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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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恵吾と美咲の嘘。そして樹生01

 ブラウスのボタンを外す指の感触を、布を通して肌が感じる度に、鼓動の速さはワンテンポ上がる気がした。ぎこちない熱い手が肩や背中を這うにつれ、自分の身体が自分のものではないような感覚に囚われた。

 柔らかい舌が胸の中心を舐めて吸い付くと、自分では制御できない蜜が奥ににじみ出ていくのが分かってしまう。なされるがままに、私は誘導されながら身体を開いて、目の前にある男の熱さに翻弄された。

 こんな時どうするべきなのかも分からなくて、私は初めて触れた自分のものではない温もりに爪を立てて、刺激に応える。

「美咲」

 顔を歪めて涙を流す私の目元に、温かい指が添えられる。

「大丈夫だから、何もかも俺に委ねろ」

 その声に小さく頷いて、私は静かに目を閉じた。

 無意識に漏れてしまう自分の声が意識を通り越して、空から聞こえてくるような気がする。

「た…つき…」

 そう呼んだ私の声も一緒に空に飛んでいく気がした。

 

 胸がキュッと閉まるような息苦しさを感じて、私はハッと目が覚めた。窓の外はもう明るい日差しが差し込んでいて、朝を迎えていることを知らせていた。

 流れていた映像をいきなり消された時のような違和感が頭に残っていて、樹生の声も聞こえてくるような気さえする。

 私は窓から視線を手元へと移して、まだ気持ちよさそうに眠っている娘の寝顔を眺め、髪の毛を撫でる。樹生は朝早く仕事に出掛けたらしく、自宅内に姿が無かった。

 樹生は私と顔を合わしたくなかったのかもしれない。

 そのことを受け止めたくなかった私は何も考えないようにと慌ただしく朝の支度をして、めぐみを保育園まで送り出した。


 普段よりも早く都内の駅に降り立つと、人通りがまばらな街路を歩く。

 桜の花びらはとうに散って、芽吹いたばかりの若葉がみずみずしく煌めいていた。

 街中は見上げる限り、新しい生活の充実への運びを予期させてくれるのに、私の心は後戻りしようとしている。どんなに清々しい新緑の色を目に映しこんでも、私の心の色は晴れやかにはなれそうになかった。

 重い足取りをゆっくりと前へと進ませれば、MOINdesing株式会社の外観が見えてきて、周囲のビルと負けず劣らず、ガラス張りの近代的な建物を私は眺めた。

 何故この会社から派遣の依頼を受けた時、私はすぐに断らなかったのだろう。

 インテリア雑貨の会社であるということから、少なからず恵吾との繋がりを気にしなかったわけではない。それなのに、悩んだあげく、結局私はこの会社の依頼を受けた。

 恵吾への思いは過去に置いてきた。そして割り切ったはずだと高を括っていた。でも違った。ただ心の奥底に仕舞い込み、封印しただけ。封印を解かれてしまえば呆気なく溢れ出してしまいそうになっている危うい感情。心の片隅で、今もなお恵吾に執着していたからこそ、この会社からの依頼を受けたのだと今頃自覚しても遅かった。

 会社の入口までたどり着くと、見慣れた車が路上に停められていて、私は思わず立ち止まる。それを予定していたかのように車の運転席のドアが開き、降りてきたその姿に胸がドクンと大きく響いた。

「美咲。おはよう」

 ポーカーフェイスの得意な恵吾が今日は表情を曇らせながら近づいてきて、私の行く手を塞ぐ。焦りや不安を感じさせる恵吾の目が私を捕えると、ざわざわと心は揺れ動き出す。

 もっといつものように意地悪く、無機質に笑ってくれていたら、私はいつでも冷静になれて、騙されているのだと割り切ることができたかもしれないのに、たまにそうやって隠しきれなくなった動揺を私に見せるから、私は恵吾への思いを押さえることができなくなる。

「緊急で打ち合わせになったから、待ってたんだ。車に乗って」

 恵吾は助手席のドアを開けて、私に乗るよう促した。

 仕事を口実に私を車に誘う恵吾の嘘を、社会的体裁を守りつつ、私はどうやって暴けばいい?流されたい思いと留めたい思い。

 結局は恵吾への思いが勝ってしまって、私は本当か嘘か判断できないまま、恵吾の言うとおりに従ってしまう。

 私が車に乗り込むと、恵吾は少し緊張を解いたような顔を見せて、助手席のドアを閉めた。運転席に滑り込むと、すぐに車を発進させる。

 車は会社を離れ、行方知れずに走り出した。


 都内の道路は信号がそれなりに多い。だから、車が停まるタイミングは恵吾の嘘から逃げる唯一のタイミング。でも恵吾の方が一枚上手で、車が進まない状況が近づくと、私の左手は恵吾に繋がれてしまう。

