恵吾と美咲の罪05
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疲労感がとてつもなく身体を重く押し潰す。私の部屋のテーブルには蓋を開けられたコンビニ弁当が手を付けられずに放置されていた。
料理する気にはなれず帰りがけにコンビニの弁当を買ったはいいものの、結局喉を通らなくて、私は食事を諦め、近くにあるベッドに身を投げていた。
携帯電話の電子音が鳴り、さほど広くない部屋をその音が一気に支配する。私はビクっと身体を硬直させて身を潜めた。
携帯画面に表示されている名前が私を息苦しくさせる。その名前を私は30分前にも見ていた。この息苦しさから開放されたくて、携帯電話に手を伸ばすと拒否ボタンを押す。そしてすぐにマナーモードに切り替えた。
携帯電話をベッドの上に投げ出すと、すぐに振動音が響き始めた。『遠野恵吾』と表示された文字が目に飛び込んできてしまい、私はその文字を見たくなくて枕を押し付ける。
振動音はさっきよりも長くは鳴り続けることなく、数秒後にはおさまって、部屋は一気に静かになった。私は大きく深呼吸した。
恵吾からの着信はこれで3回目になっていた。私はどうするべきなんだろう。電話の要件は何だろう。弁解をする気だろうか。はたまた急用の仕事の話だったりするのだろうか。自問自答しながら、私は携帯電話を隠した枕の上に頭を投げ、寝転ぶ。
白い天井が微かに歪んで、ぼやけていく。私にはどんな内容でも、恵吾と冷静に会話ができる自信がなかった。
昼間見てしまった恵吾と香織の親密さと『結婚』という内実が私の心をかき乱す。
頭の下でブルルと1回だけ振動音が鳴って、私は恐る恐る携帯電話に手を伸ばし、すでに沈黙している携帯画面を見る。そこにはメールの着信を知らせるアイコンが表示されていた。
メールは恵吾からかもしれない。唇を噛み締めながら、アイコンをタップすると、メール画面が立ち上がった。案の定、差出人は遠野恵吾。
『明日、フィルムの現像に必要な備品をまず買いたいから一緒に行こう。10時に美咲の自宅に迎えに行くね』
その内容に思わず、私の携帯を操作する指の動きが止まる。
突然知らされた結婚の内実を受け止められず、苦悶していた私にとって、恵吾のメールはあまりに食い違い過ぎていた。結婚している彼は何故私を普通に誘うのだろう。
私の手を握り、優しく微笑んでくれた恵吾の顔が浮かぶ。確かに気持ちが伝わってきた甘いキスの感触を思い出す。私と彼。彼と結婚相手。どっちが真誠なのかまったく分からない。
恵吾から送られてきたメール文は確定事項のように書かれていたから、返信しなくても、明日の10時に恵吾は自宅に迎えに来るような気がした。
会いたくないと言ったら嘘になる。でも会うことも躊躇われて、私はしばらくメール文と睨み合った。
恵吾に結婚の事実を確かめずに、この気持ちに終止符を打てるだろうか。派遣期間の終了まではまだ期間が長過ぎるけど、お互いに適度な距離を保ち、数日前の一線を引いた関係に戻ることは出来るだろうか。今後、どんな関係に収まるとはいえ、前に進むには、やっぱり恵吾と話すことからは逃げられない気がした。
だから私は返信ボタンを押し、自宅に迎えではなく、店の最寄駅の待ち合わせにして欲しいと返信する。恵吾からすぐにメールは返ってきて、そこには駅名と待ち合わせ時間が書いてあった。
翌朝10時過ぎ、私は駅の改札口で恵吾が現れるのを待っていた。恵吾に話すこと、確認する内容を頭の中で反芻する。
社長との会話を聞いてしまったこと。大野が話してくれたこと。結婚という事実の有無。私は会ったらすぐに聞くと決めていた。そして買い物にもアトリエにも行かず、すぐに帰るつもりでいた。
「美咲、お待たせ」
呼び声に振り向くとすぐ近くに恵吾の姿が見えた。心は重く沈んでいるはずなのに何故かトクンと鼓動は反応する。
