恵吾と美咲の罪12
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心地よい春風が私の頬や髪を撫でるのに、心は穏やかになるなんてほど遠くて、虚ろな目で空を見上げる。
昼休み。私は少しでも会社から離れたくて、近くの公園のベンチに座っていた。
ベンチに座って、もう数十分は経っているのに、広げた弁当箱の中身は開けた時とさほど変わっていなかった。
ため息が零れる。そして、雲行きの怪しい空をぼーっと見上げる。気付けばその繰り返し。
『今日も一緒に帰ろう』
そう言って、にっこり笑った恵吾の顔が思い浮かんで、胸の中が騒めき立つ。
午後は恵吾の結婚相手である香織が会社に来る。それなのに、それでも私に一緒に帰ろうと誘うのは何故なんだろう。
寂しいから?繋ぎ止めたいから?恵吾があの頭の中で、何を考えてるのか本当に掴めない。第一、一緒に仕事で外勤するわけでもないのに、わざわざ帰り時間を合わせて帰ることのがおかしな話。
いくら考えても深みにはまるだけで、とにかく恵吾が何と言おうと、今日は無視して1人で帰ろうと私は決めて、ベンチを立ち上がる。
策士の恵吾から捕まらずに逃れる方法はあるだろうか。
退社時のシミュレーションをしながら、静かな足取りで海外営業部へ続く廊下を歩く。
海外営業部の中に入ると、入口付近に立っていた女性に目を奪われ、私は大きくそれを見開いた。
「あら……。あなたは……」
その女性は私に気付くと一瞬驚いたような顔をした後で、にこりと微笑む。その笑い方はどことなく恵吾と似ていて、ザラリと胸を削られた気がした。
5年前に初めて見た時と変わらず、緩やかなパーマのかかったロングの髪。知的さと気品さを兼ね備えた高貴な姿。間違いなく彼女だ。
目が合ったのだから、せめて挨拶くらいすればいいのに、突然現れた香織の姿に私は何ひとつ声を出せなかった。それに、香織がさっき発した言葉が引っかかる。
「あなたも、この会社に居たのね」
や……、やっぱり。ギクリと身体全身に緊張が走る。
私は過去、香織の姿を遠くからしか見たことがない。彼女と話したことも、目を合わせたのも今日が初めてだった。それなのに、彼女は私のことを知っている。
それはつまり……?私と恵吾の過去の関係は彼女に知られているということ?
「あ……」と口を開いてみたものの、その先の言葉は何も出てこなかった。過去、私がしてきたことは何一つ彼女にはあがらえない。
どんな顔をしたら正解なのか。知らないふり?不粋な態度?謝罪の姿勢?
想像し得なかった香織の反応に私は戸惑うしかない。
「私、デザインのアドバイスを頼まれてここに来たの。あの人に頼まれると、なんか断れないのよね」
香織は言葉に詰まった私を気にすることなく、サラっとそう付け加えた。
「香織さん」
突然、背後から聞こえた男の声に、私は更にギクリとする。その声は間違いなく、恵吾だった。
「打ち合わせお願いできますか?ここじゃ狭いから、デザイン部に行きましょう」
恵吾は私の横を通り抜けて、香織の側に向かう。
「もう、恵吾。あなたが先に打ち合わせをしたいって言うから早めに来たのに、居ないから困ってたのよ」
「すみません。まさか、こんなに早く来られるとは思っていなかったので」
恵吾は資料室から出しておいた先程のファイルをデスクから取ると、香織を促して海外営業部を出ていく。
私の身体は未だに硬直して声も出なくて、目だけが恵吾の姿を追う。でも恵吾は一度も私を見ようとはしなかった。
「資料たくさんあるのね。少し持とうか?」
「いいよ。いちを客人だしね」
海外営業部を出た2人が、砕けた口調で会話する声が聞こえてきた。
私の前では余所余所しいくらい敬語だったのに、離れた途端に代わるその言葉使いが、堪らなく胸を締め付ける。
恵吾と香織の関係の深さを表す行為に居た堪れなくなる感情。
いや‥‥。認めたくない‥‥。
「大丈夫ですか?美咲さん。顔色悪いですよ?」
声に驚いて振り返ると、宇川が心配そうな顔をして、私の顔を覗き込んでいた。
私はハッと我に返って、「そうですか?」と誤魔化しながら、宇川に顔を見られないよう顔を静かに背ける。
しかし運悪く、恵吾と香織が仲良さそうに笑いながら、歩いて行く姿が目に入ってしまい、私はまた硬直して、2人から目が離せなくなってしまった。
「恵吾先輩と香織さんって、相変わらず仲良いんですよね。あの2人、結婚して‥」
「知ってるよ!」
宇川の説明に、私は思わず声を出す。
「あ、そうですよね。前の職場で一緒でしたもんね。あんなに仲良いのに、離‥‥‥美咲さん!?」
嫌、聞きたくない! 2人の話なんて、聞きたくない!
