罪と嘘の再会04
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「片瀬美咲です。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ宜しく頼むよ」
派遣初日、私が深々とお辞儀をすると、派遣先の部長である佐伯が人当たりの良さそうな笑顔で迎えてくれた。
私が派遣されることになったのは、MOINdesign株式会社、海外営業部。この会社はインテリア雑貨や文房具などを主にデザイン開発していて、日本国内では各地に1店舗以上のブランドショップを構えている。インテリア雑貨業界ではそれなりの大手会社。
今回、海外にも自社デザイン商品を売り出し、店舗を構える算段となり、海外現地に店舗を構えるまでの期間限定で私は雇われることになった。
「片瀬君は英語と中国語、それにイタリア語も話せるんだろう?僕は多少の英語しか話せないから、感服するよ」
「そ、そんな‥‥。私は皆さんの言葉や書類を通訳、翻訳することしかできません。佐伯部長のように世界を股に掛けた素晴らしい営業トークなんて、思い付きませんから」
佐伯部長はその言葉に気を良くしたようで満更ではない顔をしてくれた。ほっと胸を撫で下ろす。派遣先の機嫌を損ねたら、派遣会社自体の信用に下がるのだからくれぐれも注意するようにと、登録している派遣会社から口を酸っぱくするほど言われたばかりだった。
学生時代、語学に励んだ私はアメリカ、中国、ヨーロッパと留学経験を繰り返し、3ヶ国語の通訳者として通訳エージェントの派遣会社に登録。その後は妊娠するまで、海外進出などを手掛ける企業内通訳として働いていた。
5年ぶりの社会復帰が思っていたよりも大手会社だったので、正直緊張していた。通訳を雇うとはいえ、大手会社の職員はそれなりに語学力に長けている人が多い。そんな彼ら以上の語学を必要とされてしまうわけだから、余計荷が重くなっていた。
「今回の海外進出は当社も熱が入っていてね。またうちの部の課長がかなり遣り手なんだ。だから、安心はしてるんだけど、何せ言葉が違うからね。間違いがあったら取り返しがつかない。君みたいな通訳を派遣してくれる会社があって助かるよ」
なかなかのプレッシャーを与えているとも気付かずに、佐伯部長はニコニコしながら話を続ける。
「もうすぐ、その課長が出先から戻ってくると思うんだ。あ、噂をすれば‥‥」
佐伯部長が待ってましたと言わんばかりの顔をして、海外営業部の入り口に目をやったので、私もつられてそちらを見る。そして私は先週の歩道で起きた出来事ように、その場に固まるほかなかった。
もう会うはずなんてないと思っていたのに。もう忘れなくてはと思っていたのに。どうして‥‥‥。
「あれ?美咲さん?」
恵吾はニコニコの営業スマイルを咄嗟に浮かべて近付いてきて、「お久しぶりですね」と軽く頭を下げた。その屈託のなさに空いた口を塞さぐことができない。
「あれ?知り合いか?」
佐伯部長が目をまん丸くして、私と恵吾を見比べる。
「知り合いも何も、前の会社では美咲さんにとてもお世話になってたんですよ。また一緒に仕事が出来るなんて光栄だな」
佐伯部長が気持ちを分かりやすく顔に出してしまうのとはまったく正反対で、恵吾は営業仮面を被ったまま微笑んだ。何を考えているのかまったく汲み取れないその表情に嫌でも冷や汗が出てきててしまう。
仕事ではポーカフェイスを決め込み、心の中で常に戦略を企ている策士だと知っているだけあって、私は身構える。
「‥‥‥こちらこそ」
少し震えた声で返事する私を気にする素振りすらみせず、恵吾は笑顔を崩さない。
