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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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恵吾と美咲の罪03

 2人は車に乗り込み、シートベルトを締めた。恵吾が車のエンジンを掛ける。サイドブレーキを外し、ギアをオートにシフトチェンジする。

 後はブレーキをアクセルに踏み替えるだけなのに、恵吾はハンドルを握り締めながら、そのまま動かなかった。

 考えごとをしている恵吾の顔はいつもよりも険しくて、私は不安になりながらその表情を伺う。

「‥‥‥遠野さん。どうかし‥‥」

「次の打ち合わせ、一緒に来て通訳してくれる?」

「え?」

「英語なんだけど、構わない?」

「はい」

「じゃあ、決まり。会社には僕から連絡するから、今日は最後まで付き合って?」

 その時の私は恵吾の「最後」の意味は就業終りだと思っていたから、私の甘い期待はまだ儚く散ったままだった。でも、次の打ち合わせで恵吾が流暢に英語を話したことにより通訳する必要がまったくなかった私は何故連れて来られたのかと不思議に思い始めていた。

 打ち合わせが終わった後、会社に戻るのかと思っていたら、全然違う方向に車が走り出していることに気付いて、次はそわそわし始めた。

「連れて行きたいところがある」と言われ、「入間野方面」と言う看板を通り過ぎ、ガタガタの山道の奥へと車が進むと、胸はもうドキドキ騒ぎ出して。別荘のような建物の前に車を停め、助手席のドアを開けた恵吾が私の手を掴んだ時は、もう恵吾の声が聞こえなくなるくらい鼓動がバクバク鳴り響いて、私の甘い期待は今から紡がれるのだと確信していた。


 恵吾に手を引かれながら助手席を降りると、朱色と紫陽花色の絵の具を同時に水に溶かしたその一刹那の色をした夕焼けが私達を淡く照らした。

 四角いコンクリートの塊みたいな建物の前に立ち、私はその外観を眺める。窓は極端に少なくて、黒い重たそうな玄関ドアが印象的な建物。一見、入りずらそうな雰囲気を漂わせているから、きっと私一人では入ることができない。

 恵吾がドアを開け、玄関に足を踏み入れると、酸っぱい匂いがツンと鼻をついて、私はすぐに顔をしかめていた。その顔をみた恵吾は予想どおりといった顔でくすっと笑い、「この匂いに慣れるまで少し我慢してね」と言った。

 玄関からは打放しコンクリートの壁に挟まれた廊下が真っ直ぐ伸びていて、その奥に一つだけ扉が見えた。私は恵吾に手を引かれながら、焦げ茶色のフローリングの廊下を奥へと進む。

 たった一つの扉は玄関と同じように重たそうな黒い扉で、入ってはいけない場所へと続いているかのようだった。恵吾の手がその扉のノブを回した時、思わず唾を飲み込む。

 扉を開け、1番に目に入ってきたのは壁や天井に何枚も吊るされた沢山の紙。それらは隙間風に吹かれて一斉にふわっと挨拶するように揺れた。全てモノクロ写真だった。

「これ、みんな写真ですか?」

「そう。僕の趣味なんだ」

 私は見上げるように吊るされた沢山の写真を眺める。映っている被写体はコップや鉛筆、椅子やスツールなどの日常生活用品。人物はどの写真にも映っていなかったけれど、日常生活の一コマを切り抜いたような風景は確かにその時間を刻み込んでいた。

「素敵ですね」

「ありがとう。でも今時モノクロなんて流行らないよね」

「そんなことないです。モノクロでもこんなに目を惹きつけるんですね。ちょっと感動してます」

 カラー写真は見慣れていたけれど、モノクロ写真を実際に見る機会はなかった。白と黒、光と影だけで表現された風景は、被写体の存在感や空気感によって伝えたいイメージだけを心に突き付けてくる感じがして、ジンと胸に響くものがある。

「コップとか、鉛筆とか、なんか自宅にあるようなものばかり撮ってるんですね」

「うん。好きなんだろうな、たぶん。景色とか人物とかってあまり撮りたいって思わなくて、気付くと身の回りにあるようなモノばかり撮ってるんだよね」

 恵吾は吊るされた写真を見上げながら、自分の気持ちを振り返るように語った。私は写真から視線を外し、部屋の中を見回した。

「ここは遠野さんの自宅……なんですか?」

 聞いておきながら、違うような気はしていた。

 見回す限り無機質な打放しコンクリートの壁。外光を取り入れるための窓は部屋の上部に配置された長方形の窓だけ。差し込む夕暮れの光の温かさは虚しく、薄暗い蛍光灯の光が寂寥感を漂わせて、生活感があまり感じられなかった。

