恵吾と美咲の罪06
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五帖の和室は線香の香りに包まれていた。
数ヶ月前まで何事もないように元気に笑っていた母が遺影の中で変わらない笑顔を見せていた。
突然亡くなった母。母はいつでも元気そうに笑っていたけれど、長年積み重なっていた苦労は確実に母の身体を蝕んでいたらしい。私が通訳になるために、身体を酷使して留学もさせてくれた母。
私は我儘をし過ぎただろうか。無理をさせ過ぎてしまっただろうか。母は私のために命まで削っていたのに、私は母に何をしてあげられたのだろう。
「少しは落ち着いた?」
樹生は母の遺影に手を合わせた後、こちらに振り返る。
「どうだろう‥‥‥。何とも言えない」
母が亡くなってしまったことは受け止められていた。だけどもう取り返すことのできない母との時間には戸惑っていた。
「お袋さんの荷物そのままなんだな」
母の部屋だった和室は生前と変わらないままだった。母がもしこの世に戻ってきたとしても、すぐに生活を始められるくらい何も手をつけていない。
「うん‥‥。片付けられなくて‥‥」
「大事な人が突然居なくなるのは辛いよな‥‥、ゆっくり整理すればいいさ」
「そうだね‥‥」
私を落ち着かせるように気持ちに寄り添ってくれる樹生。樹生には奥さんと子供がいた。でも、もうこの世にはいない。それは突然の事故だった。
事故の直接の原因は樹生ではない。それでも、当時の樹生は自分のせいだと言って泣いていた。そんな樹生を私は見守ることしか出来なかった。
家族を亡くした樹生は、この先一生誰も好きにならないと私に言った。
「お昼食べてく?」
しんみりした空気を変えたくて、私は樹生にそう言いながら、台所へと立つ。
「おう。いいのか?悪いな」
樹生も和室から立ち上がる。
「そんな遠慮しなくても。お母さんが生きてた頃はしょっちゅう食べに来てたじゃん」
「それはお袋さんの飯だろ?美咲の作る飯じゃ‥‥」
からかうように笑う樹生に私はふてくされる。
「失礼ねっ!半分は私だったわよ」
「半分?」
疑わしそうに突っ込んでくる樹生に自分を振り返り、「‥‥‥3分の1かな?」と訂正した。樹生は「あはは」と大きな声で笑った。私もつられて笑う。
母が亡くなってから独りきりで過ごしていた自宅にまた数ヶ月前の賑やかな家族団欒が戻ってきたような気がした。
樹生とは私が高校生の時にお互いの親の繋がりから知り合った。それ以来、互いの親ぐるみの付き合いをしてきて、樹生は私の家によく遊びに来ていたし、私も樹生の家に食事を食べに行ったりしていたから、樹生と同じ食卓でご飯を食べる機会は多かった。私が作ったミートスパゲッティを食べながら、樹生は何かを思い出したような顔をする。
「そう言えば、さっきの男は何なんだ?」
「え?‥‥あ、うん」
恵吾のことを思い出して、気持ちが一気に沈む。恵吾の腕を振り切って逃げて来てしまったけれど、また仕事で顔を合わせないといけないなら、やっぱりちゃんと話せれば良かった。
「‥‥‥今の派遣先の上司」
「は? お前また派遣先で、男問題かよ?」
「う‥‥‥」
遠慮のない樹生の指摘に耳が痛い。樹生は前の派遣先で私に恋人が居たことも、そして派遣終了と同時に呆気なく捨てられたことも知っていた。私は付き合う相手が出来る度に樹生にずっと相談してきていた。だから樹生は私の男関係を母よりも詳しかったかもしれない。
「また捨てられても知らないぞ、っていうかストーカーか?」
「いや、違うよ。そうじゃなくて‥‥」
「じゃあ、なんだよ?もうアイツとは寝たのか?」
「ま、まだ寝てないわよ!」
「まだってことは、これから寝るのか?」
樹生はストレートに踏み込んで聞いてくる。
結婚している恵吾を私がこの先どう思っても思いが実ることはない。それなら私の恋は終わったようなもの。
「‥‥‥もう、振られたから、それは無い」
「でも今日の様子じゃ、お前が振った感じだったじゃないか」
樹生は私と恵吾のやり取りを遠くから見ていたのではないかというくらい察しがいい。
「‥‥‥彼、結婚してて」
私が白状すると樹生は一気に怪訝な目付きになる。
「お前さぁ……」
「分かってる!」
樹生の言いたいことは痛いほど分かった。報われない恋愛ほど自分を傷付けることになることくらい分かっていた。でも私だって好んでこういう結果になったわけじゃなかった。
「知らなかったんだもん……。しょうがないじゃない…‥」
私が俯いて言い訳をすると、樹生はもうその先は何も聞いてこなくなった。私と樹生は黙り込んだまま、またスパゲッティを食べ始めた。
「じゃあ、帰るわ。パスタご馳走様」
樹生はスパゲッティを食べ終わるとすぐに帰り支度を始めた。靴を履く樹生の背中に近付き、「今日はありがとう」とお礼を言うと、靴を履き終えた樹生が振り返る。
樹生の手が伸びてきて、腕を捕まれたと思ったら私は引き寄せられていた。気付けば樹生の腕の中に納められている。
「樹生‥‥?」
私が樹生の名を呼ぶと、抱き締める腕の力がより強くなった。
「泣くような恋ばかりするなよ。辛い時はいつだって俺に甘えていいからさ」
私を宥めるような樹生の声。樹生は出会った頃からずっとそうやって優しい。辛い時はいつも私の話を聞いてくれる。
「‥‥‥ありがとう」
樹生の腕の中で私は小さく感謝を伝える。
樹生はしばらく、私を抱きしめたまま離れなかった。その腕の力強さが、過去、私と樹生が犯した罪に気付かないふりをしようとしても出来なくさせる。
だから、私はどうすることもできなくて、樹生の腕の中に納まったまま、振り払うことも、手を伸ばすこともできなかった。