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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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恵吾と美咲の嘘。そして樹生09

 私がまだ高校生で、あと数ヶ月で卒業を迎えようとしていた頃のこと。

 私は通訳になりたい事をまだ母に話せていなかった。

 母子家庭で育った私は我が家が金銭面で余裕の無いことは十分に分かっていた。援助してもらえるような身内もいなかった。だからお金の掛かることは望めない。私は地元の公立大学を受験し、滑り止めということで、私立大学も受験させてもらっていた。

 母には地元の公立大学が第1志望だとずっと伝えていた。だけど、本当の第1志望は滑り止めで受けた私立大学。海外留学に力を入れていて、世界各国の大学とのネットワークが充実していたその私立大学は、英語圏の国に限らず、ヨーロッパやアジアにも姉妹校があり、通訳を目指す生徒に人気があるところだった。

 通訳になりたい私は出来ればその大学に通いたかった。でも、私立大学となれば学費の多額。まして留学ともなれば、よりお金が掛かる。特待生になれるほどの学力があればいいのかもしれないが、そんな秀才にもなれない私。

 私立大学の合格発表の日。大学の掲示板に書かれた自分の番号を見た瞬間、私は喜びと落胆の両方を感じていた。

 叶うかもしれない未来。だけど、諦めないといけない未来。

 その帰り道も、私は母に合格したことを話すべきか悩んでいた。


 公立大学の合格発表はまだしばらく先だった。だけど、その公立大学の合格発表日よりも前に、私立大学の入学手続きを済ませないといけない。

 沈んだ気持ちで自宅に帰ると、母は忙しくキッチンを動き回っていて、食卓には普段よりも豪華な料理が並んでいた。

 母が作る料理の中でも私の1番大好きなグラタンを真ん中に、近所で美味しいと評判のパン屋のバケット。肉料理に、スープまで。2人きりでは食べられない量がテーブルいっぱいに置かれている。

「美咲、おかえり」

母の笑顔に私は戸惑いながら、「こんなにたくさんどうしたの?」と聞いた。

「まぁ、いいから。手を洗ってらっしゃい。そして、ご飯食べましょう」

 そう答えた母は、まだ合格したことを母に伝えていないのに、妙に上機嫌だった。今思い返せば、この後に予定していた事に緊張していたからかもしれない。

 支度を済ませた私が席につくと、母も席についた。そして、私と母以外の席に、もう一人分の箸が用意されていたこと気付く。

「誰か来るの?」

「そうなの。だけどその前に、美咲。お母さんに話すことないの?」

 母は優しく笑って、私の顔を覗き込んだ。

「うん。そうだね……」

 私は浮かない顔をして、母から目をそらして下を向いた。出来ることなら、母に試験結果を伝えることなく、母が誤解してくれたらそれで良いとも思っていた。

 世間一般の親なら、暗い表情の娘の顔を見れば、不合格だったのだと思ってくれるだろう。だから、そのまま追及せずに、労いの言葉くらいをかけて話を終わりにしてくれたらいいと思っていた。でも母は「正直に話しなさい」と更に追及してきて、私は下を向いたまま身を固める。

 仕方なく「合格だったよ」と小さな声で合否を伝えると、母は私の頭をすぐに軽く小突いてみせた。

「合格したのに、そんな暗い顔をする子。美咲くらいじゃないかしら。まったく、困ったわ。子供の夢を潰すような母親になるつもりはなかったのに。通訳になりたいといっていうのは、諦められちゃうくらいのものなの?」

