恵吾と美咲の罪10
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それから恵吾はよく私を撮影するようになった。
裸の写真も撮ったけれど、アトリエで過ごす日常生活の一コマもたくさん撮った。料理しているところ。本を読んでいるところ。ご飯を食べるところ。恵吾を見つめるところ。
モノばかり撮って、人を撮らなかった恵吾が私の写真ばかりを撮る。そして、アトリエに私の写真を飾る。
撮るのは好きだけど撮られるのは嫌だと言う恵吾をズルいと私は責めて、そのうち2人一緒の写真も撮るようになった。2人のセルフポートレート。
私1人の写った写真よりも、数少ないその2人の写真を眺めるのが私は好きで、このいつ失うか分からない2人の関係に不安を感じた時は、その写真を眺めることで、永遠を叶えたような気がしていた。写真に収められた2人は写真の世界だけではどの恋人達に負けないくらい愛し合っていた。
「この写真が一番好き」
私は吊るされた写真の中から一枚に手を伸ばし、写真の角を撫でる。
「本当、美咲はその写真が好きだね」
恵吾は私を後ろから抱きしめながら、優しい声で私の耳元にそう囁き、写真に伸ばされた私の手を取った。握ったまま私の腰を抱きしめ、「僕の方を見て……」と囁く。
私はその声に誘われて首だけを後ろに向けると、恵吾は優しくキスをした。それは私が一番好きな写真の再現だった。恵吾に後ろから抱きしめられながら、背後からのキス。
何故その写真が一番好きなのかは恵吾に言えない。後ろから求められている私は恵吾に深く深く愛されていると錯覚させてくれるキスの写真。
恵吾しか見えていない現実の私は恵吾の思いに比べたらずっと堕ちている。でも、この写真の中の恵吾だけは私なんかより、ずっとずっとずっと堕ちていた。だからこの写真が好きなんて言ったら、恵吾はどう思うんだろう。
私を背中から抱きしめていた恵吾は私を向い合わせにすると、私の頬を優しく両手で包んで、じっと私の目を見つめた。私もじっと恵吾の目を見つめ返す。この真剣な2人の視線の間に2人の仲を阻むものがこの世にあるんて、この時ばかりは思えなかった。
私が恵吾の首に両腕を伸ばすと、恵吾と私の素肌をくるんでいた薄い白いシーツがアトリエの床にパサリと落ちる。何も纏っていない2人の身体が外気に触れて冷気を感じたけれど、その冷気はすぐに恵吾の熱でかき消された。
アトリエの床に落ちたシーツの上で乱れる身体。恵吾の熱も私の熱も、混じり合うと更に熱さを増す。
「ねぇ、美咲」
蜜を絡めた恵吾の指に翻弄されて、呼びかけられても私は言葉を返せない。
「美咲を写真と一緒に飾っていい?」
「んっ」
恵吾は質問してきたくせに、私が答えられないほど更に快感を煽った。
意識は刺激だけに満たされて、恵吾の質問の意味を理解しようとしてもできない。恵吾が私の耳朶を甘噛みして、耳の中に舌を入れる。そのくすぐったさが無意識に刺激を堪えようとするブレーキを解除させて、身体全身に刺激が走る。
足が微かに震えるのに合わせて、私は一気に高い波にのまれた。
全身が妙に怠かった。ふわふわした意識の中で、身体の奥は波の余韻と溢れる蜜がまだ残っているのに、それを呼び起こしていた熱だけを私は不意に失った。私を抱きしめていたはずの恵吾が離れていく。動き出した恵吾の姿を探すと、恵吾は中二階の方へと歩いていた。
さっきまですぐ傍に居てくれていたはずの存在が一瞬にして遠ざかってしまった。私はとても不安になって、おぼつかない足で立ち上がり、恵吾を追いかけようとした。でも恵吾はすぐに戻ってきてくれて、私は胸をなでおろす。
恵吾は立ち尽くした私の側まで来ると、すぐに私の唇を塞いで求めてくれた。嬉しさに満たされ、快楽が呼び起こされると、さっきまでの不安さえ消えていく。与えられた深いキスに身を全て捧げて、先ほどまで行われていた情事が再開された。
恵吾が私の右手を掴むと自分の胸元に引き寄せる。そして左手も掴むと同じように引き寄せて、私の両手首を合わせた。唇が離れて恵吾を見ると、笑って細めた色香ただよう目に酔わされる。
ふと手首に恵吾の指とは違う何かが巻きついているような気がして手元を見ようとすると、キスでそれを制された。
「‥‥っんん」
そのまま私は、シーツが落ちた床ではなく、アトリエの壁に押し付けられていた。打放しコンクリートのひんやりした冷たさが背中を冷やすと同時に、恵吾に繋がれた両手首は持ち上げられて、普段日に晒さない柔らかい皮膚を攻められる。抵抗すらできない私の身体は恵吾によってすぐにまた熱さを増した。
繰り返される愛撫に漏れる私の声は啼くような息ばかり。濡れた恵吾の舌が下へ下へと降りていき、恵吾の手が私の両手首から完全に離れた時、私の両手は下ろすことを何かに憚れて、壁際に吊るされた写真と同じように括り付けられているのだと知った。
「やっ‥‥あ‥‥」
心の奥底の冷静さが抗議しようと訴えかけてきたのに、私の口から零れる声はそれに反していた。私の太ももを一筋の蜜がつたう。恵吾はそれを掬いあげるように太ももを撫でて、私の片足を持ち上げた。
自由の利かなくなった手は恵吾の与える止めどない動きを制御できなくて、恵吾のなすがままに私は何度もまた波にのせられる。
波にのまれる度に私は意識を手放しそうになる。朦朧とする記憶の中で、恵吾の声が聞こえた気がした。
「美咲を写真と同じように‥‥ずっとここに縛っておきたい‥‥‥」
私の身体は写真と同じように吊るされて、恵吾の激しい支配欲に全てを奪われる。
「‥‥‥あぁっ」
私は身体を大きく反って壁にもたれかかり、突き上げる激しい熱に攻められて、気が遠くなっていく。うっすらと薄れていく視界の中に恵吾の顔が見えた。孤独と寂しさに溢れた弱々しい恵吾の目。
どうしてそんな目で私を見るの‥‥‥?
