罪と嘘の再会06
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派遣3日目の朝。私は出勤してすぐ、メールボックスに入っている英文メールを翻訳して転送していた。そして、昨日の取引先の打ち合わせについて議事録をまとめる。
打ち合わせ中は聞き役に徹していただけに、内容をある程度その場で纏められていたから仕上がりは早かった。完成した書類を恵吾のデスクに置くと、課の職員全員の今日のスケジュールが書かれたボードを見る。
恵吾は朝から営業回りをして昼過ぎに帰社。その後社内会議に参加し、終了後すぐに市場視察らしい。朝から恵吾の姿がない理由を理解し、相変わらず忙しく働いてるんだなと感心した。そして、今日はあまり顔を合わすに済みそうだと肩の力が抜ける。不在のうちに、集中して仕事を済ましてしまおうと私は意気込んだ。
昼過ぎ、社内に恵吾が戻ってきた。自席に置いてあった書類に気付くと案の定、私の席に近づいてくる。私は身構えて、恵吾を迎える。
「美咲さん、昨日の議事録ありがとう。それに今日の会議資料まで、本当助かる」
「いいえ、仕事ですから」
「頼んでなかったのに気が利くね。お礼に昼食おごるけど、一緒に行かない?」
「13時から会議ですよね?あまり時間がないし、準備とかあるんじゃないんですか?」
「いや、美咲さんが完璧な資料作ってくれたから終わった。行こう?」
「ごめんなさい。もう昼食は済ませましたので……」
その時、近くから笑い声が聞こえた。
「あはは!おかしい!無敵の恵吾先輩が交わされまくってる!」
笑いながら声を上げたのは同じ課の宇川だった。この課で一番年下の新米だけど、怖いもの知らずで言いたいことは言うらしい。だけど猫みたいな人懐こさが功を奏して、いろいろな意味で許されてしまうムードメーカーだと恵吾が昨日話していた。
「社内人気1位2位を争う恵吾先輩が女性に交わされるのって、なかなか快感です!美咲さん!最高!」
楽しそうに騒ぐ宇川は恵吾の言う通りの人らしい。
「宇川、僕は無敵なんかじゃないよ。好きな人には振られちゃうし」
「そうなんですか?!僕、恵吾先輩を見直しました!」
「え?よく分からないけど、ありがとう」
恵吾が照れたフリをして、自分の頭を掻いていると、「遠野、ちょっといいか?」と佐伯部長に呼び出された。恵吾は残念そうな顔をすると、そのまま立ち去っていく。
宇川は弾むような表情のまま私に向き直った。
「片瀬さんは恵吾先輩を振ったんですか?」
「えぇ?」
宇川の不意打ちに声が少しだけ裏返った。怖いもの知らずの発言は、言われた方がヒヤヒヤさせられる。
「だって恵吾先輩、遠回しに片瀬さんのことを好きだって言ってたみたいに聞こえました」
「‥‥‥そんなことはないと思います」
「そうですか?僕はそう思うんだけどな~」
私が思いっきり困った顔をしたので、宇川はそれ以上踏み込んではこなかった。この手の話題はあまり洒落にならなすぎて、冗談を返すこともできない。宇川の言うことは合っているようで、間違っている。私にも真意は分からない。
3時過ぎ、パソコンに向かっていた私は肩を急に叩かれて、「きゃっ」と声をあげる。振り返ると恵吾がしてやったり感満載の顔で立っていた。
「お、驚かせないでください。お願いだから」
「美咲はやっぱり変わらない」
恵吾が小さな声で呟いた後、営業スマイルになって私を見た。この顔は少し嫌な予感がする。
「これから市場視察に出掛けることになってたんだけど、出掛ける準備万端?」
「え?」
「ほら、ボートに書いてあったでしょ?」
驚いて、スケジュールが書かれたボートを見ると私の名前の横に『市場視察』の文字が書かれていた。今朝見た時は恵吾の欄しか気にしていなくて、一番下の欄にある自分のスケジュールまで目がいかなかったのだ。
