恵吾と美咲の嘘。そして樹生14
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リビングテーブルに向かい合わせに座る樹生と恵吾の前に、私は静かにコーヒーを差し出した。
苛立ちを隠しきれない樹生はすぐにコーヒーを口に運ぶと「それで?」と恵吾に敵意を向ける。
「5年も経ってから何がしたい?今さら離婚したと言われても、俺はまったく理解できない。5年前、俺がアンタを問い詰めた時、アンタは結婚していることを認めたんだ。既婚者のくせに美咲を誑かして、泣かせたことは事実だろう?」
樹生は捲し立てるように恵吾を責め立てる。恵吾は恐ろしく厳粛した顔で樹生を見つめ返す。
「確かに、あなたと初めてお会いした時、僕は結婚していました。その後しばらくも、妻とは婚姻を解消できていませんでした」
「じゃあ、何ですか?いまさらながら、その結婚相手と上手くいかなくなって離婚したから、美咲とやり直したいとか?そんなの虫が良すぎないか?」
樹生は叩きつけるような厳しい口調を崩さない。
「何を言われても仕方ないとは思っています。でもこれだけは信じて欲しいんです。妻であった香織とは離婚するつもりだった」
恵吾は私に向き直り、恐ろしく真剣な眼差しで私の視線を捉える。
「僕はいずれは美咲と結婚するつもりでいたくらい、最初から君とのことを真剣に考えていた」
「そんなこと、どんな風にだって言える」
恵吾の告白に噛み付くかのように樹生が食って掛かる。
「これは5年前、僕と妻が離婚するために申告した裁判記録です」
恵吾は私が見たものと同じものであろう書類を厳かにテーブルの上に置き、樹生の前へと差し出した。樹生が恵吾を一瞥した後、記録を読み始める。
「美咲はその記録、読んでくれたんだよね?僕の口からも説明していい?」
私は恵吾の目を見て、小さく頷く。恵吾は幾分、強張っていた表情を緩める。
「僕の父親が事業に失敗して、多額の借金を抱えたのは前に話したよね?」
私は静かに相槌を打つ。
「その借金を無利息、無期限で肩代わりしてくれたのが、僕の父親の親友でもあった香織の父親。5年前、僕たちが働いていた会社の社長だったんだ」
私はその事実を恵吾の同僚だった営業部の大野から聞いていたから、知っていた。恵吾が抱えている父親との問題が簡単ではないことを受け止めていた。
「中学生だった僕のその後の生活を援助してくれたのも社長だったんだ。だから、僕は予ねてから社長には本当に感謝していた。恩を感じていた。実の親と変わらないくらい慕ってもいた」
樹生が裁判記録を読み終えたのか、テーブルの上に置く。そして、そのまま口を閉ざす。
恵吾はそんな樹生の様子を確認した後、説明を続ける。私と樹生は黙ったまま、恵吾の話に耳を傾けた。
「僕が成人して、就職活動を始めた頃だった。社長がね。娘である香織と結婚するようにと薦めてきたんだ。また、社長が契約している会社を継いで欲しいとお願いしてきた。そして、僕の父親へ貸した金は全て無しにするから、僕の父親にも僕にも、返さなくていいと申し出てくれた。
父親の借金が無くなるなら、父親は立ち直れるかもしれないとも思ったし、香織とは幼馴染で、それなりに仲が良かった。好きだと勘違いするくらいにも慕っていた。香織もすんなりと結婚に同意したんだ。だから社長に薦められた結婚とはいえ、その時は良い縁談だと思っていた。自然な流れのようにも感じていた。
だけど、その結婚が香織にとっては親子の確執と僕への同情の産物だったと知ったのは結婚した後のことだった」
恵吾は一度、間を置いて、私と視線を合わせた。その目の奥に、5年前から恵吾が時折見せる寂しさが見え隠れする。
「香織の両親はね。香織以外に子供が恵まれなかったんだ。だから香織は、幼い頃から社長の会社を継ぐよう教育されていた。ある意味、今になって振り返れば、洗脳に値するのかもしれない。
香織は何をするにも社長にずっと従ってきたし、社長が望むように生きていたように思う。だけど大学生になった頃、何が弾けたかのように一気に両親に反発するようになった。
会社は継ぎたくないし、自分の好きなよう生きたいと思うようになった。その思いを社長に告げた時、社長が申し出た取引が僕との結婚だったらしい。僕と結婚するなら、自分の好きに生きていいと言われたんだ。
当時、親に強いられた狭い視野しか知らなかった香織にとってはきっとそれが最優の選択に思えたんだと思う。蓋を開ければね、僕たちは借金の帳消しと人生の自由を条件に結婚していたんだ」
樹生が静かにコーヒーを啜ると、恵吾にも飲むように促す。恵吾は小さく会釈して、冷めたコーヒーを少し啜ると、話を続ける。
