樹生と美咲の罪と嘘。そして償い01
産まれた時から父が居ないことでからかわれたり、苛められたりしても。日々忙しく働いている母は家に居ないことが多かったとしても。私は自分の生まれた境遇を神様に恨んだことは一度も無かった。
優しく微笑んだ母はある時まではずっと暖かい陽だまりのようだったからだ。
でも父の存在を打ち明けた後の母の表情は今までと違うもの感じてしまったのは何故なんだろう。
高校3年の私立大学合格発表日の夜。
食卓に招かれた中年男性は、それまでは違和感なく私にとっては親しい気の知れた母の古い友人だったはずだった。
その男性には妻も息子も居た。母が夜勤で帰らない夜はその男性の自宅の食卓でご飯を食べ、泊まらせてもらっていたことだってある。だから、彼らの家族を私はよく知っていた。
「片瀬のおじ様が、私のお父さん?」
「そうなの。ずっと本当のことを言えなくてごめんね。美咲」
母の穏やかで達観した表情がその時は妙に怖く感じた。隣に座る父を見た母の表情が妙に艶めかしく感じた。
私は母と2人きりでずっと過ごしてきたせいで、母が女であるという意識を敢えて持ち合わせてなかったように思う。母は私にとっては性別を感じさせない何か別の生き物で、私だけを愛してくれる普遍的なものだったのかもしれない。
事実を打ち明けられた父は一瞬言葉を失った後、すぐ私に向き直り、母と同じような優しい笑顔をして見せた。
「美咲ちゃん。申し訳ないんだけど、お母さんと2人きりで話をさせてもらってもいいかな?」
緩んだ眼尻にできた皺が、私の心の中で膨れ上がっていた彼の面影を映す。
「ねぇ。ということは、もしかして、樹生は……」
その先の言葉を私は声に出すのを無意識に憚れた。
「そうね。腹違いではあるけれど、2人は兄弟なのよ」
『2人は兄弟なのよ』
恐ろしい言葉や認めたくない言葉が強く耳に残るというのは本当だと思った。突然、身体の中に真っ黒の絵の具を流し込まれたような気持ち悪さを感じる。
「……私、自分の部屋に行くね」
視線の定まらない目を泳がせて、私は椅子から立ち上がる。足に力が入らなくて思うように立ち上がれずに戸惑った。
「ごめんね、美咲ちゃん。後でゆっくり私と話そう」
冷静で静かなその声に、おぼつかない足は恐怖を覚えて逃げようと必死になる。
「はい」
私は声になったか分からない音を頷きと共に返して、リビングを出た。
閉めたリビングドアの取っ手には、不快な滑りを残していた。自分の両手を見ると手は震えていて、汗をかいている。
自分の部屋に向かう気力もなく、足はその場に立ち尽くした。
「まさかとは思っていたが……」
リビングの中からすぐに父の怒気をこめた声が聞こえた。
「あなたの性格からして、最初から打ち明けたら門前払いでしょう?」
それに対して、母の声はひどく滑らかで澄んだ声だった。
「何故、おろさなかったんだ?おろすのに十分な金は渡したはずだろう?」
「あなたの子を育てたかったの。あなたを本当に愛していたから」
「そうは言ったって、俺には家族があるんだ。不倫だと分かっていて俺たちは付き合っていたはずだろう?子供を産むのは反則じゃないか?」
「あなたの子をおろすなんて、出来るわけないじゃない。あなたが世間体を気にするなら、美咲のことをあなたの家族に打ち明けなくてもいいわ。これまで通り、知り合いの子供ということだっていい。でも美咲の学費を援助して欲しいの。私は美咲に夢を諦めさせたくない」
決意にも似た母の言葉に私は重く打ちひしがれる。
私の夢が通訳じゃなかったら、この現実は向き合わなくても済んだのだろうか。私が傷つくことも、樹生が苦しむことも、私達が罪と嘘を背負うこともなかっただろうか。
※
「美咲の夢は通訳だっけ?」
「うん。でも通訳として給料をもらえるまでになるのは難しいと思う。今は英会話に通えるような余裕ないし、お母さんは大学に行きなさいって言ってくれてるけど、本当なら進学しないで就職した方が良いのかなとも未だに迷ってるくらい。だから、せめて英語がスラスラ話せるくらいにはなれたらいいな」
「外国人の友達でも作ってみたら?」
「それ名案かも。樹生、誰か紹介してよ」
「俺に頼むのかよ。俺に外国人の友達がいるわけないだろう?自分で探せよ」
「じゃあ、樹生のパソコン貸してよ。ネットで探してみるから」
「しょうがないな。じゃあ、今夜検索してみるか?」
「うん」と私が笑顔で頷くと、樹生が私の頭に手を伸ばして、ポンポンと叩いた。その仕草に胸がキュンとなりながら、樹生の腕の動きを目で追ってしまう。
街中に溢れているイルミネーションが背景となって煌びやかにキラキラ輝く。
樹生の姿を見て、私はとても夢見心地になる。
まだ高校生だった当時の私には、自分より先に大学生になった樹生が大人っぽく見えてドキドキした。
「予定通り、映画館でいいのか?」
樹生は辺りを見回して、私に尋ねた。
待ち合わせた駅前は恋人ばかりで、手をつなぎながら、イルミネーションの輝く街へと歩いていく。
「うん。今日はね。私にしては珍しく見たい映画があるの」
「へぇ。大雪にならないことを祈るしかないな」
