したりなんかしたせいでカラカラの喉に、冷たいスポーツドリンクが染みる。思わず叫びだしたい程の美味さに頬が緩んだことが恥ずかしく、その仕草を見られていないかとアンが視線をロッテに向けて。
「…………なんです、そんなニヤニヤして」
「失礼な、ニコニコと言え。なに、アンが美味しそうにジュースを飲んでいる姿に『ほっこり』してな」
そう言ってにこやかな笑みを浮かべるロッテ。その姿をしばしジトッとした目で見つめた後、アンは小さく溜息を吐いた。
「……クビになりますよ、ロッテ先生?」
「……」
「先生?」
「いや……アンに心配して貰ってる、と思ったら……少しばかり感動を覚えてな」
「訂正、クビになってしまえ」
感極まった様にそんな事をのたまうロッテにもう一度ジトッとした目を向けた後、アンは小さく溜息を吐いた。そんなアンを優しく見つめたまま、ロッテは口を開く。
「……少しは気が晴れたかな?」
「……何のことでしょうか?」
「なに、最近ふさぎ込みがちだと思ったからな。こういう冗談も久しぶりだろう? 少しは息抜きも必要かと思っただけだ」
相変わらずの優しい視線と微笑み。そんなロッテの態度が、なんだかアンの心に刺さる。
「……済みませんでした」
「……ふむ。何に対する謝罪かな?」
「その……主役なんて出来ないとか我儘言って……それに、脚本まで書き直させて。あの、本当にご迷惑をお掛けしました」
ロッテに向き直り、スカートの上で両手をぎゅっと握りしめたまま頭を下げるアン。その姿を見つめ、ロッテはそっとアンの頭に手を置いた。
「……構わんさ。私は私のやりたい様に、やりたい事をやっただけだ。君が責任を感じる必要はない」
「……でも!」
「どうしても申し訳ないと思うなら、しっかりとこの演劇をやり遂げる事だな。それが一番の『謝罪』だ」
「……はい」
ロッテの言葉に頷き、顔を上げるアン。
「……済みませんでした」
――心が、悲鳴を上げる。
「私……もう、逃げません」
――痛い、痛いと、悲鳴を上げる。
「ちゃんと、頑張ります」
――もう、頑張れない、と。
――もう、逃げ出したい、と。
そんな自身の弱い心を隠すよう、意思の籠った瞳でそう告げるアン。その姿に、ロッテも相互を崩して。
「いや、別に逃げるのを責めるつもりはないぞ?」
崩さ、ない。そんなロッテの言葉に、アンがポカンと口を開けて見せる。
「………………はい?」
「目の前の問題から逃げ出さない、というのは非常に立派な事だと思う。無論、その問題を解決する為に努力を行うのも否定はしない。いや、むしろ胸を張って良い行為だとは思う」
「え、っと……」
「だがな? 別に全てが全て、一人でこなす必要も無かろう? 苦手な事があれば誰かに頼れば良いし、出来ないことは誰かに助けて貰えば良い。その案件を『自分で』解決する事に拘るのはむしろ愚の骨頂だとすら思う。我々は神ではない。出来ないものは出来ないと認めてしまっても良いと思うぞ?」
相変わらずのポカン顔。が、それでもはっと何かに気付いたようにアンは声を上げた。
「で、でも!」
「私が一度でも言ったか? 『主役を降りるのを許さない』と」
「……あ、はい。言ってません」
そうだ、言ってない。どちらかと言えば言っていたのはコズエだ。
「……じゃあ、なんで先生は脚本まで書き直して私に主役をさせようとしたんですか?」
「アンが主役の方が筆が乗る、と言いたい所ではあるが……いや、それも真実なのだがな。だがな? 逃げる以上は、逃げた先に『何か』があって欲しいと思ってな。今の君にはそれが無いだろう? だから、やって欲しいと思っただけだ」
「……何か?」
「私の……そうだな、旧友に剣術の達者な男がいた。私が文でそいつが武、自分で言うのもなんだが、フレイム王国の両輪としてお互いに切磋琢磨して来た」