「ほら、行くよ」
「え?あ、ちょっと待って‥‥‥」
恵吾は私に有無を言わせる隙も作らず、動き出してしまったので、私は慌てて身の回りを整理して、後を追いかける羽目になった。
エントランスまで降りると、恵吾の運転する車が横についた。私は助手席に乗る。
「何故、私まで市場視察に行くのですか?」
おそらく人と関わることはあまり無い気がする。それこそ、通訳する対象がいない。
「この会社の仕事内容が分かって貰えるかなっと思って」
恵吾が運転する車は軽やかに道路を走り出した。
視察先はまず大型ショッピングモールからだった。恵吾と私はあらゆる店舗が並ぶ通路を並んで歩く。
平日の昼間とはいえ、客はそれなりに居るもので、老夫婦や子供を連れた女性、女性同士とカップリングは様々。いかにも恋人とデート中という雰囲気を振り撒いている男女だって居た。
まだ陽射しは明るくて、ガラス張りの天井が眩しい。ショッピングモールの観葉植物が青々とした癒しのエネルギーを放っていて、この場所に居る時間の流れがゆっくりに感じてしまう。
通りがけにあったコーヒーショップの香ばしい匂いに引き寄せられて、恵吾がテイクアウトコーヒーを買ってくれた。その甘味と苦味が上品に混じり合った味に和んで、ふぅと息が漏れる。
気持ちの良い昼下がり。私の隣には恵吾が居て、コーヒーを飲みながら2人きりの散策。仕事だということを忘れてしまいそう。なんだか‥‥これって‥‥。
「デートみたいだね」
私の心の呟きを恵吾が声に出して続けた。
心の中を読まれていたのではないかと私は驚きながらも恥ずかしくなり、伏せ目がちに恵吾を見た。
「手、繋ぐ?」
恵吾はくすっと笑って言う。
「い、いいえ!」
私は慌てて首をブンブンと横に振る。
「遠慮しなくていいよ?」
「し、してません!」
「そう?喜ぶと思ったのに。つまんないな」
恵吾はふて腐れた顔を作ってみせたから、何とも言えない気分になった。
過去の私にはそりゃ魅力的なシチュエーションだっただろう。私達は手を繋いでデートなんてしたことがなかったから。
「美咲、このデザイン良くない?」
インテリア雑貨店に着くと、恵吾は途端に商品を夢中で眺め始めた。手に取って念入りに商品を観察し、うんうんと頷いている。視察とはいえ、もともと家具や雑貨を見ることが好きな恵吾の目は半分仕事、半分趣味。夢中になって、頬を緩ませながら、商品を見入る恵吾の姿を私は気付くと見つめてしまっていた。
この夢中になってる横顔、大好きだった。今、この瞬間を区切り取って、そのまま過去に戻ることが出来たなら、私は幸せになれるだろうか。
でもそんな無理なことを願ってもどうしようもないし、もし戻れたとしても、結局は何も変わらないと気付いて、私は淡い期待の何もかもを振り払って記憶の外に投げた。
その後も何店舗か見て回り、恵吾に促されて車に戻ると就業終了時間を迎えた。車を走らせた恵吾は「今日はこのまま直帰ね」と仕事終わりを告げた後、「家は奥名和だよね?」と続けた。
昨日と同じ台詞。また家まで送ると言いたいのだろうと私は黙ったまま作り笑いを返す。
「この後、食事行こう?」
これも昨日と同じ台詞。私も同じ台詞を返す。
「娘を迎えに行かな‥‥」
「今日は昨日よりも2時間早めに切り上げたんだよ?だから、後2時間は大丈夫なはず」
恵吾は私の言葉を遮ってそう言うと、にっこり笑う。
「‥‥っ!」
しまったと私は思ったけれどもう遅い。
「それに昨日はあの後真っ直ぐ自宅に向かったよ?お迎えには行ってない。嘘はいけないよ?美咲」
「‥‥‥‥‥‥」
恵吾にしてやられてしまった。こうなるともう逆らえない。
「後2時間は付き合って、ね?」