「それなら余計な説明をしなくても仕事が進められそうだな。良かった、良かった」
嬉しそうな佐伯部長に全然良くないと嘆きながら、不穏な素振りを見せるわけにもいかず、私は作り笑いをしてみせた。
「じゃあ、早速で申し訳ないんだけど、仕事の打ち合わせをしたいから、会議室へ一緒に来てもらっていい?」
恵吾の言葉に身体は拒否反応を起こしたいところだったが、そうするわけにもいかない。
「‥‥はい」
歩き出した恵吾の後について、海外営業部内にある会議室に向かった。
会議室は6人程度が座れるくらいの小部屋で窓すらなかった。中央にテーブルとイス。隅にはテレビとディスクプレイヤー。壁には時計がかかっているくらいで殺風景な場所。
営業本部内の職員だけがミーティングするためだけの部屋なのだろうと思いながら、恵吾に促された椅子に座る。恵吾は私の隣に座ると、用意していた資料を広げ、真面目に事業の説明をし始めた。その姿に安堵し、少しだけ悄然として、恵吾の説明を聞く。
無駄のない分かりやすい話し方。理解できていない内容をすばやく汲み取る速さ。職場内の部下に対しても丁寧に対処する厚情さを持ち合わせた態度。正直今日が初対面だったとしても尊敬に値するほどの器量。
やり手だという印象は変わらない。今もその腕は衰えていないと思う。
「じゃあ今日はこの書類の翻訳をお願いしていいかな?それと明日からは僕宛のメールを翻訳して転送して貰えると助かる。後、明日は関係者と顔合わせだから、僕の隣で通訳してくれるかな?」
再会する予定じゃなかった恵吾と仕事をすることになり、自分の気持ちの整理はまったく追いつかないけれど、大手会社に派遣されたプレッシャーや不安は和らいでいて、背中を支えられてるような勇気を貰う。
「分かりました。よろしくお願いします。」
私が頭を下げると、恵吾は優しく微笑んでくれて、思わず見惚れそうになってしまった。すると突然、恵吾の手が伸びてきて、私の手を掴んでくる。
「え?」
「‥‥‥また再会しちゃったね?」
優しい笑顔から途端に意地悪な笑みを浮かべ、耳元に息を吹きかけられた。
「‥‥‥‥っ!」
さっきまでは紳士だったのに、急に私の心を甚振ろうとする。
恵吾の不意打ちに私は狼狽えてしまい、座っていた椅子から、勢いよく立ち上がる。その拍子で自分の足を椅子に引っ掛けていたことに気付かなかった。恵吾から距離を置こうとした身体はぐらっとバランスを一気に崩す。
恵吾が咄嗟に私の身体を支えた。おかげで私は床に転げることを免れたけれど、腕は掴まれてしまう。焦って顔を上げると、恵吾と視線が交差した。
恵吾はそのまま視線を逸らさずに、私の唇を塞ぐ。唇が離れた後、また2人の視線が重なった。
「‥‥‥なんで?」
キスを‥‥‥?
「理由‥‥‥いる?」
恵吾の口が耳元に近づいて、甘く焦らすような声で囁く。
「‥‥‥‥‥‥」
恵吾から視線を逸らすことができくなってしまい、記憶の奥からじわじわと蘇ってくる何かに心がざわざわし始めた。また私は恵吾にコントロールされそうになっている。
「思い出すね‥‥?昔のこと」
甘い声が耳から伝わって、私の記憶の扉をノックする。私がいままで一生懸命、頭の奥の片隅に追いやったものを最も簡単に呼び起こそうとする。
「……私はもう、終わりにしたの」
思い出してしまいそうな記憶と感情を押し殺そうと、声を出す。
「こないだ僕に抱かれたくせに、そんなこと言うの?」
恵吾は視線を反らそうとする私の顎をぐいっと抑えて、5年前に何度も見せていた意地悪な笑みをした。
「僕は終わりにしたつもりはないよ?」
そして、私の唇をもう一度塞ぐ。
私は抵抗することができなくて、震える手をどこにも伸ばすことができず、ただギュッと拳を握りしめた。