 ただ、部屋の奥にはベッドや観葉植物が置かれた中二階があったり、コーヒーくらいは淹れることが出来そうな小さなキッチンも設置されてたりするから、判断が難しかった。

「そうだなぁ、自宅なのかなぁ」と恵吾も困ったように笑って、答えを考える。

 自宅かどうか返答に悩む恵吾を不思議そうに私が見つめていると、「たぶんアトリエみたいなものなんだけど、割と夜はここで寝泊まりしていることが多いんだよね」と付け足した。

「いちをユニットバスもついてるから、生活はできなくもない」とそれが設置されているのであろう扉の向こうを指差した。

 私は頷きながら指差す方を見て、その扉とは別に、もうひとつ扉があることに気付く。その扉は木材などではなく、防火扉のような頑丈な扉でなかなかの存在感があった。

 私の視線に気付いた恵吾は私の手を引き、その扉の前に立つ。扉を開けると、玄関に入った時に嗅いだあの酸っぱい匂いが強烈に鼻を刺激した。

「ここは暗室。写真を現像するための部屋。この部屋の独特な匂いはこの部屋の現像液のせい」と恵吾は教えてくれる。

 暗室は窓ひとつなく、扉を閉めたら、名前通りに闇を作り出すだろう。暗室の中には現像するために使う機械や流しが設置されていた。

「今度、現像するところ見たいです」

 カメラで撮影したフィルムがどんな風に写真になるのかまったく想像がつかなかった私は、とても興味を引かれて、そうお願いしてみた。

「うん、いいよ。じゃあ、次の休みにでも教えてあげるね」

 すると恵吾が意外にも簡単に承諾してくれて、しかも次の休みと日程まで指定してくれたから、私は驚いた。

 プライベートにまったく踏み込ませて貰えなかった数ヶ月間が嘘のようで、2人の関係が一気に縮まった気がして妙に心が浮き立ってしまう。

「遠野さん‥‥」

 私が呼びかけると「なあに?」と優しく微笑み返してくれる恵吾に、鼓動がトクントクンと恋の秒針を進ませる。私はもっと彼に近付くことができるだろうか。彼は私のことを意識してくれているのだろうか。

「どうして今日は私をここに連れてきてくれたんですか?」

 恵吾も自分のことを好きだと思ってくれているといいなと願って、私はじっと恵吾の瞳を見つめ返した。

 入社初日のキスの意味も、恵吾が手を繋いでくれている理由も、私達の今後の2人の関係も、出来ることならちゃんと答えが欲しかった。

 たぶんそんな私の気持ちを察してくれていたと思う。恵吾は私の瞳をとても真剣な眼差しで見つめ返してくれたから。でも、しばらくすると唇をこすり合わせながら視線を反らして、恵吾は部屋を眺めた。

「実はこの場所、僕以外誰も入ったことがなくて‥‥田辺さんが初めてなんだよ?」

 恵吾は静かに言葉を繋ぐ。

「それって、どういうことだと思う?」

 どうして疑問形なのだろうと聞き返したくなったけれど、恵吾は本当に真剣に悩んでいる顔をしていたから、私は何も言えなくて黙っていた。恵吾は苦さを味わうような口元で目を細めながら笑う。

「……ごめん、それは僕が答えることなんだよね。でも、僕もどう言ったらいいか分からなんだ」

 そう言いながら自分の髪を掻き乱す恵吾の表情は困っているようでもあり、照れているようにも見えた。

「連れてきたいと思った。僕だけの空間に田辺さんを引き入れたいと思った。その答えじゃダメかな?」

 コンクリートの塊のような建物の外観と黒く重厚感のある玄関扉は、あれから数ヶ月間の踏み込めない恵吾との距離感を連想させた。そして踏み入れた空間は無機質な寂寥感を漂わせていて、まだ見せて貰ったことのない恵吾の心の奥の孤独や寂しさを表しているような気がした。

 私はきっと何一つ目の前にいる彼のことを知らない。でも知りたかった。彼の全てに触れてみたかった。

 薄暗い部屋の中、無言で見つめ合う2人。恵吾が繋いだ手にぐっと力を込めて私を引き寄せると、2人の唇と唇の距離が縮まった。

「美咲……」

 私の名を呼ぶ恵吾の声にくらっとして、心も無防備に引き寄せられた。私が静かにゆっくりと瞼を閉じるのと並行して、恵吾の唇が近づいてくる。

 交わしたキスは、始まりそうで、始まっていなかった2人の気持ちを今ここでスタートさせて、これから育んでいこうと誓い合うな優しいキスで……。

 だから、その時の恵吾の曖昧な言葉は、単なる照れ隠しだと思ってしまっていた。


 アトリエで交わした3度目のキスで、私の心はもう恵吾だけに染まってしまっていた。




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