樹生と美咲の罪と嘘。そして償い03
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導師の読むお経が厳かに会場内の空気を鎮めていった。だけど、参列者のすすり泣く声が聞こえてくる度に、嫌というほど会場は悲痛さが込み上げてしまう。
若過ぎる死。突然過ぎる死。私が二度目に見た樹生の妻子の姿は遺影に映る笑顔だった。
私が樹生の家に訪れた数日後、樹生の妻子は、外出中、信号無視をした車の事故に巻き込まれ亡くなったのだ。
棺桶の蓋は最後の家族との別れの時まで開けられなかった。喪服姿の私は遺影の前でお焼香をあげ、遺影を見上げて手を合わす。表向き赤の他人である私は遠くから、片瀬家の様子を見守っていた。
その日の樹生は喪主を務める父の横で今まで見たこともない悲愴な面持ちをして立っていた。指一本でも触れたら、倒れてしまいそうなほどに覇気のない顔。
樹生の母親はその日は一日、式場内で一度も姿を見ることは無かった。
樹生に声を掛けられる雰囲気もなく、私は重苦しさを抱えながら式場を後にした。その後、樹生のことが気になりながらも、数日前の樹生の母親と妻子の表情を思い出すと連絡することもできなくて、一週間が経った。そして事態が再び急変したのは、何気なくつけていたテレビに、父が映ったことだった。
テレビの見出しには、『片瀬議員の妻が自殺』と表記されていた。
私は放心し、何が起こったのか理解できないまま立ち尽くす。自宅の電話が鳴り始めてやっと、私の意識は引き戻された。
受話器を取ると、聞こえてきたのは父の声だった。
「美咲ちゃんかい?片瀬だが」
「おじさま?……あの、今、ニュースで」
声が震えた。樹生の母親の睨んだ眼と、にこりと柔らかく笑った顔の両方が脳裏をよぎった。
「おばさまは……、おばさまは……」
「大丈夫だよ。一命は取り留めた。今、病院で眠っている」
父は私の気持ちを落ち着かせるように、低くゆっくりとした声で言った。自然と安堵の息が漏れた。
「そうなんですね……。良かった……」
葬式で見た樹生の悲痛な表情。妻子を亡くして数日後に母親も亡くなるなんてことになったらと考えるだけでも怖い。
「それでね。美咲ちゃんにお願いがあるんだ」
「お願いですか?」
「そうなんだ。私は妻に付き添って病院に居るせいで、自宅に帰れそうにない。だから樹生の様子を見に行ってもらいたいんだ」
そう言って、父は最近の樹生の様子を説明し始めた。
※
そして私は再び、片瀬家の屋敷の前に立ち、インターフォンを押すことになっていた。菓子折りを持ってこの屋敷に訪れた日はもう二度と来ることはないと思ったのに……。
インターフォンを押しても、父が説明したとおり、誰も出てくることもなく、私はそろりと玄関のドアを開ける。
「お邪魔します」と声をかけたが、家政婦が現れる様子もなかった。
この屋敷のインターフォンが役目を果たしていない理由。それは樹生の妻子が亡くなった数日前から、樹生の母親がインターフォンの音で精神不安定になるようになったため、音を消しているからだと説明された。私が訪れた日と重なっているような気がして、嫌な気分がした。
私は出迎えのない玄関の中へと入った。
父の話では、樹生は葬式後、ずっと自室に籠りきりで外に出てこなくなり、ろくに食事もとらず、一週間が経っているという。樹生の母親が浴室で手首を切って倒れているのを発見し、家政婦が悲鳴をあげた時は部屋から出てきたらしいが、その後の様子を父は知らなかった。
私はリビングに足を踏み入れ、家政婦が待機しているであろうキッチンへと向かう。すると奥から家政婦の声が聞こえる。声を掛けようとしたが、聞こえてきた言葉に驚き、思わず息を呑んだ。
「樹生さまが浮気?まさか、あんな誠実そうな方が……」
「だって、私聞いちゃったのよ。奥様が樹生さまに罵ってるところ。『あなた、あの子のことまだ好きなんでしょう?あなたまで、あの女の娘に誑かされるなんて!』って。それを若奥さまが聞いちゃったのよ」
「若奥様が聞いちゃったんですか?」
「そうなの。だから若奥様はお坊ちゃまを連れて実家に帰ろうとされて、そして、運悪く、その日に事故に巻き込まれて……」
「まさか、それで奥様は責任を感じて自殺を?」
「奥様は数年前からずっと様子はおかしかったのよ。あまり笑わなくなって、ちょっと鬱っぽかったの」
「え‥‥。でも私にはそんな風には‥‥」
「樹生さんが結婚して、孫のお坊ちゃまが産まれてからはだいぶ落ち着かれていたからね。だから、私も安心していたんだけど‥‥」