私は咄嗟に耳を抑えて、その場にしゃがみ込んでしまっていた。
「美咲さん、大丈夫ですか!?」
自分が信じられなかった。認めたくなかった。許せなかった。
恵吾と香織の仲の良さを見せつけられて、動揺することなんて、あってはならないことなのに。まさか自分がこんなにもまだ恵吾に執着しているなんて。自分から関係を終わらせたのに、恵吾と彼女との関係を受け止めきれていなかったなんて‥‥。
「美咲さん、本当に大丈夫ですか?」
宇川の心配そうな声に、自分の駄目さ具合が身に染みる。
「ごめんなさい……。ちょっと貧血を起こしたみたいで……」
立ち上がった私の顔を見た宇川が「すごく顔色悪いですよ」と心配する。
「ありがとう。でも時間が立てば、きっと治ります」
私は無理やり笑顔を作って、一歩一歩進む度に心を落ち着かせながら、ゆっくりと席に着いた。
※
その数時間後。私はすでに自宅のリビングソファで横になっていた。
私の様子を心配した宇川が佐伯部長に私のことを報告し、佐伯部長が「今日は早退した方がいい」と私を促したからだった。
早退したとはいえ、実際に具合が悪いわけじゃない。せっかく早く帰宅したのだから、睡眠時間を削ってこなしている家事を昼間に済ませられるチャンスなのに、私の身体は思うように動けなかった。
考えたくもないのに、恵吾と香織が笑い合っていた姿が脳裏を掠める。そしてその度に、とてつもなく息苦しくなる胸の痛みは止めることができない。そんな痛みを感じてしまう自分が許せなかった。
携帯電話がメールの着信を知らせて、私はおもむろに画面を開く。
『体調悪いの?大丈夫?電話して』
送られてきたメールを見た後、胸の痛みが少し和らいだことに気付いてしまった私は、さらに自分が許せなくなって、消えてしまいたくなった。
このままでは本当に良くない‥‥。
自分が恐ろしくなった私は恵吾からのメールを無視して、慌てて台所に立った。冷蔵庫から食材を取り出し、夕飯の支度を始める。
夕方近くなると、玄関から和やかな明るい声が聞こえてきて、私はその2人の声を聞くことさえ許されないのではないかと不安になった。
「あっ、ママだ!」
めぐみがこれ以上幸せなことなんてないと主張するように満面の笑みで私を見て、走り寄ってくる。そんなめぐみを「おかえり」と受け止めた私の手は微かに震えた。
「あれ?本当に今日は早いじゃん」
樹生が驚きながらも、嬉しそうに笑う。
「昨日遅かったから、今日は早く帰れたの」
樹生に微笑み返す私は悪魔の化身でしかないと思った。
「やったぁ!ママのカレーライスだぁ」
食卓に並べた料理にはしゃぐめぐみ。
「台所が汚れるから揚げ物はしたくないって言うくせに、ヒレカツ作ったの?」
カレーライスに添えられたヒレカツを見て、私を弄る目つきをしながらも満足そうな樹生。
めぐみの好きなカレーライス。樹生の好きなヒレカツ。こんなものを作ったからって、私が許されることなんてないはずなのに、私は何を取り繕いたいんだろう。
夕飯を済ませ、お風呂に入り、めぐみを寝かしつけるまでの時間は慌ただしくて、時間に流されるまま育児をこなす。
めぐみがスヤスヤと寝付いて、寝室からリビングに戻ると樹生はお風呂に入っていて、私は静かなリビングのソファに腰を下ろした。
放置していた携帯に気付いて手に取ると、携帯電話が途端に振動し始め、画面に表示された名前に動揺し、私は携帯を床に落とす。
恐る恐る拾い上げた携帯はまだ振動していて、私はたまらず拒否ボタンを押していた。すぐにまた携帯が振動して、私はその振動が何を意味するのか分かってしまう。
予想通り恵吾から届いていたメールを開くと、1枚の写真が画面に映し出されて、次の瞬間、私はもう泣いていた。
押し殺した感情を呼び醒ますのは、私が何度も手を伸ばし、何度も眺めたあの写真。携帯画面の中に写る私は恵吾に背後からキスをされて、恵吾に深く愛されていた。何度もそれを再現した恵吾の腕の力強さまで身体が思い出して、全身が痺れ始める。
止めて‥‥‥。思い出させないで‥‥‥。私にまた罪を犯させないで‥‥‥。
「なんだか、また恋でもしてるの?」
突然投げられた声に私が振りかえると、風呂上がりの樹生が立っていた。
「樹生‥‥」
「そんな顔してるよ?」
私は樹生に言い当てられた事実に言葉を返せなくて、頬を濡らしていた涙を咄嗟に手で拭った。
「俺とめぐみの存在が邪魔になった?それなら、めぐみは俺が1人で育てたっていいんだよ」
少しだけ冷たくなった樹生の口調に、私はパッと目を見開く。
「イヤ!そんなこと絶対しない!」
私が強く反論すると、樹生は鼻から重く息を吐き出して、肩を落とした。
「ごめん‥‥言い過ぎた。でも俺のことは気にすることない‥‥。俺たちは好き合ってるわけじゃないんだから」
そう言って寂しそうに笑う樹生の優しさが深く身に染みる。
そう、私と樹生は好き合うことなんてない。だから私は今の生活を選んだのだ。
5年前、私は恵吾のことを好きになればなるほど、自分の気持ちを置き去りにした。罪を犯してしまったから、私はいつしか、たくさんの嘘が必要になっていた。そして、嘘を塗り固めた。
何も返事ができないまま見つめ返す私に近付いた樹生は、私の頭に手を伸ばそうとしたけれど、その手をぎゅっと拳に変えて引っ込めた。
「先に寝るよ」と優しい声で言うと、私の横を通り過ぎる。
私は樹生を引き止めることは出来なかった。だけど、樹生の思いに甘えた自分は肯定したくて、去っていく樹生の背中をじっと見つめ続けた。