恵吾と美咲の嘘。そして樹生04
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樹生と出掛けることになった翌日、私達は駅で待ち合わせ、そのまま映画館の受付ロビーに立っていた。
「何を観る?」
映画のタイトルが表示された電光掲示板を眺めながら、樹生が聞く。
「最近の映画はどれも見ていないから、どれでもいいよ」
「相変わらず、コレと言ったモノがないんだな」
樹生は私の返事が予想どおりだったらしく、呆れたように笑った。
樹生と知り合ったばかりの頃、私達はよく2人で映画館に来ていた。だけど、お互い映画が観たくて来ていたわけじゃない。私の母に2人きりで出掛けることを半ば強引に勧められていた学生の時、会話の続かない私達が選んだ行き先が、会話をしなくても時間を潰せる映画館だったからだ。
上映していた映画は限られているのに、会う度に映画を観たから、興味のないジャンルも合わせて、しらみつぶしに映画を観た。そのおかげか、お互い映画に詳しくなり、映画を通して樹生と私は打ち解けていたように思う。
「どちらかというと、映画はDVDで見る方が好き」
「字幕が邪魔だからだろう?俺もそんなこと言ってみたいよ」
そう言いつつもさほど羨ましそうではない樹生の表情を見て、私はわざと自慢げに笑ってみせる。
「じゃあ、英語を勉強すればいいよ。教えてあげようか?」
私が弄るような目をすると、樹生は「俺は歴史さえ理解できればそれでいい」と嫌そうな顔をしてみせた。
樹生は塾で『世界史』を講義していた。樹生の教える世界史は予備知識満載な楽しい講義で、生徒達からは人気があるらしい。
どの時代にどんな出来事があったのかはもちろんのこと、世界史に登場する人物の恋愛事情やその時代の社会的な裏事情、それに伴った世界への影響などにもとても詳しい樹生。
樹生の話を聞くと、教科書に載っている人物が何を考え、何に悩み、何故そういう行動を取ったのかと共感しやすかった。大昔、彼らは人間として生きて、私達と変わらない感情を押し上げて、偉業を成し得たのだと思わされた。
「世界の歴史を実際に見に行くなら、英語が出来ると便利だよ?」
「その時は美咲を連れて行くからいいんだよ」
「やだよ。なんで一緒に行かないといけないの?」
「観光先で歴史のうんちくが聞けるから、一緒に行ったら楽しいだろ?」
「話し出したら止まらないでしょう?一日で一ヶ所しか回れなさそう」
「言ったな、こいつ」
樹生は私の頭をグリグリと拳で押す。私は笑いながら、樹生に抵抗する。
樹生と冗談を言い合ったり、じゃれ合いをしていると、沈んだ気持ちが薄れて、心が和んでいく。
「ねぇ?観る映画は、また『せーの』で決める?」
「いいよ。じゃあ、せーの」
「「3」」
2人は同時に電光掲示板の映画タイトルの横にある番号を声に出した。同じ番号を言い合ったから、同時に2人して吹き出す。
なんだかんだ私と樹生は似ているところがあって、同じ感覚をしていると思うことがよくあった。そして、こうして趣味も合った。
「今日は俺が奢ってやるよ」
「やだよ。樹生に借りを作りたくない」
「じゃあ、昼飯は奢れよ。それで貸し借りなし」
「待って。それじゃあ、私のが高くつくじゃない!」
恵吾のことばかり考え、1人寂しく何もしないで週末を過ごしてしまうなら、樹生と笑いあいながら過ごすのも悪くない。本来ならこれが正しい週末の過ごし方。恵吾と過ごせるかもしれないと期待して予定を空けておくよりも、予定を入れてしまった方がいいのかもしれない。
でも予定を入れたとしても、恵吾から突然誘われたら、私はきっと元の予定よりも恵吾を優先してしまうことは分かっていた。その証拠に、映画を観ている時も、昼食を食べている時も、私は気付くと恵吾からの連絡を待っていた。