「……」
「無論、私だって手を抜いた訳では無いし、そこそこ強かった自負もあるが……だが、所詮は文官に過ぎん。本気のそいつと剣術で勝負をすれば、私は一刀の下に切り伏せられていただろう。命を懸ける剣術などやった事も無いしな。だがな、アン? それを持って……ただ、剣術が弱いという一事を持って、私はフレイム王国では役立たずだっただろうが?」
「そ、そんな事は無いと思います!」
「ありがとう。私は剣でその男に負ける以上、内政や外交、財政ではそいつに影すら踏ませんと思って政務に励んでいた。まあ実際そいつは私と張り合おうなどと思ってすら居なかっただろうが……それでも、絶対に負けんと思っていたさ」
そう言ってロッテはふんわりと笑う。
「……だからな、アン? 別にいいんだ、演劇なんかできなくても。何かで誰かよりも秀でたモノがあれば、それで良いじゃないか。演劇が出来ないなら、勉強を頑張れば良い。勉強が苦手なら、スポーツを頑張れば良い。スポーツも得意ではないなら絵を書いても良いし、美術が『1』しか取れないなら、小説を書いても良い。自分に向いていないと感じ、そしてそう思ったなら逃げても良いんだ。別に全部自分でやらなくても、得意な人に丸投げしても良いんだ。その代り、その人の代わりに君が何かを為せば良いんだ。逃げるのは恥ずかしい事でも情けない事でもないんだよ」
もう一度、優しく笑う。そんなロッテをしばし呆然とアンは見つめて。
「……そんな事、言われた事ありませんでした」
「そうか」
「……その」
「うん?」
「……あるでしょうか、私にも。誰かよりも秀でた様な……そんな、素晴らしいモノが。誰かの為になる様な、そんなモノが……」
あのでしょうか、と。
「それを探すのが、『学校』という場所だよ、アン。無論、勉強は重要だろう。この国のシステム上、勉強は出来ないより出来た方が良い。だがな? それは言ってみれば『保険』の様なモノだ。自分に向いているものを見つけるというのは中々に困難だからな。見つかればラッキーだが、見つからない可能性も考えれば取りあえず勉強をしておく、というのがベターだ。だがな? 所詮はその程度のモノなんだよ、勉強なんて」
消え入りそうなアンの声に、ロッテが力強く言葉をかぶせる。
「まあ、個人的に私は君は誰よりも優しい子だと思っている。人の心配が出来て、人の為に動く事の出来る子だと、そう思ってる。それは、何よりも素晴らしいモノだと、本心から思っているさ」
「……」
「……少し話がそれたな。とにかく、アン? 別に逃げても構わないさ。やってみて、『向いてない』と思えば逃げるのも構わん。だが、チャレンジくらいはしても良いのでは無いか? もしかしたら、秘めた才能があるかも知れんしな」
「……はい!」
「よし、いい返事だ」
そう言ってにこやかに笑むロッテに、アンも少しだけ照れくさそうに『えへへ』と笑う。そんな姿にもう一度アンの頭を撫でた後、ロッテはアンの隣に下ろしていた腰を上げる。
「さて、それではそろそろ行こうか? エリカが『アンは何処でサボってんのよ!』と怒り心頭だったからな」
「うぐ! な、なんでそれを先に教えてくれないんですか、先生!」
「良いじゃないか別に。エリカなんて怒らしておけば」
「良い訳ないでしょう!」
そう言ってアンもロッテに倣う様、座っていた椅子から腰を上げた。
「さあ、アン? 行こうか」
「なんで手を差し出すんですか!」
「いや、なに。折角だからエスコートでもしようかと」
「中庭から出るのにエスコートなんていらないです!」
そう騒ぎながら、アンは少しだけ、でも確かに自分の心が軽くなったのを感じていた。




