恵吾と美咲の嘘。そして樹生03
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アトリエのキッチンに買ってきた食器を並べて、私はカウンターに頬杖をつきながら、それらの食器の角を撫でる。お揃いの食器が恵吾との二人きりの食卓を描くようで胸はときめいた。
「さっそく今日はどれを使いたい?」
キッチン側に立っていた恵吾が優しく微笑む。
「そしたら、このお皿とこのグラス。そして、この箸かな」
使いたい食器を選んで、恵吾の分も合わせてランチョンマットの上に並べ終わると、気持ちはふわふわと幸せ心地だった。
買ってきたワインを恵吾から受け取り、それらの真ん中に置く。お互い夕飯を済ませていた私達は途中のコンビニで酒とつまみになりそうな惣菜を買ってきていた。
恵吾はサラダやチーズなどの惣菜を盛りつけた大皿も私に渡す。その大皿を受け取りながら、その皿はインテリア雑貨店で買ってきたものではなく、アトリエでずっと使っていたものだと気付いた。
特にその存在を気にしていなかった私は改めてその食器に興味がわく。大皿は千歳茶色をした陶器で黄色、桃色、水色などのパステルカラーの模様が入っていた。
思い出してみれば、その柄の皿はこのキッチンに何枚かあって、どれもサイズが違っていた。
「そういえば、この柄のお皿、たくさんありますよね?」
食事の支度が終わり、私の側に来た恵吾が椅子に座りながら大皿について話してくれた。
「その皿は実家から持ってきたんだ。僕の父がその柄を気に入ってたくさん買ったらしい。色のついた土をはめ込む象嵌という技法らしくって、実家にはそんな柄の陶器が多かったんだ」
私はこの柄の食器がたくさん並んだ食卓を想像した。
見たことのないイメージの幼い恵吾と会ったことのない恵吾の両親が居る食卓。それらを思い浮かべて、踏み込むことのない恵吾の育った家の空間に少しでも近づけたような気がしていた。
ペアグラスに恵吾がワインをそそぐ。
「明日は休みだし、今日はここに泊まっていこう?」
ワインを注ぎ終わった恵吾が私の気持ちを確認するように、顔を覗き込んできた。
カウンターの上にはワインが注がれた2人分のグラス。車を運転してきた恵吾がワインを飲んだら、私はアトリエから帰れない。
それが分かっていたから、恵吾がコンビニで酒を購入した時点で、私は泊まりを期待していた。
でも自分からそれを確認する勇気は無くて、膨れ上がる期待を抑えようと必死だった。やっと貰えたその確定の言葉がすごく嬉しくて、頬が緩みすぎることを止められずに私は頷く。
恵吾はそんな私の気持ちが分かったのか、私の髪に指を絡ませて満足そうに笑った。
恵吾に会えない1週間、あんなに無視し続けたのに呆気なく堕ちてしまう自分。恵吾が揃えてくれたペア食器に浮かれてしまう自分。恵吾への思いは嘘がつけないくらい単純で、あの頃の私は恵吾が好きで好きで仕方がなかった。
恵吾の手が私の顎に流れて、唇を引き寄せた。2人の距離がさらにゆっくりと縮まる。朝まで恵吾と一緒に居られるという予定外に訪れたその数少ない機会が叶うのかと思って嬉しくなる。
だけどそんな私の高揚は、大概悲しくも大きな落胆へとすり替えられていた。
2人の唇がもう少しで重なろうとしていた時、アトリエ内に冷たい電子音が鳴り響いて、恵吾の動きを止めた。そして、一度止まってしまった恵吾の顔はそのまま私の顔に近づくことはなく、すっと私から離れてしまう。
「ごめんね。ちょっと待ってて」
恵吾はそのままカウンターの椅子から降りると、電子音を鳴らす携帯電話を持って、中二階に上がっていってしまった。私はそんな恵吾の様子を目で追いながら、不安に襲われた。