「………手を離してください」

 赤信号を待つ間、恵吾は横目で私を見て、寂しそうに笑った。

「昨日、突然具合が悪くなったのは、僕のせい?」

 私は無言で返す。本当のことなんて言えるはずもない。

 車は私を連れ去り、見覚えのある景色に溶け込んでいく。

「打ち合わせなんですよね?」

 私はその答えが分かっていたけれど、微かな望みを込めて、恵吾に再び尋ねる。恵吾の答えは無言。

 信号のない道路を走り出してから、恵吾は私の左手を解放する。もう車は目的地まで停まることはない。

「今日の美咲は体調不良ということで休み届を出した。僕も休みにした」

 ついに恵吾が嘘をついたことを認める。

「美咲の子供はこの時間保育園だから、帰らないといけない理由はないよね?」

 仕事だと逃れる手段も、子供を口実にして逃れる手段も恵吾に絶たれる。

 成す術なく、車は先日折り返した地点を超えて、5年前のあの場所へと進む。

 ドクドクと重く鳴り始めた鼓動と戦いながら、この後に起こる未来をどう選択するべきかと悩む。

 車があのアトリエの前に到着してしまった時、私の手はとても汗ばんでいた。

 運転席から降りた恵吾は助手席に回り、ドアを開けた。「降りて」と促す恵吾の顔はどことなく真剣な面持ち。

 私は今だに選択ができなくて、足は車の助手席の外へとは踏み出せない。汗ばむ両手を膝の上で強くこすり合わせていると、恵吾はその手を掴んで引き上げた。

「美咲が嫌がるなら、これからは二度とここに連れて来ないと約束する。だから今日だけでいい。今日だけ、僕に従って」

 強く握られた手が少し痺れて、心臓も締め付けられるように痛い。私は震えだしそうな足をそっと静かに助手席の外へと向けた。

 黒い重たそうな玄関ドアを開ける時に感じる不安は、5年前と変わらず禁じ手を破る行為を連想させた。

 開けた途端、あの独特な匂いが鼻を刺激すると構えていたけれど、その匂いは感じられないほどに薄くて、5年もの歳月が経っているのに、私の鼻はまだあの匂いに慣れているのだろうかと焦りを感じる。

 アトリエへと続く廊下をあの日と変わらず恵吾に引かれるように歩き、開けられた部屋の扉の中に足を踏み入れると、胸は張り裂けそうに痛みを増して、涙がじわじわと瞼に溢れていた。

 アトリエの中に吊るされたたくさんのモノクロ写真。その写真の多くは5年前の私。恵吾と逢瀬を重ねたあの時と何一つ変わらない光景。

 モノクロの色に飾られた天井が5年前のあの日に時を止めたかのように待ち構えていた。

 私の心も身体も、一瞬にして5年前にタイムスリップしてしまったかのように錯覚する。恵吾への思いを封印した蓋が今すぐにでも開いてしまいそうで怖くなる。

 恵吾はここで私をどうするつもりだろう。もし、恵吾が私に触れたら、私はきっと拒めない。求めてしまう。そしてまた堕ちてしまう。

 今の私には冷静な判断ができないと悟り、足が震えだした。なんとかその足を翻して、私はアトリエの外へと逃げようとする。でも、その行動に気付いた恵吾は強く私を引き戻した。

「逃げないで。逃げるなら拘束するよ?そしたら2度と外してやらない」

 そう言った恵吾の目は寂しさが混じりながらも、どことなく威圧的で怖い。

 どうにかして恵吾の掴んだ手から逃れようと思い切り振りほどき、恵吾の側から離れると、結果アトリエの奥へと逃げることになってしまった。

 中二階に逃げたらそこにはベッドがあることを知っている。冷静になれない心は闇雲にアトリエ内の逃げ場を探して、キッチンの前で立ち止まるしかなくなる。恵吾はすぐに私の側に来て、カウンターテーブルに私の身体を押し付けた。

 無理やりキスされそうになり、私は咄嗟に抵抗する。

 恵吾を振り払おうとした手がカウンターテーブルの上にある何かにあたり、次の瞬間、ガシャンと音を鳴らして、床に何かが散らばった。その音に驚いて、2人は同時に床を見る。

 床には割れた陶器の破片が散らばっていて、取っ手がついたものが混じっているから、コップが割れたのだと気付いた。

「……ごめんなさい」

 私が誤ると、恵吾は私から離れて床に落ちた破片を一つ一つ大事そうに拾い上げ始めた。大ぶりの破片をすべて拾い上げると、それらを纏めてカウンターの上に戻す。

「……大事な食器が割れなくて良かった」

 カウンターに並べられた食器を眺めながら、恵吾が一つだけ食器を手にして私に見せる。

 継ぎ目のない線が模様となって描かれたそのマグカップ。私がそのマグカップを忘れるはずがない。

「あの時言った僕の思いは、今もずっと変わってないよ」

 恵吾の言葉があの日の2人の誓約を呼び起こす。

 5年前の恵吾の声が、今でも耳に焼き付いているかのように脳裏に響いた。

 そして、止め処なく溢れ出してしまった思いを、私はもう止められそうになかった………。

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