恵吾と美咲の罪01
恵吾とまだ出会っていなかった5年前の春。それは辛いことが重なりすぎて、人生二度目にして、神様を恨んだ季節だった。
派遣されていた会社で社内恋愛をしていた私は派遣契約期間終了と同時に呆気なく、その当時付き合っていた恋人に捨てられた。
派遣期間は約3年間。その間の半分以上は愛を育んでいたから、関係は続くものだと思っていたのに、終わりは本当にあっけなかった。派遣期間終了日、「俺たちの関係も今日で終了ね」と、それはもう簡単に捨てられたのだ。
こんなにも簡単に関係を終わらせることが出来るものなのかと、事実を受容できずにいた束の間、女手一つで私を育ててくれた唯一の家族である母が病気で死んだ。
それこそ受け止めることなんて出来やしない。
このまま静かに私がこの世から居なくなっても誰も気付かないじゃないかと思えるくらい何にも無くなった私は、通訳エージェントの指示ですでに新しく派遣される会社が決まっていた。
「今日からこの会社に通訳として働いてくれることになった田辺さんだ」
会社の人事部から紹介を受けた私は「田辺美咲と申します。よろしくお願いします」と、私に注目している職員たちに頭を下げる。
派遣初日それに就業始め、本来ならやる気満々な勢いを振り撒いたっていいはずなのに、どん底の気持ちから抜け出せていなかった私は笑顔すら作れていなかった。
たぶん会社の職員たちは、緊張しているのだろうと暖かい目で見てくれていたと思うけど、1人だけそう思っていない人が居た。配属された課の主任、遠野恵吾だった。
人事部に連れられて各部署への挨拶周りが終わり、配属された課に戻ってきた私は早々に恵吾から会議室に呼び出されていた。
幾分広い会議室に2人きり。初めて会話を交わすには重たすぎる空気。恵吾が私に向ける視線は好意というよりも敵意に近い威圧感を放っていたから、ゾクリと背筋に汗をかく。
少しだけパーマをかけたふわっとした短髪。キリッと一直線に生えた眉毛と対称的な少し丸み帯びた目元。面長で、角張っていないスラッとした顎のライン。
この整った顔立ちで微笑んだら、かなり甘いマスクなんだろうなと連想させるけれど、目の前にいる恵吾の表情は訝しい。
「田辺さん」
「は、はい‥‥」
心の中を探るような強い眼差しに逃げ腰になってしまう私。それでも恵吾はその厳格な瞳で私を逃さないよう捕え続ける。
「単刀直入に聞くけど、仕事する気ある?」
「‥‥‥‥」
案の定、恵吾は私の整理しきれていない心をすぐに突いてきた。私がすぐに返事をできなかったせいで、更に重苦しい空気が漂う。
恋人と母を突然失なって、ひと月も経っていないその日。私の心が何処にあって、何を見ていて、何かを感じているのかを、正直自分でも把握できていなかった。空洞のような心。それは逆に何も考えようとせず、現実から目を背けたいがために、自分で敢えてそうしているのかもしれなかったけれど、もう抜け殻同然の心だった。
派遣会社に今の状況を説明して、別の通訳者を派遣して貰えるようお願いすれば良かったのかもしれない。心の整理がいつ着くのかは分からないけれど、もう少し時間を経てから新しい仕事に取り掛かるようにすれば良かったのかもしれない。
でもそんな機転が利くはずもなく、指示されるままに動く心無いロボットでしかなかった私。
「‥‥申し訳ありません」
誤ってしまうことは肯定になってしまうと思ったけれど、否定することもできず、わざわざ返答の間まで開けたのに、私はそう返していた。
沈黙した張り詰めた空気が身体を纏う。
派遣初日にこの様では、この会社から、また派遣会社からも見放されてしまうほどの失態かもしれない。でも、非があるのは自分。しっかりと問責を受けようと恵吾を見る。
私のその表情をみた恵吾は、今までの厳しい表情から打って変わって、ふっと頬を緩ませて笑った。
「なんだか事情があるみたいだね?」
それこそ声まで違って、それはもう母の愛に触れたかのような優しい響き。
さっきまでの強い緊迫感から一気に脱却し、とてつもなく暖かい安堵感に包まれる。
その大きなギャップに心が崩壊してしまったんだと思う。私は入社して早々、恵吾と初対面早々、会議室で大声をあげて泣いてしまったのだ。
この時私は恋人と別れ、母を亡くしてから、初めて泣いたと気付いた。両方の事実を認めることができず、辛さも悲しみも痛さも、すべてに蓋をするように押し込めていたんだと分かった。
恵吾は突然取り乱した私に最初は驚いてはいたものの、静かに黙ってずっと隣に居てくれた。泣きながら、恵吾と目が合った時は、優しく微笑んで頭を撫でてくれた。その行為がまた涙を誘って、しばらく泣き止むことが出来なかった。
「……こんなに泣く大人、僕、初めて見たよ?」
幾分心が落ち着いた頃、恵吾は微笑みながらそう言った。
「……ごめんなさい」
「田辺さん、さっきから謝ってばっかり」
「え……、あ……、 ごめんなさい」
「ほら、また」
「あ……」
私の遣り取りがおかしくてたまらなかったようで、恵吾は吹き出して笑い出した。腹をさすりながら、笑い続ける恵吾に心が穏やかに落ち着いていくのを実感する。
私は自然と深呼吸が出来ていて、恵吾に改めて向き直る。
「遠野さん。ありがとうございます。私、仕事頑張ります!これから宜しくお願いします!」
泣いてすっきりして、心から気持ち良く、私はこの会社で頑張ろうと思えていた。だから、数週間ぶりに本当の笑顔でやっと笑うことが出来たのだ。
恵吾は私のその笑顔みて、一瞬戸惑ったような顔をしたかと思うと、すぐに私の目の前に顔を近づけてきた。
一瞬にして、目の前の景色が恵吾の身体で遮断される。
「…………」
何が起きたのかよく理解できないまま、私が状況を把握できた時はもう恵吾の唇が私の唇から離れた後だった。
「……なんで?」
無意識に自分の指で唇を触り、目を見開いて、恵吾を見る。
今、私、キスされた……?
「……ご、ごめん」
恵吾は自分がしてしまったことに驚いているようで、目を泳がせた。
「本当にごめん……。思わず、したくなっちゃって……」
そう言って、顔を赤くした恵吾が恥ずかしそうに私を見る。
その顔に、私の心は瞬時にキュンと快感に締め上げられていた。そのまま、また2人の視線が重なる。
その後は、もうお互いに止めることなんてできなかった。
恵吾と私の顔は自然とまた近づいていき、唇がさっきよりも確かに重なった。唇が離れると、2人ははにかんで見つめ合う。
それはもう本当に、2人して同時に落ちたという表現が一番相応しかった。