カジュアルな白いシャツにグレーのパーカー。濃いめのジーンズ姿の恵吾。スーツ姿の恵吾しか見たことがなかった私は恵吾の私服姿に惹きつけられていた。恵吾の雰囲気にぴったりなその柔らかな服の着こなしに私の心は意思に反してくすぐられてしまう。
「車を駐車するのに時間が掛かっちゃって。少し遅れてごめんね」
そう言って優しく微笑む恵吾に、私は一瞬何を話すために来たのか忘れそうになっていた。慌てて気をとり直し、私は息を軽く吸い込む。
「遠野さ‥‥」
「とりあえず歩こう?行きたい店、すぐそこだから」
私が立ち止まったまま話を始めようとすると、恵吾は私の言葉を遮って歩き出してしまった。
「あっ、待って‥‥」
「ほら、行くよ」と歩き出した恵吾は私に一度振り返って微笑みかける。そして、どんどん先に進んでしまった。私は慌てて、恵吾の後を追いかけていた。
恵吾の側までたどり着くと、恵吾は歩くスピードを少し落として、私の歩幅を合わせてくれる。
「遠野さ‥‥」
「昨日の会議、本当に助かったよ。14時には戻れると思っていたから、会議資料はその後準備しようと思ってたんだよね。打ち合わせが思っていたよりも長引いちゃって結構焦った。美咲が居てくれて良かった」
恵吾はまた私の言葉を遮って話し始めてしまった。
「お役に立てて良かったです」と答えながら、再度話し掛けるタイミングを探る。
「急遽、買い物に付き合わせてごめんね。昨日、備品調べたら足らないものがあることに気付いてさ」
話し続ける恵吾に相槌を打ちながら歩いていると、すぐに目的地に着いてしまった。備品を調達する電気屋は本当に駅から近くだった。
「普段は別の店で買うから、この店の勝手が分からないんだよね。ネガシートと定着液が必要なんだけど、美咲もそっちの棚から探してみてくれる?」
カメラのフィルムなどが置かれたコーナーで恵吾にそう頼まれ、私は陳列棚を端から順々に眺め始めた。そして棚の一番下の段に定着液という文字を見つけ、しゃがみ込む。
商品を覗き込むと、中くらいのペットボトルサイズから業務用シャンプーボトルサイズまで、大きさの違う商品が並んでいて、どのサイズを取ればいいのか迷ってしまう。
「遠野さん。定着液ありましたけど、どのサイズですか?」
「あった?」
恵吾は私の側に来ると、同じようにしゃがみ込んで、2人の肩と腕をぴったりと密着させた。ふわっとシトラス系の爽やかな香りが漂ってきて、すぐ真横に近付いた恵吾の横顔に私は緊張してしまう。その至近距離に戸惑ってしまい、思わず肩をすくめた。
恵吾の顔が私の耳元に近付いてきて、「今日の美咲、いつもより可愛い。私服見慣れないからかドキドキする」と囁いた。顔が一気に赤くなり、余計に顔を上げられなくなってしまった。
「早く2人きりになりたい。行こう、美咲」
恵吾は棚から定着液を取り出すと、さっと立ち上がった。肩と腕に触れていた温かさと甘い空気を不意に奪われてしまい、私は寂しい気分にさせられる。さっきまでの温もりと甘さが欲しくて、恵吾が恋しくなってしまった。
定着液とネガシートを購入すると、「近くの駐車場が停められなくて、少し歩くけど、許してね」と恵吾は駐車場に向かって歩き出した。恵吾のペースに私はどんどん流されていく。
人通りが多い大通りで、恵吾の少し後ろを追い掛けるように歩く。恵吾は少し足早に歩いているせいで話し掛けられる隙がない。
恵吾に事実を確かめられるのだろうか。私の不安は募っていく。
歩いている途中、私達の横を何人かのカップルが通り過ぎて行った。彼らは皆、手を繋いだり腕を組んだりして仲良く歩いていく。恋人同士であると公にアピールできる振る舞い。
私はふと思い付いて試すことにした。2人の関係を確かめるための恋の駆け引きを‥‥。
「遠野さん。……手を繋いでもいいですか?」
でも私は下手だった。毅然とした態度で言えず、声が震える。
恵吾は「ん?」と聞き返してきた。私はその反応にドキリと冷や汗をかく。恵吾のこの反応は、聞こえたけれど誤魔化そうとしているのだろうか?それとも本当に聞こえなくて聞き返してきたのだろうか?
