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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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恵吾と美咲の罪04

 恵吾のアトリエでキスを交わしてから数日後。

「田辺さん。遠野から伝言。今日、15時から臨時会議を開くから、参加するようにって」と、デスクワークをしていた私に外回りから帰ってきた社員が声を掛けてきた。

 私は椅子ごと身体を反転し、その社員に向き直る。彼は午前中から恵吾と一緒に打ち合わせへ出掛けていた営業課の大野だった。

 伝言を残すくらいだから、大野の隣には恵吾の姿は無くて、おそらく、また別の打ち合わせに向かってしまったんだろうなと私は心の中で残念がる。日々予定が詰まっていた恵吾とは、なかなか社内で顔を合わせられないことが多かった。

 恵吾からの伝言を頼まれた大野は恵吾と同期で、恵吾と仲が良い。仕事終わりに一緒にいるところをよく見かけたし、社内で昼食する時はたいがい一緒に過ごしていた。恵吾と少しでも一緒に居たいと願っていた私にとって、大野が心の中では密かにライバルだったりした。

「15時からですね。分かりました。会議の内容はどういった件ですか?」

 私はメモを取り、要件を大野に聞く。

「ほら、こないだ遠野と田辺さんが急遽打ち合わせした北泰製造。さっき、提携の承諾の連絡があったらしくて、その話みたいだよ」

「そうなんですか!承諾してもらえたんですね。良かったです!」

 私は心なしか嬉しくなり弾んだ声で返した。あの急遽の打ち合わせだけで、恵吾は商談を勝ち取ったのだから、やっぱりさすがだと敬仰せざるを得ない。

「お手柄だね、田辺さん」

 大野にそう言われ、私は一瞬目を瞬いた。お手柄なのは私ではない。

「お手柄なのは私じゃなくて、遠野さんですよ?私は通訳しただけですから」

 私はただ恵吾の言葉を先方に伝えただけに過ぎなかった。先方の心を掴んだのは間違いなく恵吾の手腕だと思う。

「そんな謙遜しなくても。遠野が褒めてたよ。田辺さんの通訳は今まで関わった中で一番自分の気持ちを代弁してくれて、それでいて馬が合うって」

 大野が恵吾の言葉を大袈裟に誇張しているのではないかと思ったけれど、ほんわりと胸は温かくなった。お世辞でも恵吾が大野にそういう話をしてくれているのだと知り、胸がこそばゆくなる。

 日々忙しく動き回っている恵吾の役に少しでも立てているのかもしれないと思ったら、私は嬉しくなった。


 時刻は15時近くになり、恵吾が慌ただしく社内に戻ってきた。

「美咲さん、ごめん。至急、こないだの北泰製造との打ち合わせの議事録と先方の資料をまとめたものをコピーしてもらってもいいかな」

 恵吾は少し息を切らしていた。前の打ち合わせが思いのほか長引いて、慌てて帰ってきたのだろう。

「こちらの資料で足りますか?参加する人数分コピーしてあります」

 私は用意していた資料をすぐに恵吾に差し出す。すると恵吾は一瞬驚いたように目を開いた。そして、すぐに肩から気を抜くようにふうと息を吐いて、笑みが零れる。

「……ありがとう」と言いながら、差し出した資料を受け取り、パラパラと中身を確認し始め、それが終わると、気の抜けた風船のように思い切り脱力した顔で笑った。

「完璧。ほんと、助かる。サンキュ」

『ありがとう』じゃなく、『サンキュ』とちょっと砕けた口調で返してくれたということだけで、2人の関係が縮まっている証拠のような気がして胸が高鳴る。それに加えて、恵吾が私の手にその資料を戻しながら、周囲からは見えないように指を絡めてきたから、身体の体温は一気に上昇してしまった。

 指先に恵吾の指の体温が伝わる。重ねる2人の目線の間にとろけそうな甘い気が漂う。それは秒数にしたら、一秒も満たないくらいの本当に短い瞬間だったけれど、確かに存在したその空気に私は酔ってしまった。

 恵吾の顔が何故か私の顔に近付いてきて、まさかこんなところでキスをするつもりなのかと焦って顔を伏せると、恵吾は私の耳元に「明日、お休み取れたから」と小さく囁いて、私から離れていった。

 キスされると勘違いをしたことの恥ずかしさと、数日前の約束を叶えてもらえることの嬉しさが相まって舞い上がり、私は慌てて机の上にあったパンフレットを無造作に取り、顔を隠す。