話の内容に息苦しくなり、居た堪れなくなった私は声をかけることもできず、リビングから退散した。
『あの女の娘に誑かされるなんて』
樹生の母親が言う『あの女』とは母のことなのだとなんとなく分かった。そして、『あの女の娘』というのは私のことなのだろう。
樹生の母親は樹生と私が昔、男と女の関係にあったことを知っているのかもしれない。そう思うと凄くぞっとした。
樹生の母親が父のことを心から慕っていることは、高校時代にこの家へ遊びに来ている時から感じていた。いつも父のことを気遣い、父に従い、父に頼っていた。
当時、父が居なかった私は、仲の良いおじさまとおばさま、そして樹生の住んでいる家庭が好きだった。とても暖かくて、居心地が良いと感じていた。それなのに、母が私の存在を父に明かしてしまったから、あの温かい片瀬家の団欒が壊れてしまったのだ。
樹生に会うことが少し怖かった。震える手で一度強く拳を握りしめてから、樹生の部屋のドアをノックする。
「樹生、居る?美咲です」
声をかけたが、中からは声も物音も返ってこなかった。
「入るよ」と声をかけた後、ドアノブを回して、中をのぞく。
薄暗い部屋。漏れる光はカーテンの隙間から漏れる光のみで、息遣いも響きそうなくらいひっそりとしていた。
私は恐る恐る中へと足を踏み入れる。この部屋に入ったのは、樹生と身体を重ねたあの夜以来だった。
暗さに少しずつ目を慣らしながらベッドの方を見ると、人が居るのが見えた。ゆっくりとベッドに近づき、様子を伺う。樹生はベッドにうつ伏せで横たわっていた。
「樹生、大丈夫?おじさまから連絡を貰って来たの。おじさま、心配してるよ」
声をかけても、樹生は微動だにしなかった。
「おばさまね。一命を取り留めたって」
二言かけても動きもせず、返事をしない樹生。暗さで樹生の様子がこれ以上確認できず、私はベッドを離れ、カーテンを開けようと窓に近づく。
途端にギシリと音が聞こえたから、ビクっと身を縮ませると、背中から身体が抱きすくめられた。初めて抱かれてから、二度目に受け止めた樹生の体温だった。
「2人が死んだのは俺のせいなんだ……」
背中から聞こえてきたのは、小さな悲鳴のような声。
「俺のせいなんだ……」
泣き声混じりの震えた口調で、そう続けた。私は溜まらず、樹生の方に振り返り、樹生の背中に手を伸ばした。
「樹生のせいじゃない。あれは事故だった。樹生は関係ない」
樹生を落ち着かせたくて、樹生の背中を静かに撫でる。
「樹生のせいじゃないよ」
「でも、俺がずっと自分の気持ちに嘘をついていたせいで……」
そう言った後、樹生は嗚咽と共に泣き出した。
私を抱きしめていた腕がより強くなる。身体をギュッと締められて痛みを感じた。でもその痛みに耐えながら、私は樹生の背中を撫で続ける。
樹生の涙が首筋に落ちて、私の服と首元を濡らした。
「……ず…っと…好きだった」
涙声に混じりながら、途切れた声が落ちてくる。
「美咲のことを忘れられなかった。だけど、美咲は……俺のことなんかまるで……」
次の瞬間、身体がぐらりと傾き、驚いて息を止めた。次に息を吸えた時は、ベッドが私の背中を受け止めた時だった。上を見上げると、樹生の顔が目の前に見えた。樹生の涙が頬に落ちる。
気付けば私は樹生に組み敷かれていた。
「た…つき…?」
樹生と目が合い、戸惑ってしまい目を泳がす。それが合図になってしまったかのように、樹生は力強く私の腕を押さえつけて、覆いかぶさってきた。
「や……、やめて!」
樹生の右手が私の服をまさぐり、露わになった素肌に触れた。今まで味わったことのない乱暴な手つきが下着をずらし、樹生の唇が首筋に触れ、吸い付くように舌が這う。
私はどうしようもなく怖くなって、「やめて!」ともがいた。
母の顔、父の顔、そして樹生の母親と妻子の顔が浮かんで、身震いした。
「やめて!お兄さん!!」
そして私は、そう声を張り上げていた。
樹生のことを『兄』として呼んだのは、その時だけだと思う。私は樹生をそう呼ぶことで、樹生の思いにとどめを刺したのだ。
樹生は私の言葉にビクリとして身体の動きを止め、私の目をじっと見降ろした。
「……兄さん?」
零れた樹生の声は見えない何かを掴むような儚い響き。見開かれた樹生の目が揺らぐ。
「もしかして、俺たちは兄弟だというの?‥‥‥まさか、母さんの様子がおかしくなったのは、そのせいなのか?」
何かを思い起こすかのように、目はそのまま宙を舞う。
私はその時にして、父が事実を樹生にまだ打ち明けていなかったことをしっかりと知った。そして樹生の母親だけはその事実を知ってしまい、樹生の私に対する思いに気付いてしまったせいで精神を患ってしまったことも。
