表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
罪と嘘  作者: 水沢理乃
9/38

恵吾と美咲の罪02

 それから数ヶ月が経った昼休みの社内。窓からは初夏の風が柔らかく吹き込んでいた。私が弁当箱を鞄から取り出そうとすると、恵吾が慌てた様子で近づいてきた。

「田辺さん。今から急ぎで外出れる?急遽、打ち合わせが入ったんだ」

 私は取り出しかけた弁当箱をそのまま鞄に戻し、恵吾に向き直る。

「大丈夫です、今すぐ出れます。相手方はどちらの会社ですか?」

「北泰製造。別件で来日したらしいんだけど、うちとの連携案について詳しく話を聞きたいとさっき連絡が入ったんだ」

 当時、恵吾と私が勤めていた電気製品の製造会社は、国内製造の一部を中国に移したいと考えていた。そんな中、依頼先の第一候補に挙がっていたのが『北泰製造』。

 北泰製造は中国で部品などを専門に製造していて、信頼性の高く評判が良い会社。本来なら当社から中国に出向いて説明しないといけないのに、来日ついでにわざわざ向こうから連絡をくれるなんて、なかなか熱心な会社だと私は思い、打ち合わせへの気持ちが引き締まった。

 私はすぐに外出する支度を済ませると、恵吾の運転する車に乗り込んだ。

「突然申し訳ない」

 車を発進させた恵吾が謝る。

「いいえ、仕事ですから」

 私は笑顔でそう返した。

「これが北泰製造の資料だけど、読む?いや、もう読んでるかな‥‥」

 恵吾はダッシュボードに置いてあった資料を取ろうとして、手を引っ込めた。

 恵吾はおそらく、その資料に目を通したばかりだったのだろう。クリアファイルに入った資料が不揃いに押し込まれていた。

「はい。その資料は何度も拝見してますし、企業情報やクライアント名は暗記してます」

「‥‥‥助かる。ありがとう」

 少し気を張り気味だった恵吾が肩の力を抜いてくれたのが分かった。

 その会社で主任を勤めている恵吾はとても多忙な人だった。それまでこなしていた国内の仕事以外に、更に海外関連の仕事も任されることになり、関わる人達が目まぐるしく増えたらしい。

 長く付き合いのある得意先ばかりなら良いけれど、初対面の人も多い上に、国籍を越える相手であることも増えて、話し相手の範囲は広い。相手方の情報をインプットするタイミングは前日か当日くらいしか作れないし、直近にインプットしないと、取引中に誰と話しているのか混乱する不安があると話していた。

 その会社での私の担当は中国語の通訳だけだったから、関わる取引先は限られていて、関係しそうな取引先は事前に資料を渡されていた。だから私は把握するのも容易かった。

「派遣初日の田辺さんの第一印象が期待出来なかっただけに、ここまで仕事熱心で優秀だと凄く嬉しいよ。一緒に仕事していて心強い」

「‥‥‥もう、あの日のことは言わないでください。恥ずかしいですから‥‥‥」

 私は恵吾と初めて会った初日、恵吾の前で泣いてしまったことを思い出して、顔を伏せた。同時にあの日、キスをされたことも思い出す。

 あのキスから恵吾との関係はどうなっていくんだろうと私は甘い期待を抱いたけれど、なんてことはない。あれから数ヶ月経っていたけれど、何も変わっていなかった。

 私は恵吾のことが気になって仕方なくて、社内に居る恵吾を密かに目で追っていたし、2人きりで外勤する時があれば、何か続きが起こるのではないかとそわそわしていた。

 それなのに恵吾の態度は上司と部下、話方と通訳、社員と派遣と一線を引き、私のプライベートに入ろうとする素振りを見せないし、私が恵吾のプライベートに踏み込める隙すら与えてくれない。何事もなかったかのように接されると、あれは私の記憶違いだったのではないかと思わされていた。

 視線を交わした後の2度目のキスは2人して同時に恋に落ちたと思ったのに、恋に落ちたのは私だけで、恵吾はきっと魔が差して堕ちただけだったのかもしれない。自分だけがあのキスに振り回されて、恵吾が作った罠に落とされたような気分にさえなっていた。



 取引先との打ち合わせでよく利用していた日本料理屋の個室。北泰製造の職員と顔合わし、私は相手方の名前と役職を恵吾に耳打ちした。

 恵吾がニコニコの営業スマイルを作って話し始めたら、もう後は流石としか良いようがない。彼の素晴らしいトークやジョークが相手方の心をすぐに掴んでいた。

 私は恵吾の言葉のニュアンスを崩さず中国語に通訳することに頭をフル回転させるけど、自分が気の利いた台詞を話せるようになった気分がして、通訳することが楽しかった。


 2人は無事急に飛び込んだ打ち合わせを終わらせた後、やり遂げた達成感に満ちて、車に乗り込んだ。私は助手席に座り、ふぅと息を吐くと、「ぐぅ~~」とこれまた気の抜けた腹の虫まで鳴いてしまう。私は一気に頬が赤らみ、慌ててお腹を手で抑えた。