意地悪そうに笑う恵吾に私は苦笑いするしかなかった。
恵吾に連れて来られた料亭は和の風情が漂うけれど、黒塗りのシックな格子の店構えで、ちょっと小洒落ていた。その佇まいは若者たちでも気後れせずに足を踏み入れていいよと言ってくれているようで、私自身もあまり身構えずにその前に立つことができた。
透けた白色の暖簾の向こうへと入ろうとすると、すれ違いで客が出てくる。私達は特に気にも止めず、その客の前を通り過ぎようとした。
すると、「恵吾じゃないか!」と声を掛けられた。
恵吾はその声に気付いたと思うけれど、聞こえないフリをして、中に入ろうとする。
「おい、恵吾。無視するつもり?久々に再会したのに。ひどい奴だな。ねぇ?」
驚いて立ち止まってしまった初対面の私に、彼は同意を求めてくる。
「あ、あの‥‥」
荒手の勧誘かもしれないから私も恵吾と同じように無視すれば良かったのかもしれない。進める足を止めてしまったことを後悔した。
「良かったら、恵吾じゃなくて僕と食事に行かない?」
「はい?」
なんだか訳がわからないことになってきた。
「さあ、行こう」
「い、いえ!あ、あの‥‥」
「祐輔‥‥」
いかにも怒っていますという顔をして、恵吾は低い声と共に彼に目を向ける。
「なあに?恵吾。やっと気付いてくれたの?」
そんな恵吾を嬉しそうに笑う彼。名前で呼び合うくらいだから、知り合いであることは間違いないようだ。
「祐輔‥‥、悪いけど今日は‥」
「これから食事?ちょうど良かった。お腹すいてたんだ。ご一緒するよ」
嫌そうに目を細めている恵吾に構わず、彼は相変わらず嬉しそうに笑う。
「誘ってな‥‥」
「久し振りに会ったから、お互い積もる話もあるだろう?さぁ、中に入った入った」と、料亭の中に促す彼。
恵吾はずっとこの調子に押され気味で、アレヨアレヨと私達は料亭の個室に鎮座し、並べられた懐石料理を雑談しながら食べていた。
向かいの席でずっとふてくされ気味の恵吾に笑いたくなってしまうのを堪えながら、私は恵吾を上回る策士が居たのだと知る。
彼は服部祐輔。弁護士で、恵吾の幼馴染だそうだ。口が上手いのは仕事柄かもしれない。
私はこの席が2人きりにならなかったことにほっとしていて、心の中で服部に感謝した。
「そういや、香織は元気?」
でも、服部のその質問には心がぐらついた。私が言えることではないけれど、恵吾の女性関係の話は聞きたくないと耳を塞ぎたくなる自分が居る。逃げ出したいと、衝動が騒ぎ出しそうだった。
「‥‥元気だよ。それより、そうそう。こないだね‥‥」
ふて腐れていた恵吾は何か思い出したのか、突然会話を積極的にし始めた。
都合良く話が逸れたので、逃げ出したい感情は少しずつ降下していく。
恵吾と服部の世間話に相槌を打ちながら、時間が過ぎていった。
恵吾と約束した2時間はゆうに過ぎて、恵吾と私は車に乗り込む。車は私の自宅がある奥名和方面に走り出したから、このまま帰してもらえると思っていた。
でも昨日通った道と違うと気付いたのは、奥名和方面と入間野方面の分岐を示した看板を見た時だった。
「入間野」という文字を見て、鼓動が大きくドキンと飛び上がっていた。私の右手は恵吾の左手に繋がれてしまう。
「け、恵吾っ」
思わず繋がれた手を振り払おうと腕を引いたけれど、恵吾に力強く握られてしまい解けない。
「祐輔のせいだから」
恵吾が少し荒々しい声で言う。片手で不自由なくハンドルを回し、車は入間野方面に曲がると、さっきよりも早いスピードで走り出した。
私の鼓動もそのスピードに比例するように加速する。
向かう先は分かっていた。それは、あの頃の私と恵吾が秘密の逢瀬を重ねた場所。
私は過去、罪から逃げたのに、また最初からこの罪と向き合わなければならないのだろうか……。