身体が震え出した。もう過去はやり直すことなんて出来ない。
「ごめんなさい。私のせい……だ」
私はこれまで樹生のことを忘れるために、たくさんの男と付き合ってきた。そうすることで、樹生への気持ちから逃げることができた。そして、いつしか私は樹生への気持ちを薄めることができていた。
それなのに、樹生は違った。私への思いを解消できず、あの頃からずっと苦しんできていたのだとも知った。
樹生が兄だと分かった時に、ちゃんと樹生と向き合うべきだったのかもしれない。私が樹生に打ち明けていたら、私が樹生を裏切り、傷つけ続けなかったら、樹生だって私と同じように整理がついたのかもしれない。
私の嘘が樹生をずっと苦しめ続けていた。その嘘が樹生の思いを引きづらせ、結果的に樹生の妻が事故死する原因を作ってしまった。
「私があの頃、樹生とちゃんと向き合っていれば……こんなことにならなかった?」
樹生と交わした気持ちをどんな形であっても話し合っておくべきだった。だって父は知らないのだ。私と樹生が当時、男と女の関係であったことを……。
「……美咲」
私を見降ろしていた樹生が再び私に抱きつき、さっきの乱暴さが消えた優しさで私を包んだ。
「教えて欲しい。美咲はあの頃、俺のことをちゃんと好きだったの?」
樹生の行動と言葉に戸惑い、目の前にある樹生の身体を引きはがそうと腕を立てる。
樹生は私から身体を離して、私の目をじっと見た。私は不安になりながら、その樹生の目を見つめ返す。
あの頃の思いを樹生に伝えることは許されるのだろうか?
「……すごく好きだったよ。忘れるために必死だった」
あの頃は向き合えなかった本音をやっと口にすると、「そっか」と樹生はすぐに辛そうに笑った。そして、躊躇いもなく、すぐに私の唇を塞いでしまった。
兄弟であると打ち明けても尚、落ちてきた樹生の唇に驚き、私は身動きができず固まるしかなかった。
樹生が私から唇を離すと、再び視線が重なる。そのキスの意味を私はどう受け止めたらいいのか分からなかった。
「俺は気付いてやれなかった。美咲の気持ちも、母さんの気持ちも……」
樹生は私の腕を引っ張り上げ、私の身体を起こす。
「起きてしまったことはもう取り返せない。俺は大切な家族を失ってしまったし、俺の気持ちがみんなを苦しめてきた」
樹生はひどく重たい息をゆっくりと吐き出す。そして私の方をみて、優しく笑った。
「俺は今から美咲の兄になるよ。そして、この先一生誰も好きにならない」
樹生はまた以前のように私よりも大人びた笑顔をして見せた。そして、私の頭もポンポンと叩いた。
『この先、一生誰も好きにならない』
その言葉は私にはとても重たかった。樹生が自分自身に課した制約。
母と父が犯した罪。その罪から歯車が狂い始めた。そして、私の嘘が樹生の人生を崩してしまった。
樹生は私にした最後のキスで、私達の罪と嘘で起きてしまった現実をすべて引き受けて、自分の未来を閉じてしまったのだ。
その後、父は政治家を引退し、うつ病で苦しむ精神不安定な樹生の母親を支えながら生活するようになった。仕事人間だった父が妻のためだけに人生を捧げると決意したのだ。そして樹生は家を出て、1人暮らしを始めた。
私は通訳として働き始め、その職場で付き合い始めた上司の家に入り浸りの生活を始めた。
母とはより顔を合わしたくなくなっていた。でもそれはすぐに出来なくなった。樹生が退社時間になると、わざわざ私の会社の側まで迎えに来て、私を自宅に連れ帰るようになったからだ。
樹生に連れて帰られる日は、必ずといっていいほど、自宅で母は料理を三人分作って待っていた。
樹生は私の母を「お袋」と呼ぶようになり、自分の母のように気に掛けた。樹生は何故か、私の母にも優しかった。
「お袋の作るご飯は本当美味しいよな。な、美咲」
樹生に会話を振られ、私は「……うん」と不機嫌に返す。
「本当?たくさん食べてね。たくさん作りすぎちゃったから」
気まずい私の気持ちを余所に、私の母と樹生は仲良く話した。そして、私を会話に混ぜようとする。
母は私が不機嫌な顔をしても、嫌そうな顔をしても、いつも笑っていた。その笑顔は過去に犯した罪すらも関係ないとでも言いたそうで、私は内心苛立った。
私は産まれてきて良かったんだろうか。私はここで笑っていてもいいのだろうか。
樹生の母は鬱になり、樹生の妻子は事故で亡くなった。それなのに、私は母と樹生が隣に居て笑ってくれる。
私は母と樹生の居る食卓で、家族の団欒を私は味わってもいいのだろうか。気持ちは落ち着かないまま、母とも打ち解けられないまま、月日は経った。




