恵吾と美咲の罪11
※※※
「恵吾!車を停めて!」
私は思わず叫んでいた。
「お願い! 私を帰して!」
5年前の私は愚かだった。2人を現実世界から逃避させ、偽りの愛へと麻痺させたあのアトリエ。あの場所に行ってしまったら、私はまた溺れてしまう。
「美咲‥‥‥」
恵吾は暗く静かな声で私の名を呼び、爪が手のひらにくい込むくらい私の手を握った。手の痛みと同時に、私の胸もズキリと痛む。恵吾の支配欲に隠れた弱さに揺らぎそうになり、その強引さに流されたくなる。
でもダメ‥‥‥。私はまた同じことを繰り返したくない。
「恵吾、帰して。娘を寝かしつけないといけないの」
私は強い口調を緩めなかった。
あのアトリエに向かって走り出していた車のスピードが少しずつ落ちていき、恵吾は車を路肩に停めた。恵吾の左手はまだ私を強く掴んだままで、右手でシフトをパーキングに入れる。
運転する必要がなくなった空いた右手も私の腕に伸ばしてきて、強引に腕の中に引き寄せようとした。私は大きく身体をのけ反って逃げる。
「お願い‥‥、離して‥‥」
両腕を掴まれてしまった私。私がお願いしてもなお恵吾が無理矢理引き寄せたら、力の差でも敵わない。そしたら私は本当に逃げられない。
緊迫した車内の沈黙。力を入れて拒んだ私に恵吾は寂しそうに笑って、掴んだ手を離してくれた。
「分かった。あまり遅いと旦那と子供が心配するからね。今日は帰ろう」
でも、恵吾のその言葉は明日を予期させるもので、恵吾の手が離れても私の緊張は解けなかった。
恵吾は運転席に向き直り、車をゆっくり発進させる。
5年前のように、恵吾に一度でも心を許したら、私は本当に止められなくなる。
私は流れる窓の外を眺めながら、自分の弱さが怖くて堪らなくて、ただただ早くこの場から逃れたいと願った。
※
「ただいま……」
後ろめたい思いをひた隠しにして、私は小さな声で帰宅を告げる。
リビングまで静かに足を進めると、奥の寝室から樹生が出てくるところだった。
「おかえり。めぐみ、寝たよ」
優しく笑う樹生に近づき、その横から寝室の中で眠る娘の様子を伺う。
室内は薄暗く淡い暖色系の豆電球だけが光っていて、畳の上に敷かれた布団で、めぐみはすやすやと眠っていた。
「遅くなって、ごめんなさい」
「いいよ。仕事始まったばかりで大変だろう?しばらく俺はゆとりあるからさ」
樹生の言葉が優しければ優しいほど、私を気遣えば気遣うほど、胸はどんどん締め付けられる。
「でも、明日は早く帰ってくるね」
私は自分に強く言い聞かせるように、樹生に宣言する。
「そうか?無理するなよ。俺は美咲に甘えて欲しいんだからさ」
樹生はそうやって私を甘やかそうとするけれど、私の甘えはすでに許されない域に入っている。
「うん。でも、明日は早く帰るからね」
私は自分を戒めるように、強く強く自分に暗示をかけた。
※
翌日、MOINdesign株式会社の海外営業部内にある会議室に部の社員が全員集まると、会議室はかなり手狭になった。
それでも、この春に新たに立ち上がった海外営業部だけに、他の部署に比べれば人数はかなり少ない。
私はこの事業に間接的に関与しているだけだから発言権はあまり無いのだけれど、佐伯部長が私を社員同様に扱ってくれることもあり、社員たちと一緒に会議に参加していた。
自社ブランドショップの海外進出に向け、現時点の進捗状況と今後の事業展開について話を進める佐伯部長は終始意気揚々としていて、この事業への熱意がひしひしと伝わってくる。
「国内の自社デザインだけじゃ、海外の店舗で通用しないんじゃないかと懸念されている話は前にしただろう?デザイン部とも検討して、やはり海外向けのデザインを開発しようという話で決定した」