 私から離れた恵吾は、「予定どおり、15時から会議を始めるから、みんな宜しくね」と普段通りの気丈な態度で課内に声を張り上げた。課内のあちこちから承知の声が返る。

 私は1人パンフレットに顔を隠したまま、顔の火照りを冷ますことに必死だった。



 北泰製造との今後の方針について報告と意見交換が行われる中、時々投げられる恵吾の視線に私はドキドキしていた。

 付き合い始めの恋人たちがラブラブオーラを出すのと遠からず、私と恵吾の間にも控えめな2人だけの甘い視線のやり取りが最近確かに増えていて、その度に私は顔の火照りを冷ますことに励んだ。

 会議中も、ふと見せる柔らかい恵吾の微笑みに私は吸い込まれそうになり、何度資料に顔を隠したか分からない。それでいて恵吾は切り換えが早く、達者な話し方で、スイスイと議題を進めていく。

 外回りから慌てて帰ってきて間もない会議だったこともあってか、恵吾のネクタイは正位置よりも少しズレていた。鮮やかに会議進行する姿とはズレたそのギャップに、私は恵吾を余計愛しく感じてしまっていた。

 会議が終盤に近付いた頃、会議室のドアをコンコンと叩く音が聞こえた。

「はい、どうぞ」

 恵吾が返事をすると、事務課の女性が顔を出す。

「遠野主任、会議中すみません。社長が遠野主任に話があるらしくて‥‥」

 その女性は野暮を承知で言わせて欲しいと言った口振りで要件を早口で伝える。

「社長が?今日は出社日だったかな?」

 社長の予定を把握しているのか、恵吾は記憶を思い起こすように頭を捻る。

「生産課Bチームの新商品の開発で、娘さんがプロダクトデザインを担当することになったので、急遽打ち合わせに参加されたんです」

「となると、香織さんも来てるの?」

「はい」

「そうですか」

 恵吾の顔が一瞬曇った気がしたけれど、すぐにいつもの笑顔に戻っていた。

「もうすぐ会議が終わるので、終わったらすぐに顔を出すとお伝えください」

「分かりました」

 恵吾の返答を受けて、事務課の女性は静かに会議室のドアを閉めた。

 電気製造会社は大手企業とまではいかないけれど、それなりに従業員数は多かった。それなのに、生産課Aチームの1主任である恵吾が社長直々に呼ばれたことに何となく違和感は感じていた。また恵吾が「社長の娘さん」ではなく「香織さん」と女性の名前を発声したことに心も多少ザワザワしていた。でも、この時の私は恵吾と始まったばかりの甘い空気に酔っていたから、それほど気にはしていなかった。

 会議が終わり、恵吾はすぐに会議室を出て行った。他の社員達もいそいそと会議室を出て行く中、私はすぐに戻りたくなくて、ゆっくりと会議室の片付けをする。

 会議室から私が所属している生産課に戻る途中、必然的に社長室の側を通るレイアウトになっているのを知っていた私は社長と話が終わった恵吾と運良く鉢合わせして、少しでも話が出来ないかと期待していた。私は頃合いを見計らって会議室を出る。だけど会議室を出た途端、望みはすぐに断たれてしまった。

「あ、どうも田辺さん」と声を掛けてきた大野と鉢合わせしてしまったからだ。

「会議終わったの?」と聞く大野に終わっていませんと返して会議室に戻るわけにもいかず、「はい」と答えながら、渋々会議室を出る。

「こっちもさっきまで会議でさ。下っ端の僕は1人残ってお片付け」

 書類や資料などを詰め込んだ小さなダンボールを大野は軽く持ち上げて見せる。

「大野さんが下っ端って‥‥。重役会議だったんですね」

 大野は営業課で役職はついてはいないものの、後輩を指導する役回りをしていた。その後輩が同席しない会議なのだから、主任クラス以上の社員が集まっていたのだと想像できた。

「まあね、社長も出席してたし」

 すぐに事務課の女性が言っていた会議だと分かった。

「新商品開発の会議ですか?」

「そう。今年の秋に発表する新商品なんだ。内容はまだ極秘だけどね」

 競争の激しい生産業界。社内でも新商品に対する情報は慎重に扱われるのだろう。

「デザインは社長の娘さんが担当することになったんだけど、彼女、プロダクトデザイナーではかなり有名なんだよ。目を見張るデザインをするんだ。だから、今から僕も楽しみだったりする」

「そうなんですね」

 裕福な家に生まれ、不自由なく過ごしてきたであろう女性がデザイナーとして実力を評価されるほど努力を積み重ねてきたのかなと想像して、社長の娘はさぞ志の高い女性なのだろうと抱いていたイメージを塗り替えた。社長令嬢と言う響きだけで、努力もせずに幸せを獲得するような偏見を私は持っていたんだとも気付かされる。

「ねぇ、田辺さん。僕も最近、外国の人相手に営業することも増えてきてさ。僕の営業にもついてくるとか出来ないかな?」

 大野は懇願するような顔で私を覗き込む。そんな大野を横目に、私はそろそろ社長室の近くまで来たことが気になり始めていた。

 大野と私が居る通路は真っ直ぐ進むと、各課のフロアへ。そして、右手に見える通路を曲がれば、社長室へと繋がっていた。あわよくば、社長室から出てきた恵吾と鉢合わせできるかもしれない。