「知ってたの!?」

 母の口から通訳という言葉が出て、私は驚いて顔をあげた。母の自信たっぷりの笑顔が待ち構えていて、妙な脱力感に包まれる。

「美咲が通訳になりたいというなら、お母さんもそれを応援したいわ」

「でも……」

「美咲の言いたいことは分かる。だからお母さんにも考えがあるの。美咲もそろそろ一人立ちできる年齢になったと思う。だから、美咲に打ち明けることにした」

「打ち明ける?」

「美咲が心配している通り、お母さんには美咲を私立大学に通わせるだけの財力はないわ。だから、援助を頼むことした。ずっとお母さん1人で美咲を育てられると思っていたけれど、どうしても及ばないところは出てくるものだと最近身を以て知ったわ。美咲に黙って援助してもらう方法も考えたけれど、ちゃんと打ち明けることにした。後々のことも考えて」

 母の言う『後々のこと』が母の病気のことを意味していたのだと知ったのは母が死んでからだった。母はこの時すでに、自分1人で子供を育てる限界を感じていたんだと思う。

「美咲はお母さんのしたことを知って、傷つくかもしれない。辛い思いをするかもしれない。だけど、お母さんが美咲のことをすごく愛していることは分かっておいてね」

 母はその後、私たちの食卓に父を招いた。


 訪れた父は以前から顔見知りだったから、余計に驚いて、母は父と私に事実を隠したまま、私達を引き合わせていたこと。そして、私を私立大学に入れるために、前々から算段していたのだと知った。

 父と娘の感動的な対面。生き別れになっていた家族と巡り合い、その後幸せに暮らしましたなんて、不倫の間に産まれた子には存在しない。

 私が実の娘だと知った父は怒りを抑えるような声で母を問い詰めた。

「何故、おろさなかったんだ?おろすのに十分な金は渡したはずだろう?」

 そんな父に対して、母はすごく冷静で落ち着いていたように思う。

「あなたの子を育てたかったの。あなたを本当に愛していたから」

「そうは言ったって、俺には家族があるんだ。不倫だと分かっていて俺たちは付き合っていたはずだろう?子供を産むのは反則じゃないか?」

「あなたの子をおろすなんて、出来るわけないじゃない」

 亡くなっていると聞かされていた父が実は生きていたのだと知り、父は私の存在を喜んでくれないのだと知った夜だった。



 胸の中にじっとりとへばりつくような重たさを思い出して、子宮が突然キュと痛み出す。

 私は咄嗟に自分のお腹をさすって、エコーで映し出された子宮の中の小さな命を思い出した。湧き上がる思いはお腹の子を失いたくないと強く願う感情。産婦人科の診察で、お腹の子は妊娠3ヶ月と診断された。

 結婚している恵吾の子。不倫して出来てしまった子。恵吾は私のお腹の中に子供が出来たと知ったら、何というのだろう。私の父や樹生と同じようにおろせと言うだろうか。

 樹生に妊娠したことを報告した後の数日間、私は恵吾に子供のことを打ち明けるか迷っていた。

 私自身、子供を産み、育てることは決心していた。不倫して出来た子供だとしても、愛している恵吾の子をおろすなんて考えられなかった。そして育てたかった。

あの日の母の言葉が強く自分の気持ちとリンクする。

 おろすという選択肢がないのだとしたら、恵吾にお腹の子を認知してもらうか、逆に打ち明けず恵吾に内緒で産むかの選択しかない。もし恵吾におろせと言われるくらいなら、恵吾に望まれないことを知るくらいなら、打ち明けない方がいいかもしれない。

 社内で顔を合わせる毎日、恵吾の顔をこっそり伺いながら、覗けない恵吾の気持ちを探った。

 時折、私の視線に気づいた恵吾が私に微笑みかけてくれる。私はその度に、胸が苦しくなっていた。私が「恵吾の子供を産んでいい?」と聞いたとしたら、「産んでいいよ」と言ってくれそうな笑顔。でもその笑顔で、恵吾はいつも私の要求を跳ね除けていた。