チラチラと降り始めた雪を見上げて、樹生はおどけてみせる。
クリスマスだったその日。
『クリスマスに大切な人と一緒に見て欲しい』と話題になっていた映画を私はどうしても樹生と見たかった。
「いいでしょ。だってクリスマスだし……」
私は恥ずかしさを隠して、ふてくされ顏を作る。
伝わってるのか、伝わっていないのか分からない私の気持ち。樹生のことを考えてしまうと、授業中であっても意識が全てそれだけになった。樹生と映画を見に行く予定が決まると、人生がバラ色になってしまったかのように景色が明るく見えた。樹生のことを思うと、ドキドキが止まらなかった。
その日観た映画の内容はクリスマスの夜に相応しいほど、大切な人との愛に溢れていた。
映画館を出た後の帰り道。私の心は物語の世界に浸り過ぎて、ふわふわしていたように思う。
「なんだか……誰かをすごく好きになりたいって思っちゃった」
映画のパンフレットを眺めると印象的だったシーンが甦る。クリスマスの街並みが映画のシーンと重なって、自分たちも同じ世界に入り込んだように錯覚する。
「なんだよそれ。なりたいって思えば、誰かを好きになるもんなのか?」
樹生は呆れたように言う。
「ならないけど……」
私はチラリと樹生をみる。
私の気持ちは伝わってるの?伝わってないの?言葉では表したことがないくせに、見えるはずのない樹生の心を探ろうとする。
すると樹生は大人びた顔をしてみせて笑ってみせた。目尻が緩んで、猫の髭のように皺ができる。
「まぁ。その映画の感想は間違ってはないけど」
樹生はそう言った後、するりと私の手をつないだ。
温かい大きな掌に包まれた私の手から、自分の気持ちが流れ出して、お互いの気持ちが伝わってくる気がした。
あの頃の私達は当たり前ながら似ているところがあって、それが親密さを増す糧となっていた。樹生と私が男と女として意識し合ってしまったら、気持ちはお互いに一気に膨れ上がっていた。
私の服のボタンを外す樹生の手を抑えて、私は樹生を俯き加減で見る。
「私…、初めてなんだ」
消え入る声で不安を訴えると、樹生は「知ってる」 と言って、目尻の皺を作って笑ってみせた。
2人の年の差は指折り数えられる程度なのに、樹生はそうやって余裕ぶりをみせた。それでも私の身体を這う樹生の手はぎごちなくて、互いの慣れない間は何度かできた。
気持ち良さなんて分からない。ただただ流される。痛さに耐えて樹生の背中にしがみつくと、樹生が私の名を呼んだ気がした。
「大丈夫だから、何もかも俺に委ねろ」
初めての彼氏に舞い上がった。初めて両想いになった異性に心も身体も許した。その相手が血のつながった兄であったなんて思いもしていなかった。
※
父の存在を打ち明けられたその日。母と話し合った父は私に言った。
私立大学に通うための学費は援助する。だけど私が娘であるという事実を周囲に打ち明けるのは待ってほしいと。
父には身内のない母や私と違って、抱えている世間体が大きすぎた。
当時、父は政治家として地域では顔の知れた人だった。選挙シーズンになれば、父の顔写真をあちこちで見ることになる。それを私は単なるネタとして、樹生を囃し立てていたくらいだった。
「時期が来たら、私から家族には話すよ」
そう言った父の顔は強張っていた。
私を望んでいないのだと分かってしまったから、その顔は気の知れた親しい他人から、一線を引きながら気を使う身内へと変わっていた。
その後、私は付き合っていた樹生に断りなく、新しい彼氏を作った。そして、樹生にわざと新しい彼氏と居るところを見せつけて、樹生から距離を取ってみせた。
私のその行動に樹生は不機嫌な態度を取ったけれど、私を責めることはしなかった。私はそれに甘えて、樹生に「別れたい」とも、「嫌いになった」とも言わなかった。
私は樹生のことが本当に好きだった。本当は別れたくなかった。嫌いになんてなれなかった。だけど、この気持ちはどうすることもできない。好きであることがいけないこと。
樹生への気持ちが消えて欲しいと願い、経験を上書きするかのように、私は樹生以外の男と付き合った。樹生を忘れるための手段として付き合った彼氏だったから、それほど長続きはしなかった。それでも誰とも構わず、私は次から次へと新しく彼氏を作った。
彼氏よりも樹生への気持ちが勝ってしまいそうな時は、敢えて樹生に彼氏の相談を持ちかけた。話を聞きたくなさそうにする樹生の態度を無視し、私は彼氏との惚気話を延々と樹生に話し、聞かせた。
そうすることで、私は樹生のことを好きではないと自分に証明してみせた。
樹生をわざと傷つけて、裏切って、私と樹生に起こった事実は跡形もなく何事もなかったかのように振る舞ってみせた。
そうすることでしか、私の心の中にいる樹生を消し去る方法が分からなかった。
しばらくして、樹生も結婚が決まった。そして子供も生まれた。それからも樹生と私は付かず離れず、お互いの生活を敢えて報告し続けた。
父が家族に私の存在を明かしたのかは分からなかった。
曖昧で大っぴらに出来ない『2人は兄弟である』という現実を、ひたすらグレーゾーンに無理やり押し込め、私は樹生と本音で向き合うことから逃げ続けた。