会えない週末、私が無視をしたとしても、恵吾は必ず連絡だけはくれていた。だからその日も、きっと連絡はくれるだろうと思っていた。そして、もしかしたら、前日に中断した2人の時間を詫びて、誘ってくれるかもしれないとも期待していた。
だけど、その私の期待を大幅に反して、その日は朝から一度も恵吾からのメールは来ていなかった。
普段なら、すでに一通は送られてきている時間を過ぎているのに、携帯電話は沈黙し続けたまま。前日、香織のために帰ったという事実が余計に胸を締め付ける。
苛立ちにも似た嫉妬する熱さと、どうしようもないと諦めて絶望する冷たさが、混合することなく心を乱す。
樹生の話を聞いている最中もその波にのまれてしまい、会話が成り立たなくて樹生に何度か指摘された。
そして、私は恵吾から連絡が来ない理由を知ってしまうのだった。
こういう時、神はやはり存在していて、倫理に反する人間に制裁を下すのだなと思ってしまう。現実をしっかり見なさいと身を以て辛さを体験させるのだ。
その街には食事するレストランはごまんとあった。その街以外にだってあるはずだ。それなのに、その偶然は戒めとしか思えなかった。
樹生と昼食を食べ終わり、会計を済まして席を立つと、私は店内の奥の席に焦がれていた姿を見つけてしまった。恵吾は私ではない女性と話していた。そして、笑いかけていた。
やっぱりあの笑顔は、私だけのものにならない。絶望が痛みと共に胸に沈み込む。
恵吾の向かいに座っている女性は背筋を真っ直ぐに張り、パーマのかかった長い髪を揺らした。正面の姿は見えなくとも、その凛とした背中から会社で一度見たあの姿と重なる。その女性は、前日も私より優先させた結婚相手の香織に間違いなかった。
私は誰よりも恵吾を優先してしまうのに、恵吾は私を優先することはない。どんなにあがいても、それを覆せない家庭がある。
「美咲、どうかした?」
先に席を立っていた樹生が振り返って、立ち上がったまま動かなくなった私に気付く。そして私の視線の先を追い、恵吾の存在に気づいてしまった。それと同時に現実はやはり酷なもので、恵吾も私の存在に気づいてしまうのだった。
私は慌てて目をそらす。だけと、もう遅い。
「……またアイツかよ」
樹生は私に近づいて耳元に嫌そうな声で呟くと、すぐさま私を引き寄せた。
「樹生っ」
私が小さく抵抗すると、樹生がぐっと力を入れてそれを許さない。
「結婚しているアイツに、勘違いされることが不味いわけ?」
樹生が重く低く、私の耳元にそう言った。私はその言葉に何も言えなくなって、抵抗できなくなってしまう。樹生にされるがままに、私はレストランの出口へと歩く。
恵吾がどんな顔をしてこちらを見ているのかは分からない。樹生を私の彼氏だと勘違いしているのだから、きっと尻軽な女だと軽蔑しているだろう。
無実を証明したいのならば、樹生の腕を振り払って、私は恵吾だけを好きだとアピールすればいい。だけどそうすることでどんなメリットがあるのだろう。
恵吾は既婚者であって、そして、その結婚相手と一緒にいた。それなのに私の無実を証明しても、ただ自分が惨めになるだけ。私だけが恵吾に溺れ、自分が哀れだと認めるだけ。
私は結局レストランの出口まで、樹生の腕を振り払うことが出来なかった。
いつだって2番目の私は、恵吾に捨てられた時に無様にしがみ付かないよう逃げ道をつくる。惨めで、哀れな自分じゃないと見栄を張って嘘をつく。
恵吾に初めて抱かれた時、私は樹生の存在を否定しなかった。そして、また更なる嘘を重ねてしまった。
この嘘はきっとこの先、取り消すことがない。
私が恵吾の1番になれる日なんてきっと来ない。それなら、この嘘を訂正することなんて、きっとできない。