やっぱり何でもないですと私が怯めば、駆け引きは終了。再度同じ台詞を言えば、駆け引きは継続。
「遠野さん‥‥手を繋ぎたい‥‥」
私は振り絞って声を出した。
たぶん恵吾の耳にはハッキリと聞こえたはずだった。だけど恵吾は何も答えずに、そのまま足を先に進ませた。そして近くの路地を曲がると、やっと歩幅を緩め、追い付いてきた私の手をぎゅっと握り出した。
私の心もぎゅっと締め付けられていた。落胆と失望の痛み。
私達の歩くその場所はビルとビルに挟まれた路地で太陽の光が差さない日陰だった。『結婚』『不倫』『日陰の女』。順々にその文字が私の頭の中で列挙する。大通りは足早に歩いて手は繋げず、人通りのない路地は急がず歩いて手を繋げる。その駆け引きの結果は私にとって悲し過ぎた。
「遠野さん」と名を呼ぶと、「なあに?」と優しく返す甘い声。でもその声は私だけのものにきっとならない。
「結婚してるんですよね‥‥‥」
尋ねると同時に、私の足は止まってしまった。繋がれた手が恵吾の進む足を止め、恵吾はゆっくり振り返る。さっきまで優しく微笑んでいた恵吾の目はもう笑っていなかった。
「……やっぱり聞こえてたんだ」
恵吾は静かな声でそう言うと切なそうな目をする。
「……じゃあ、結婚は本当なんですね」
「否定はしないよ」
軽く少し投げやりで、吐き捨てるような口調。私は居た堪れなくなり、繋いだ手を振り解こうと腕を引き上げた。でも手が解ける前に恵吾がキツく私の手を握り締め、逆に力を入れて引き寄せる。
「い、痛っ」と声に出した時には私は恵吾の腕の中に抑え込まれていて、私の後頭部に恵吾の右手がすっと入った。
そのまま恵吾の顔が目の前に寄ってきて、恵吾は私にキスしようとする。
「い、嫌っ!!」
私は咄嗟に腕を突っぱねて、勢いよく恵吾の胸を押し除けていた。恵吾の腕が一瞬緩み、私はその隙に恵吾の腕の中から逃げる。
「なんでまたキスなんか!バカにしないで!」
恵吾にそう叫び、一気にその場から走り出した。
恵吾の曖昧な言葉も照れた愛情表現だと信じていた。私だけに真っ直ぐ惹かれ始めてくれたのだと思っていた。恵吾は私に真剣に向き合ってくれていると思い込んでいた。既婚者のくせに、あの日はどうしてキスなんかしたの?しかも事実を打ち明けた後に謝りも言い訳もせず、またキスしようとするなんて、私はそんなに軽い女だと思われてるの?
走り続けて、気付けば恵吾と待ち合わせた駅の改札まで戻ってきていた。久しぶりに走ったせいで息が切れる。心臓は音を立てるほど早い。私は息を整えようと、一度立ち止まった。
「美咲」
後ろから声が聞こえ、ビクっと身体を硬直させる。恐る恐る振り返ると数ヶ月振りの顔が私を覗き込んだ。
「‥‥なんだ、樹生か‥」
「なんだってなんだよ?こんなところで会うなんて珍しいな。買い物?」
「う、うん‥‥」
樹生だったことに安堵したのも束の間、樹生の肩の向こうに恵吾の姿が見えて、目を見開く。
「ご、ごめん、樹生。私、行くねっ」
「おい、どうした?」
「えっと、あ、会いたくない人が居て‥」
「え?」
樹生が私の視線を追って振り返った時、私は恵吾と目が合ってしまった。恵吾は私に気が付いて真っ直ぐこっちに向かって来る。
「アイツ?ストーカーとか?」
樹生も恵吾に気付いたらしく、恵吾を軽く顎でしゃくる。
「いや、そうじゃないけど‥‥‥っわ!」
「行くぞ!」
樹生が私の腕を掴んだかと思ったら、私の腰を引き寄せて抱く。
「た、樹生。何して‥‥」
「彼氏だって思わせた方が手っ取り早いだろ?」
「え?‥‥あっ」
そのまま樹生に歩かされ、駅の改札に滑り込む。勢いで電車にも乗り込んだ。発車間際だった電車は私達が乗り込んだ後、シュウと音を立ててドアが閉まる。
「美咲?大丈夫か?」
電車が走り出して、樹生が私の身体を解放してくれる。私は走り出した電車の窓を横目で眺めた。恵吾の姿は見えなかった。
自分から逃げてきたくせに、改札まで追い掛けてきてくれた恵吾のことが少し気になっている自分。
「‥‥うん。大丈夫」
未練がましい自分に苛立った。
「樹生は大丈夫だったの?電車に乗ったりして」
気をとり直して、巻き込んでしまった樹生を気遣う。
「もう帰るところだったから平気。今日は午前中だけ講義でさ」
そう返された言葉に、樹生がさっきまで居た駅前の塾で講師をしていたことを思い出す。
「この後、美咲の家に行っていいか?お袋さんに線香あげたいし」
「うん。ありがとう」
私と樹生は静かに微笑み合った。