「僕と香織は結婚したけれどね。ほぼ一緒には暮らしていなかったんだ。香織はまさにカゴの中の鳥がカゴの外に出て自由を喜ぶかのような生活を始めた。
半年くらい消息不明だったこともある。海外に住んだりしていたこともあった。香織の母親に泣かれて、僕が何度か香織を連れ戻しに行ったこともある。それでも香織は僕の側でじっとなんてしていられなかった。
香織が国内で落ち着いて生活するようになったのは結婚して5、6年経った頃だったかな。その理由は僕以外の男と関係を持つようになったからだったよ。だけど僕は咎められなかった。そんな気分にすらならなかった。
香織にとって僕は父親から逃れるための駒でしかないと思い知らされていたし、香織は辛いことがあっても、僕が前では決して泣かなかったし、頼りもしなかった。僕は香織からいつも必要とされていなかったんだ」
寂しさと冷たさが混じった恵吾の目が私を捉えた後、優しく緩む。私はその表情にくらりと気持ちを持っていかれそうになり、慌てて目を瞬きさせて気を逸らした。
「美咲と初めて出会った時、初対面にも関わらず、美咲は驚くくらい僕の前で泣いたよね。僕は救われた気がした。僕を必要としてくれる人がいるのかもしれないと勘違いさせてくれた。
泣いた後僕に笑顔を見せた時、心から僕が守りたいと思った。仕事では凛として背筋を張っている美咲が、僕の前で不意に隙をみせてくれると堪らなく愛しかった」
恵吾の告白によって、私はまた恵吾への気持ちが吸い込まれそうになる。
そんな情けない自分を樹生に気付かれなくなくて、私は下を向いた。恵吾の声が引き継ぎ、私の頭の上から落ちる。
「美咲をアトリエに初めて連れて行った日、僕は香織と正式に離婚しようと決めた。香織にもすぐに話して、香織もすぐに同意した。だけど問題となったのは、社長と交わした結婚の条件だった。
僕は香織と結婚し、会社を継ぐ代わりに父親の借金を無しにした。香織は僕と結婚することで自由を得た。離婚するなら、その条件を復活させると社長は言ってきたんだ。
僕はね。夢はあったけど、会社を継ぐことに香織ほどに抵抗があったわけじゃない。香織の父親が望むなら、香織の自由を保障する代わりに会社を継いでも良かった。自分の父親の借金を肩代わりしてくれた社長には恩はあったし、社会的な立場は社長に従ってもいいとも思っていた。
でも、そんな風に自分を蔑ろにした僕では駄目なんだと思い知ったのは、美咲に彼氏がいると知った時だよ。僕を必要としてくれていると思った美咲すら、僕以外に彼氏が居た。やはり僕は必要とされないのだと分からされた。
僕は何もかも白紙にすると決意した。弁護士をしていた祐輔に依頼し、僕と香織、そして香織の父親との調停を依頼した。全てが白紙になったら、僕は美咲を彼氏から奪えると願った。
そして、5年前の僕の誕生日の午後、僕と香織の離婚は成立した。僕は美咲の誕生日に全てを打ち明けて、美咲にプロポーズするつもりでいた」
「なんで、最初から全てを美咲に打ち明けなかった?」
樹生が静かに重く、恵吾に質問する。
「あなたがいたからです。あなたは僕に、『美咲が真剣に付き合っているのは俺で、お前のことは遊びだ』と言った。だから、僕が香織と離婚してまで美咲のことを愛してると知ったら、美咲は僕を面倒くさく思って去っていくかもしれないと恐れていた。美咲は僕のことを1番に愛していないのではないかといつも不安だった」
「俺のせいだと言うのかよ。美咲が本当に好きなら、すぐに何もかも捨てて、美咲に真っ直ぐ向かうことだって出来たはずだろう!」
「樹生!」
声を荒げた樹生を落ち着かせようと、私も声をあげる。
樹生は恵吾に対して怒りを向け、睨み付ける。だけど恵吾が樹生に返した表情はまったく状況にそぐわない驚いた顔をしていた。
「たつき?あなたの名前、樹生なんですか?」
恵吾は鞄の中から茶色い封筒を取り出して、中から書類を取り出す。それは私が恵吾についた嘘を根底から覆してしまう切り札。
「ねぇ美咲。僕はずっと嘘をつかれていたってこと?戸籍上だと君は結婚なんてしていなかった」
前のめりになる恵吾に、私は身体を引きながら、目を反らす。
「美咲は結婚していないの?美咲の隣に居るのは片瀬樹生さん?樹生さんは本当に彼氏なの?」
恵吾に塗り固めた嘘は暴かれてしまう。
「樹生さんと美咲、2人は兄弟ってことになってる」
『2人は兄弟なのよ』
恵吾の声が突然、母の声に重なり、悪夢を呼び起こすように降ってきたような気がした。
思い出したくもない。樹生と私が口に出すことすら無意識に避けてきた事実。
樹生が私の兄であると意識する度に、心が貶められ、受け止めたくない過去に目を反らしたくなる。
樹生と私は、この罪と嘘をずっと背負っていかなければならないというのに‥‥‥。