「あははっ!」

 恵吾が途端に笑い出したので、余計に恥ずかしくなって、思わず助手席のシートに顔を伏せる。穴があるなら今すぐ入りたいというのはこのことだと思った。

「田辺さん、耳まで真っ赤!可愛い!」

 真っ赤になっている私の耳や頬を覗き込んだせいか、恵吾の身体の体温を背中に感じる。

「からかわないでくださいっ‥‥‥」

 私は近付いてきた恵吾の身体にぶつからないよう、更に助手席のシートの端に身体を丸めて寄せた。そして、早く運転席に戻ってと念じる。

 鼓動がどんどん高鳴り出していて、自分ばかりが意識していることを恵吾に気付かれたくなかった。その念が通じたのか恵吾はゆっくりと身体を起こして、運転席に座り直してくれて、私もゆっくり身体を起こして、助手席に座り直す。でもまだ顔は火照っていて、顔をあげることは出来なかった。

「もしかして、お昼ご飯まだだった?」と恵吾に言われ、そういえば弁当を食べてなかったんだと思い出し、 おもむろに鞄に手が行く。

「それ、田辺さんの手作り弁当?」

 恵吾にそう言われてから、自分が無意識に弁当箱を手にしてしまったことに気付いた。これじゃあ、お腹が空き過ぎて我慢できない子供みたいだと、失態続きの自分にげんなりする。

 でも恵吾はそんな私を気にする様子もなく、「お弁当食べれそうなところ、行こうね」と優しく笑ってくれた。胸はすぐにキュンと締め上げられていた。



 近くの公園に向かい、私達は車を降りて、公園のベンチに向かう。ベンチに座ると恵吾は手に下げていたコンビニ袋からおにぎりとサンドイッチを取り出した。

「遠野さんも食べてなかったんですか?」

「うん、僕も食べ損ねてた。忙しいと食べてないことすら忘れちゃうんだよね」

 昼食を食べ忘れるほど多忙なんて、本当に息を吐く間もないくらい大変なんだろう。それなのに、恵吾は会社で疲れた顔なんて見せたことがなかった。いつも自分よりも周りを気にしていて、部下に対しても優しい。きっと辛いこともあったはずなのに、そんな様子だって見せたことがなかった。

 でも気を張り詰めている時に、私にふと肩の力を抜いてくれる瞬間を見せてくれることがあった。私はその姿を見る度に、恵吾のために何が出来るだろうと考える。

 一緒に仕事をする時は少しでも自分に頼って貰えるようにといろいろ思案して、いつしか仕事に気合いが入っていた。


「弁当‥‥美味しそうだね‥‥」

 私が弁当箱を開くと、恵吾が食べたそうな顔をした。その顔はもちろんくれるよねと言っているようで、思わず吹き出してしまう。

「宜しければ食べますか?」

「もちろん、いただきます」

 彼はにっこり笑って、弁当箱のおかずをヒョイと摘んで口に運ぶ。たぶん「オイシイ」と言ったんだと思う。口の中をもぐもぐさせながら、発語にならない声を出して優しく笑った恵吾が堪らなく可愛らしいと思ってしまった。

 そして私は、また恵吾に見惚れてしまっていた。


 2人きりの時間がこんなに温かい雰囲気に包まれたのは派遣初日ぶりだったから、私の心はどこかふわふわして、もっとずっと、このままこうしていたいと願っていた。

「なんか、すごーく気が抜けちゃったなぁ~」

 昼食を終えた恵吾が立ち上がって背伸びをする。

「このまま仕事に戻らず、こうしていたいね」

 私の思いと重なったその言葉。私は甘い期待を抱いてしまって、ただただ、その次の言葉を待つ。

「だけどこの後すぐにまた打ち合わせが入ってるから、そうもいかないんだよね。ごめんね、車に戻ろうか」

 残念だけど、仕事というのはそういうものだろう。恵吾のように忙しい人なら尚更。恵吾との関係はまた一線を引いた関係に戻ってしまって、キスの続きなんてどんどん遠のいていくのだろう。

 やっぱりあの日のキスは恵吾にとって意味が無いものだったんだろうなと私は切なくなっていた。

 だから、公園の外へと歩いていく恵吾の背中を眺めながら、あの日のキスをもう気にするのは止めようと私は心に言い聞かせていた。まだ恵吾への思いは憧れで終わらせられる。あのキスだって甘い思い出として過去のものに出来そうな気がしていた。

 そうなった方が良かったのかもしれなかった。まだあの時なら、後戻りできたのかもしれなかった。

 どうしてあの日、恵吾はそのまま私たちの関係に一線を引き続けてくれなかったのだろう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