 恵吾が欲しいと強く願えば、それを受け止めてはくれなかった。だから、子供を武器に強く強く願ったら、それに逆らって恵吾はきつく拒否するかもしれない。


 昼休みになった時、恵吾は珍しく一人で課内のオフィスを出て行った。

 ここ数日間、恵吾は忙しく動き回っていて、2人きりでゆっくり話す時間を作れていない。

 打ち明けるか打ち明けないかの決心はついていないけれど、私は迷いながらも恵吾の後を追った。

 社内の会議室の方へ1人歩いていき、恵吾は人の気配の少ない場所に向かったから、話しかけるにはより好都合だと思い、更に足を進める。

 廊下の曲がり角に差し掛かると、恵吾の姿が見えなくなったから、私は足早に恵吾の元へと急いだ。

 恵吾が見えなくなった場所にたどり着くと、廊下の先には恵吾の姿はなかった。すると、近くの会議室の中から声が聞こえてきた。

「引き抜き?僕を?」

「そうよ。グローバルインテリア株式会社の社長さんと話したら、是非、恵吾を引き抜きたいって。グローバルインテリアは国内でトップクラスだし、海外事業も手掛けてるから、申し分ないでしょう?待遇も相談にのってくれるって話よ」

 会議室の中に居たのは恵吾と香織だった。2人の会話から、恵吾がヘッドハンティングされているのだとすぐに分かる。

「グローバルインテリアか‥‥。確かに良い話だね。だけど、僕がこの会社を辞めるわけにはいかないだろう?」

「お父さんに恩があるのは分かるわ。だけど、いつまでそうしてるつもり?そろそろ自分の夢を追いかけるのもいいんじゃないの?借金なら、別の会社で働きながら返すことだって出来るでしょう?なんなら、私からお父さんに話してあげるわよ?」

「話すなら、自分から話すよ。香織には本当に感謝してるけど、僕は香織との今の関係を壊したくないんだ」

「それは私だって同じ思いよ」

「僕のために、いろいろとありがとう。香織」

 恵吾が香織に手を伸ばそうとするのが見えた。私はそれ以上、その場にいることが出来なくて、目をそらして逃げていた。


 私には恵吾の借金の肩代わりになれるほどお金はなかった。圭吾の夢を叶えてあげられるようなコネもなかった。

 恵吾が香織との関係を壊したくないと思っているのなら、お腹の子の存在は圭吾にとって喜ばれるものじゃない。

 私は恵吾と香織の会話を聞いて、お腹の子のことは恵吾に打ち明けず産むことを決心した。

 母の愛だけでも、私は充分幸せだった。だから、私の愛だけだって、お腹の子を幸せにだってできるはず。

 だけど情けないもので、今の自分にはお腹の子を育てられるほどの金銭的な余裕は無かった。母を亡くした私は頼れる人もいない。

 妊娠したことを恵吾に打ち明けずにいるには、お腹が目立たないうちに会社を辞めなくてはならない。

 妊娠している派遣社員を雇ってくれる会社なんて無いだろう。だけど、お腹の子の健診や出産費用は必要だし、日用品もすべて1から揃えなくてはいけなかった。

 母がどんなに死にもの狂いで私を育ててきたかずっと見て来ていたから、子供を育て上げることがどんなに大変なことかも想像がついた。私が寝た後も仕事をしていた母。それでもずっと1人で頑張ってきた母が最終的には父に援助を申し込んだ。

 子供をしっかり育てていくにはやっぱりお金の必要性は否定できない。私のお腹に宿った大切な命。私はお腹の子を安心して育てたかった。


 その日の帰り道。申し合わせたように樹生が最寄駅で私を待っていた。

 樹生は私に近づくと何も言わずに隣を歩きだして、そのまま2人は私の自宅へと歩き出した。空は少しずつ夕闇が迫っていて、互いの顔が見えなくなっていくように薄暗くなっていく。

「樹生」

「なに?」

「私、樹生の申し出受けるよ」

「そうか」

 私達は目を合わすことなく、その後はまた黙ったまま帰り道を進んだ。

 空はどんどん闇が深くなっていた。

 でもその闇は決して暗い未来ではなく、互いの嘘を隠すためのベールだと私は思っていた。


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