海外営業部内の話し合いが一通り終わった後、佐伯部長は他の部署の進捗状況も報告し始めた。
「だが、当社は海外市場については経験が浅いから、アドバイザーを依頼しようということになってな」
そう言いながら、佐伯部長が恵吾の方を見て、嬉しそうに笑う。
「アドバイザーは香織さんが引き受けてくれたよ。遠野から一声掛けてくれてたから、話が早かったよ」
「そうですか」と淡々と返す恵吾以外の社員は「良かったですね!」と盛り上がり、私1人、『香織』という名前に固まるほかなかった。
インテリア商品を手掛けるデザイナー、つまりはプロダクトデザイナー。アドバイサーとして活躍できる人。そして、香織。その三点に結び付くものは、きっとあの人しかいないのだろう。
周囲のテンションについて行けず黙り込んだ私に気付いた宇川が私の肩を叩く。
「香織さんはプロダクトデザイナーでは結構活躍している人なんですよ」と気遣って教えてくれた。
「……お噂くらいは聞いたことがあります」
私はざわめき立つ心中を必死で落ち着かせながら、宇川に笑顔を作る。でも、狭い会議室の酸素がなくなってしまったかのように、呼吸は苦しくなっていた。
「今日の午後、デザイン部で彼女と打ち合わせすることになっているから、遠野も同席してくれるか?海外提携側の意見等も説明してほしいんだよ」
佐伯部長の指示に「わかりました」と返す恵吾。
今日の午後、彼女がこの会社に来る。プロダクトデザイナーの彼女。そして、恵吾の結婚相手。
恵吾と関わることになれば、いずれ彼女のことだって突き付けられることになるのは当たり前のことだった。私と恵吾の関係は、あの頃と何も変わっていないのだと痛感する。
重い足取りで海外営業部の会議室を出ると、後ろから肩を掴まれて私はビクッと身体を硬直させる。振り向くと、恵吾が営業スマイルで立っていたから、私は思わず息を止めていた。
「美咲さん。今から資料室に行くから、手伝ってくれる?」
そう言って笑い掛ける恵吾の気持ちはやっぱり私には読み取れない。
「……私…ですか?」
「うん。英語の資料を探したいから、美咲さんに手伝って欲しいんだ」
そう言われてしまっては断ることもできなくて、「……分かりました」と答える。
海外営業部から出ると、私は恵吾から少し距離を取って資料室へと足を進ませた。
資料室はデザイン部へ続く通路の途中に配置されていた。
資料室の中に入った恵吾は奥にあるスチールラックに近づいて、高い位置にある大きなファイルを取る。
「美咲、こっちに来て」
言われたとおりに近付くと、圭吾は手に持っていた大きなファイルを私に渡す。
「あとは、これと、このファイルかな」
「あっ、わぁ‥‥‥っ」
圭吾に次々と大きなファイルを手渡されて、私は声をあげた。
「とりあえず、それだけあれば足りるかな」
恵吾はそう言うと資料室を出ていこうとした。
「え?英語の資料は?」
「ああ、あれは嘘。単に美咲と2人きりになりたかっただけ」
私は言葉を失い、自分の詰めの甘さに苛立ちながら、早くここから立ち去ろうと歩き出す。積み重なった大きなファイルのせいで、目の前はよく見えなかった。
恵吾が不意に私の行く手を塞いで、手に溢れていた資料を一つだけ取り上げる。
「約束したかったんだ」
資料が一つ取り除かれたことで、目の前に立つ恵吾の顔がかなり至近距離にあった。
「今日も一緒に帰ろうね」
「え?いや、でも‥‥‥きゃっ!」
言葉を言いかけた私につかさず圭吾は顔を近付けて、頬に軽くキスをした。
「け‥‥、圭吾‥‥っ」
「絶対だからね?」
圭吾は私に持たせた他のファイルも全部取り上げると、にっこり笑って資料室を出て行った。