乾杯すらしていないせいで、一人先にワインを飲むこともできず、そわそわ落ち着かずに恵吾の戻りを待つ。
しばらくして、「お待たせ」と言って戻ってきた恵吾の顔はどことなく強張っていて、寂しげな影が目に宿っていたから、良くない展開を予期させられた。
私の心には冷たい空気がスゥーと入り込んでいた。
恵吾は特に電話の内容に触れず、カウンターの椅子に座ると作り笑いをしてみせた。
「じゃあ、乾杯しよう」と、恵吾がワイングラスを持ったので、私は戸惑いながら同じようにワイングラスを持つ。
「乾杯」という幾分曇った声と小さくカチンと鳴った音はふたりきりの晩餐を始められたのか、始められなかったのか判断がつかない。
私はグラスを口に持っていき、ワインを少し口に含む。だけど恵吾はグラスを口には運ばず、そのままカウンターに戻したから、胸はチクンと痛み出した。
チーズをつまみ始めた恵吾を横目に、私はサラダをペア食器によそる。恵吾は私からサラダを受け取ると、出張の話をし始めた。
私はその話に相槌を打ちながら、恵吾のワインが一滴も減らないことが気になって更に不安を募らせる。恵吾がアトリエ内の時計を気にすると、その不安は一気に虞へと変わった。
2人の時間はいつ中断されてしまうのだろう。交わされなかったキスの続きはあるのだろうか。私は朝まで恵吾と一緒にいられるのだろうか。
期待が確約されたと思ってしまっただけに落胆は大きくなりそうで、2人の時間の終わりを宣告されることを想像するだけで胸が苦しい。
電話の相手は誰だったのだろう。何があったのだろう。聞きたい。でも聞けない。
本当は聞きたいのに、本当は問い詰めたいのに、私はそれをできずに、自分の本音に嘘をつく。
結婚しているのに何故私と関係を続けるの?私が一番好きだと言っても、奥さんのことも好きなの?いつか別れてくれるの?私だけを愛してくる日はくるの?
それを問い詰めたら、私達の関係は終わってしまう気がして出来なかった。
不倫というものは最初から終わりがあることが前提の関係。結婚の事実について触れしまうことは禁忌。
そう思わされてしまうルールに逆らえなくて、私は結局ずっと自分の気持ちに嘘をつき続けていた。
「ワイン……」
私は恵吾の話がひと段落ついたところで、小さく声を出す。
「え?」と聞き返してきた恵吾の目をじっと見て、その時だけは、勇気を出して、自分の気持ちを正直に投げかけてみた。
「ワイン、飲まないんですか?」
恵吾は私の質問の後、ワイングラスに目をやって、「ああ。ワインね……」と答えを考える間を作る。
「ワインを飲みたい気分じゃなくなっちゃったんだ。美咲、飲んでいいよ」
恵吾は自分のワイングラスを私の前に差し出して笑う。
「じゃあ、他のお酒を用意しますか?」
答えを確信に触れずはぐらかす恵吾をやんわりと追い詰める。
「……今日はお酒やめておく」
結果、ポーカーフェイスの上手な恵吾から動揺が垣間見えてしまって、私の気持ちはかなりぐらついた。さっきの電話で何かあったんだと確信してしまう。
「さっきの電話、何だったんですか?何かあったんですか?」
「………仕事の電話だった。トラブルがあったらしい」
少し間を開けて、恵吾は電話の要件を仕事だと言った。そう答えるなら、私も恵吾と共に仕事をする立場で答えるしかなくて、駆け引きを続ける。
「仕事のトラブルなら、急いで帰った方がいいんじゃないですか?」
「いや、新商品開発でトラブルがあったんだ。電話は社長からだった 」
電話が結婚相手である香織ではなく、社長だということに少しホッとしながらも、すぐに会社で起きたトラブルの原因について考えて、ハッとした。
