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「……それがどうした?」
としあきは平然と応える。
人質を殺せる筈が無いからだ。
敵の立場で考えればわかる。
自分の命が惜しいから人質を取って脅す。
そこでもし人質を殺してしまったならばどうなるだろうか?
人質が居るせいで自分に手を出せないということは、これすなわち、人質が自分の命を守る盾となっていることを意味する。
その状態で人質を殺してしまうことは、自分の命のパスポートを自分の手で捨て去るに等しい。
としあきは「ずい」と一歩踏み出す。
「ひ、人質がどうなってもいいのかッ!
娘の顔を二目と見れない顔にしてやってもいいんだぜ!」
人質を傷つけることも同様だ。
「娘がこんな状態になってまで生きているよりは、いっそ殺してあげた方がせめてもの情け」と人質の親族が判断するようなことを犯人ができるはずもない。
人質の身柄を「これでは死んでいるのとほぼ同じ」と人質の家族が判断する状態にしてしまえば、人質は死んだも同然で、そんなことをすれば逆上した人質の家族たちによってたかって人質諸共殺されることになるだろう。
だから、人質を取った犯人は人質を殺せない。……代わりになる人質がいない限りは。
「くっ、来るなッ!
娘が嫁に行けなくなってもいいのかよッ!?」
「……その時は、俺が責任を取って嫁御として貰い受けよう」
としあきは表情を変えることなく一歩、また一歩……
「くっ……」
賊は人質の娘を左腕に抱えながら庭へと下りる。
としあきは賊を追った。
賊は視線を左右に揺らして暫しの逡巡の後、意を決してにたりと笑った。
娘をとしあきに向けて突き飛ばす。
つんのめるように転げ込んでくる娘がブラインドになり、賊の動きが読めず判断に悩むとしあきだが、その時に閃いてくるものがあった。
――こいつの目はあの時の浪人者と同じだ!
一瞬のフラッシュバック。
この時代に転移した日の夜、浪人者との立会いで何が起きた?
――そうだ。目潰しだ。
夜の闇の中で飛んでくる土くれなどを視認できるはずもなく、賊の視線と娘の動きから見当で身を躱す。
顔の横を土くれが通り過ぎた。
娘がよろける。
その横を抜けたとしあきは賊の胴を手にした得物で薙いだ。
鈍い音がする。
賊が倒れこむ。
としあきが賊の頭に木刀を撃ち込む音。
静寂が戻ってきた。
啜り泣きの声がする。
としあきは娘を抱え上げて座敷に連れていった。
店の主人は娘の無事を確認すると我に返ったように使用人たちにてきぱきと指示を下した。
番頭の一人が番屋へと駆けていく。
四半時ほどすると町方役人達が押っ取り刀で駆けつけてきて、主人やとしあき達店の者は事情を聴かれることになった。
「……ふぅ」
町方同心による長々とした事情聴取から解放されたとしあきは息を吐く。
あの凶賊達をどうやって倒したのかやたらと聞かれた。身を挺して主人を守ったお手柄ならしい。
事情聴取にあたった同心によれば店を襲ったのは蛇の権蔵なる凶徒どもで、押し入った商家では老若男女拘わらずみな手籠めにした上で一家皆殺しという残忍非道な振る舞いをするということだった。
後日、としあきに御奉行様よりお褒めの言葉があるだろうと言い残して役人達は立ち去った。
ともあれ、この夜から店の者がとしあきを見る目が一変した。
店の主人はとしあきを娘の婿にと望み、婚礼の日まで商人としての修行を積ませると言い出した。
そうして始まった修行の日々の中で、としあきがふと呟いた一言から店の主人が複式簿記を編み出す一幕もあったがここでは割愛する。
「面を上げよ」
数日後、江戸北町奉行所に呼び出されたとしあきはお白州で北町奉行諏訪美濃守頼篤様より褒賞を受けていた。
ちなみにこの時の南町奉行はあの大岡越前守忠相である。
「としあきとやら、その方、使用人の身でありながら身を挺して主人を守るはまことに殊勝である。
よってここにお上より金子を下し置かれることとなった。謹みて受けるがよい」
としあきは平伏する。
「時にとしあきとやら――」
ここで御奉行様がくだけた調子になる。
「――何か望む事はないか?」
御奉行様の問いを受けてとしあきは顔を上げる。
「畏れながら、申し上げます。わたくしは剣の修行がしとう御座います」
これを聞いた御奉行様が手に持った扇子で自分の膝を叩く。
「よくぞ申した! 西浦屋へは儂からも直々に申し伝えておく。そちの願い、聞き届けたぞ!!」
としあきは平伏した。
こうしてとしあきは、御奉行様の口添えもあって、西浦屋主人より剣の修行の許しを得る。