「通訳するのは構わないのですが、大野さんは所属する課が違うので、一度上役を通して頂けるとこちらも動きやすいんですけど……」

 大野に返事をしながら恵吾が出て来ないかと通路を眺めていると、これまたタイミングよく恵吾が右手通路から出てきて、前方を歩き出す。

 さすがに声を出さないと気づいて貰えない距離で、私は今すぐ恵吾に走り寄りたかったけれど大野が居る手前、それが出来なかった。

 声を出そうか迷っていると、右手通路からスッと女性が現れて、恵吾を呼び止めた。緩やかなパーマのかかったロングの髪。スラッとした長身でパンツスーツが似合う彼女は知的な雰囲気を纏い、かつお洒落なインナーとベルトで気品さ兼ね備えていた。

 彼女は恵吾の側に近付いたかと思ったら、躊躇いもなく恵吾の肩に手を伸ばし、恵吾のスーツの襟元を撫でるように手を這わせる。そのまま首元まで両手を伸ばすと、ズレたネクタイの位置を直した。

 2人の距離はかなりの至近距離にも関わらず、恵吾はその距離に違和感を持たずに、彼女がネクタイを直すのを自然と受け入れていた。そのうち、年配の男性が2人に近付いてきた。すぐにその男性がこの会社の社長だと気付く。

「恵吾君。今日これから一緒に夕飯はどうかな」

「そうですね。ご一緒します」

 私の足はいつしか恵吾の居る位置にだいぶ近付いていたようで、彼らの会話が聞き取れてしまった。

「お父さん。私は先に帰ってもいいかしら?」

 恵吾の隣にいた彼女は社長を「お父さん」と呼び、彼女が社長の娘であり、プロダクトデザイナーで、恵吾が「香織さん」と呼んだ人なのだと分かる。

「何言ってるんだ。香織も一緒に食事を……」

 社長の少し苛立つような声。

「私、予定あるの。じゃあ、恵吾、お先にね」

 駄々を捏ねるような声で早口にそう言った香織はその場を立ち去ろうとする。

「ああ。気を付けて」

 恵吾は引き止めもせず、柔らかい声で香織を送り出す。香織はそのまま足早に2人を置いて、去っていった。

「まったく香織には困ったな。恵吾君と結婚しているっていうのに勝手なやつで、本当に申し訳ない」

 社長の申し訳なさそうな顔。

「そんな、社長が謝ることじゃないですよ」

 恵吾の困ったような顔。

「いやな、でもなぁ」

 私は自分が何処に居るのかも分からなくなるくらい、思考がプツンと途切れていた。足も手も呼吸も瞬きでさえ忘れてしまう勢いで、ろう人形のようにその場で固まる。

 その時、恵吾がこちらを振り向いた。バチンと頭の中で音が鳴った気がする。恵吾と私の視線は確かに交差してしまっていた。

 その瞬間から、私の足と手と呼吸と瞬きは一気に動き出した。足と手の震え。浅く酸素を吸いきれない呼吸。滲む目元。ドクドクと痛みを伴う鼓動。

 傷付かないようにと無意識に感情の波を塞ぎ込んだためか、それに対抗するように、様々な身体の反応が全身に溢れ出した。

 目が合った恵吾は一瞬硬直したように見えたけれど、すぐに私から視線をそらして「社長、その話は食事の席で」と社長の足を促した。

「そうだな」と社長は従い、恵吾と社長は会社の外へと去っていく。

どういうことだろうか。彼は左手薬指に指輪をしていただろうか。私は何か勘違いをしているんだろうか。数日前の交わしたキスは私の夢だったんだろうか。

「田辺さん、聞こえちゃったよね?」

隣から声が聞こえて、私はビクっと身体を強張らせた。隣に大野がいたことを私はすっかり忘れてしまっていた。動揺している顔をみられていないかと一気に不安になる。

「聞いてのとおり、遠野は社長の娘、香織さんと結婚してるんだけどさ。この会社でそれを公にすると仕事がし辛くなるからって内緒にしてるらしい。だから田辺さんも黙っててやって」

頭の上から全身の骨をヒョイと一気に抜かれてしまったかのような強烈な痛みと砕け倒れそうな脱力感。

「‥‥‥はい」

 私はそう答えたけれど、その声は誰が答えたのか分からなくなるくらい、意識だけは自分のモノでは無くなっていた。

「通訳の件は上司にまず相談してみるよ」

 通路を歩き出し、大野が隣で会話を続けていたけれど、私の耳にはまったく聞こえていなかった。









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