新商品開発は生産課Bチームの担当。だから、Aチームである私達には関係ない。それなのに社長がわざわざ恵吾に連絡してくるとなると、デザイナーを担当している香織が関係していることはゆうに想像ができた。
「デザインのことでトラブルですか?」
「うん。まあ、そんなとこかな」
恵吾が私から目をそらして苦笑いする。その横顔を見た時、少し前に溢れていた嬉しさも、満たされていた幸福感も、その欠片すら感じられないくらい息苦しくなっていた。
もう恵吾はこの後の時間、私に甘く微笑んでくれることも、あの満足気な顔で私を求めることもしない。
「帰りましょう。社長がわざわざ電話してくるくらいだから気になるんですよね?」
本当は帰りたくない。ずっと朝まで恵吾と一緒に居たい。でも社長だとは言っても、恵吾の行動を変えたのは結婚相手である香織だという事実。
彼女のために酒を飲まず、彼女のせいで私達の時間を突然中断されるのを分かっていて、恵吾の隣に居るのは辛かった。
アトリエにいる時だけが私だけのものになるのであれば、アトリエにいる時くらいは彼女の存在を感じたくない。せめて2人でいる時間だけでも、恵吾は私だけを考えて、私だけを見て欲しかった。
だから私はまた嘘をつくしかない。
「ごめんね。ありがとう」
恵吾は寂しそうに私の頭を撫でると、椅子から立ち上がる。
私は込み上げてくる悲しさをギュッと心に押し込んで、涙も一緒に抑え込んだ。
会話の少ない帰り道の車内。走り過ぎていく反対車線の車をぼんやりと目で追う。
この車がその反対車線を走っていた時、私の気持ちは浮かれていたなんて信じられなかった。
自宅の前に車が着くと、私は恵吾に挨拶して、そそくさと車から降りる。
「美咲、おやすみ」
助手席の窓を開けて、恵吾が声をかける。いつもなら、私はこのまま恵吾が去る車を見送るのだけど、その日はそれが出来そうになかった。
「おやすみなさい」
恵吾にそう告げて、何事もないような作り笑いをして、すぐに恵吾に背を向ける。そのまま振り返らずに、私は自宅へと向かう。
恵吾の車が走り出すエンジン音がした。でも私は振り返らないようにした。車の音がしなくなってから、一気に自宅へと走り出す。
玄関のドアを開けて、中に入るともう止められなかった。涙はこれでもかというくらい溢れるのに、声は殺す。私はいつしか泣き方まで身をひそめるようになっていた。
この辛さは誰にも打ち明けられない。励ましてくれる人も、応援してくれる人もいない。
恵吾の気持ちを感じられるときは幸せに満たされるのに、現実を突きつけられれば逃れることのできない寂しさに襲われる。永遠に続く幸せは探したってどこにもない。
「玄関あけっぱなしだぞ、物騒だな」
背後から突然声がして、私はビクっと身体を強張らせた。振り返ると、半開きだった玄関ドアを開けながら樹生が入ってくるところだった。
「樹生…」
私は慌てて、涙を拭う。樹生はそんな私を見て、一瞬静止すると、軽くため息をこぼした。
何を言われるかと不安になり、私はすぐに「どうしたの?」と問いかけた。平静を装って、樹生に家に上がるよう促す。
「親父が美咲にも土産を買ったから、持っていけってうるさいからさ」
樹生は手に持っていた紙袋を私に差し出す。
「そうなんだ……ありがとう」
「ああ」
紙袋を受け取りながら、その後の言葉がうまく出てこなくて、玄関の空気がしんと静まり返った。
「明日、休み?ひさしぶりに俺と出掛けるか?」
樹生は優しく笑って、私の頭をポンポンと叩いた。
重苦しい沈黙が解かれて、その場の空気が和む。私はその空気に救われてしまって、樹生に静かに微笑み返すと、小さく頷いてしまっていた。