恵吾がそのまま私の唇を塞いた時、私は遂に意識を手放していた。
気付くと私は中二階のベッドの上に居て、恵吾は自分の顎を私の頭に乗せ、いつもように私の髪を梳いていた。身体を交わした後の恵吾の腕の中は心地良すぎて、目を覚ました私は恵吾の胸元に頬を寄せる。
「起きた?」
「うん」
ベッドに光を差す狭い窓の景色が夕暮れの色に染まっていた。その色は2人の逢瀬の始まりの時間であり、終わりの時間も意味していて、私はその色に気付かないふりをして、恵吾の首元に腕を伸ばす。
恵吾の温もりを普段よりも長く味わった後、私は強い欲に支配されていた。まだ離れたくない‥‥‥。
その日は金曜日の夕方で、次の日は土曜日で仕事が休みだった。だから、私は帰りたくなくて、明日の朝まで、むしろ明日もずっと一緒に居たいと願っていた。
「今日、帰りたくない」
私は気持ちのままに恵吾に思いを託す。そんな私に恵吾は優しく微笑み返してくれて、優しくキスをしてくれた。
その態度が、私に「いいよ」という答えを貰えそうだと期待させるのに、恵吾は優しい顔を崩さずに、その表情とは似合わない言葉を放った。
「うん。でも美咲は今日帰った方がいい」
私は途端に寂しさと苦しさに襲われる。
恵吾はそうして、私が強く強く求めたくなると、そうさせないようにブレーキをかけた。
また言い方がズルかった。帰った方がいいのは恵吾じゃなくて、私だというような口ぶり。
私は言葉を失って、恵吾に絡めていた腕を静かに解く。
どうしてダメなの?明日は何があるの?声には出さずに、心の中で悶える。
その答えがどんなものになったのかは今となっては分からない。私は恵吾に実際、口に出して聞いたことはなかった。
恵吾とは職場も部署も同じ。だから、一緒に居られない理由は仕事でないことが分かっていた。そして、私が踏み込めないプライベートの予定を正直に答えられたとしても、耐えられないことも自覚していた。
結婚相手が居ると知ってもなお、私は恵吾との関係を始めてしまったのだから、恵吾を責めることも出来なかった。彼の結婚相手の存在を認めなくなくてはいけなかった。
※
何も予定のない1人きりの週末。
アトリエでは四六時中、恵吾と抱き合っていたのに、アトリエを一歩外に出て独りきりになれば、とてつもない嫌悪感に襲われていた。
恵吾とあのアトリエに居る時、私は理性が麻痺していた。だけど、アトリエを離れて麻痺が薄まると、身体に残る恵吾の温もりが私の理性を責めて、なんでこんなことしているんだろうと胸を締め付ける。
私は携帯電話のメール画面を開いて、メールを打ち込んだ。画面をタップする手が震えて、上手く打ち込めない。やっと打ち込めたのは「もう終わりにしたい」の一文。だけど、送信ボタンを押す手はひどく躊躇って余計に震えた。
送ってしまったら、恵吾とのあの時間が本当に終わってしまうかもしれない。恵吾の笑顔も、愛しい声も、熱い体温も、全て失ってしまう。
私は結局、メールを送信することも削除することもできなくて、携帯電話の下書きフォルダには恵吾への決別のメール文が溜まっていた。
力なく握られた私の手の中の携帯がブーブーと振動し、私はビクっと身体を強張らせ、そのまま携帯電話を放置する。
相手は誰だか分かっていた。それは週末は一緒に居れないと示唆した恵吾本人。会えない週末。恵吾はいつも律儀に私の様子を伺うメールを送ってきていた。
その恵吾のメールは嬉しい反面、憎らしかった。会えないくせに、私の踏み込めない世界が恵吾の前にはあるくせに、携帯電話という機械を通して、間接的に私を繋ぎ止め、手放さないようにする。
そして私はまんまと、そんな恵吾にコントロールされそうになっているって気付いてしまう。だから、返信したい気持ちを抑え、私はメールを返さない。そして掛かってくる電話にも出ない。
悔しいから。寂しいから。苦しいから。罪に苛まれるから。だから私は、会えない時の恵吾のメールも電話も無視してしまっていた。