樹生と美咲の罪と嘘。そして償い02
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私立大学で、私は必至で語学を勉強した。そして、海外留学を重ねた。
通訳になることは私にとって、もう必然でなくてはならなかった。
私の夢を叶えるため、母が意を決して明かした事実。私が向き合わなくてはならなくなった現実。そして、樹生と私が背負った誰にも明かすことができない実情。その重みが私を無情ながらも追い立てた。
大学時代、私は母とどう向き合えばいいか分からなくて、母とも距離を取った。母に会わないようにバイトをした。海外留学のため自宅に帰る必要がなくなれば、母と顔を合わす機会も減っていた。
その頃の母と私、そして、父と私。それらを繋ぐのは、私の口座に振り込まれる学費資金だけだった。
6年の歳月が経過し、私はスーツ姿に身を包み、高校時代には何度も訪れていた片瀬家の屋敷の前に立った。私は私立大学を卒業し、数年間の海外留学を経て、晴れて通訳エージェントに登録することができていた。そして通訳として、初めて派遣される就職先も決まっていた。
屋敷の玄関に近づき、インターフォンを押す手が少し震える。父のことを知らされてから、ずっと敬遠してきた家。
来客を知らせるチャイムがなると、屋敷の家政婦が顔を出した。要件を伝えると、客間へと案内される。客間でそわそわしていると、「美咲、どうしたの?」と樹生が顔を出し、私は立ち上がり、スーツを正す。
「就職が決まったから、ご挨拶に来たの。おじさまはいらっしゃる?」
私が尋ねると、樹生は私が訪れた理由を理解したらしく、「親父は外出してるんだ」と申し訳なさそうな顔をした。
「そうなんだ。じゃあ、これを渡しておいてください。こんな程度じゃ、ちゃんとしたお礼にも満たないかもしれないけれど」
私は紙袋から包装しに包まれた菓子折りを出すと、丁寧に樹生に差し出す。すると、「いらっしゃい。美咲さん」と少し甲高い声が聞こえてきた。
声がした方を見ると、入口から樹生の母親が入ってくる。私は緊張しながらも笑顔を向ける。
「こんばんわ。おばさま。ご無沙汰しております」
樹生の母親と顔を合わすのは、高校卒業後に知り合いの娘として、私立大学の学費のことを家族同士で話し合った時以来だった。
「美咲が就職決まったんだって。これ、お礼だって」
樹生が私から受け取った菓子折りを母親に渡す。
「就職が決まりまして、ご挨拶に来ました。おじさまとおばさまには本当にお世話になりました。ありがとうございました」
私は何事も知らない顔をして、知り合いの娘として礼儀を果たす。
「それはおめでとう。お礼なんて、わざわざ宜しかったのに」
樹生の母親はにこりと微笑む。その表情に心なしか安堵する。
「少し美咲と話してくるよ」
樹生は母親にそう言うと、私を客間から出るように促した。私は彼女に深く頭を下げて、樹生の後を歩き出した。
樹生に連れられて、屋敷の庭へと足と運ぶ。庭には芝が敷かれていて、庭に植えられた山茱萸が黄色の花をつけていた。
「イタリアからはいつ帰ってきたんだ?」
「年明けくらいからかな。帰ってきてから、就職活動でちょっとバタバタしてたの。連絡しなくてごめんね」
「気にしなくていいよ。それよりイタリアはどうだった?」
「素敵なところだったよ。日本とは文化が違うから、本当別世界だった」
「俺もコロッセオや凱旋門を実際に見てみたいよ」
「世界史を教えてるくせに、まだ実物を見たことないの?」
「ヨーロッパにはまだ行ったことがないからな」
ひさしぶりに樹生と対面した割に2人の会話はスムーズで気分は落ち着いた。海外留学を繰り返していたから、樹生とはずっと電話越しでしか会話をしていなかった。
樹生の横顔を眺めると、少し年を取って、父に似てきた気がした。私の面影も父に似てきたりしているのだろうかと不安になる。
「就職おめでとう。通訳になれそうで良かったな」
「うん。実績はまだまだこれからだけどね」
「美咲のお母さんも喜んでるだろう」
樹生がそう言って笑う。
「そうだね。喜んでくれてるよ」
私もつられて笑ってみせる。でも頬が変にひきつって、うまく笑えなかった。
樹生の腕が私の頭の上に伸びて、ポンポンと優しく撫でた。その仕草に一瞬ドキリとして、私は目を伏せる。
「美咲は頑張ったと思うよ。本当に」
樹生の声が優しく落ちる。樹生の手が私から離れると同時に、私は樹生の顔を見上げた。樹生と私の視線がしっかりと重なった。
「美咲さん」
突然、低く鋭い女性の声が聞こえて、私達はビクっとして振り返った。そして、私は窒息するかのように息を呑んだ。
鋭く睨んだ目が、真っ直ぐに私を捉えていた。そこには樹生の母親が立っていた。
「お庭で立ち話もなんでしょう?宜しかったら、中でお茶でもどうかしら?」
そう続けた樹生の母親の表情は跡形もないくらい、すでに柔らかくなっていた。私の心臓はドグドクと血が溢れ出るように重苦しく騒ぎ出す。
その一瞬の表情に私はすべてを悟っていた。樹生の母親は私が不倫相手の子であることを知っているのだと。
「樹生さん」
樹生の母親の後ろから、小さな男の子を抱いた女性が現れた。私はその女性とその子供を初めて見たけれど、すぐに樹生の妻子であると気付く。
樹生の妻は少し不安げな顔をして、樹生と私の顔を順々に見た。その目が何かを察したように感じてしまったのは今に思えば間違っていなかったのかもしれない。
「おばさま。ありがとうございます。でも私、帰りますね」
私はどことなくこの場に居てはいけない気がして、大きく頭を下げて誘いを断った。
「あらそう?またお食事にいらしてね」
「はい。ありがとうございます」
そう答えながら、樹生の母親や妻子とまともに目を合わすことができない自分がいる。
樹生は結婚して、家族が出来た。私は就職が決まり、父の援助がなくても自活していける。樹生の母親にとって私は消えて欲しいであろう存在。
私はもう二度とこの家に来てはいけない。 この片瀬家と全て縁は切るべきなのだとその時は直感的にそう思った。
「美咲…」
帰ろうとする私を樹生が呼び止めた。でも私は樹生に振り返られなかった。樹生の母親と妻の視線が怖かった。
「さようなら」
『またね』なんて、声に出すことすら恐ろしくて、私は決別にも似た挨拶を残し、足早にその場から立ち去った。
樹生の屋敷の外へ出た時には、無意識に大きな息が漏れてしまった。
もう二度とここには来ることはないだろう。樹生の屋敷を見上げながら、そう思った。だけど、その予想を反して、私はすぐにこの屋敷に訪れることになっていた。




