逃げて、囚われて、そして。
「――見つけた。アタシの宝物」
銀色に輝く満月の夜。目の前に、もう決して逢うことはないだろうと思っていた人が現れた。
柏木理緒様。
――理緒様。お慕い申し上げております。
昔の苦い記憶を押しとどめて、恐る恐る理緒様を見上げた。
私の元婚約者。記憶に残る輝く茶色の長髪はそのままに、しかし以前は決して身に纏うことのなかったグレーのスーツに身を包み、理緒様は立っていた。前と変わらずに見る者を膠着させるほどの美しさに一瞬動けなくなったものの、すぐに我に返ってドアを力一杯閉めようとした。けれどどんなに力を込めてもドアが動くことはなく、視線を下に向けると理緒様の革靴がしっかりと挟み込まれていた。理緒様は暗い笑みを浮かべてドアを持つ手に力を込めた。
それでも本気ではないのだろう、表情からは余裕さえも窺い知れた。
私は素早く後ろを振り返る。なんとか理緒様の気をそらして窓から木に飛び移ればまた逃げられるかもしれない。一縷の望みをかけてなんとか声を出す。
「理緒様、本日はどんな御用でお越しくださったのですか、」
「お黙り」
冷え切った声のすぐ後に、ドアを思い切り開け放たれる。その反動でドアノブを握り締めていた私の身体は宙に放り出され、その勢いのまま理緒様に飛び込んでしまう。急いで離れようとするも理緒様の腕に阻まれる。
「ねえ、そのお粗末な頭は何度同じことを言ったら理解するの? ――アンタがいないと和真に元気がないのよ。無駄なあがきはしないでさっさとついてきなさい」
「私はっ! 道具ではございません」
「いいえ、道具よ? 一生、アタシだけの、ね」
そう言うなり理緒様は身につけていたネクタイを外した。嫌な予感に必死で身を捩じらせるも、遅すぎた。理緒様は口元の笑みを絶やすことなくそれを私の口に結びつける。
「んぅぅぅっ!!」
「意識を落としてもいいんだけどね、薬はアンタの身体に害があるかもしれないでしょ? 危ないじゃない」
そしてどこから取り出したのか手錠で私の両腕を戒めた。
「やだ、こんなカッコじゃ襲ってくださいって言ってるようなもんじゃない?」
何がおかしいのか嗤い続けている理緒様にSPらしい人が声をかける。
「――柏木様、後は私どもが」
「お前、こいつが誰だかわかってるの? 旧大名家の由緒正しき姫君よ? お前なんかが触れられる存在じゃないのよ?」
「しかし、その者は柏木様に逆らった者。柏木様が御手を汚されることは、」
「お前じゃこいつが穢れるっつってんの。いい加減わかれよ」
急に低くなった言葉にSPは黙り込んだ。理緒様は微笑んで私に向き直った。
「待たせたわね。じゃ、行きましょうか。
あ、安心しなさい。アンタが容疑者だって思われないようにちゃんと後ろ手で手錠かけてあげたから。このコートを着れば手錠があるなんて誰も思わないわ。あ、でも口塞がれてるから無意味ね」
何がおかしいのか高笑いをしながらその言葉通りに理緒様は私にコートを被せるけど、こんなのは全然気休めにならない。
――私はあの屋敷に戻りたくないのにっ……!!
無駄だってわかってるけど、必死で腕を動かす。私は幼い時に誘拐対策だといって縄抜けを学んでいた。落ちぶれた今となっては無駄なものでしかなかったけれど。それを応用してなんとか外せないかと理緒様にわからないように上下左右に探った。でもいくら動かしてもびくともしない。
「最後のあがきは終わりかしら?」
じっと私に視線を注いでいた理緒様は涼しげな表情でそう言った。
「アンタって本当に無駄なところで頭が働くのね? でも、アタシがそれを想定してないって思ってるとこがお馬鹿さん。それは特殊な作りだからどうやったって外れないわよ」
ふふっと綺麗に笑った理緒様はおもむろに私の肩を抱く。一見するとそれは恋人同士のようで。
悪戯に落とされるそれらに翻弄された過去が否が応でも目の裏に浮かぶ。
「おとなしくしていなさい。イイ子にしてたらアンタを手助けした奴のことは一切見逃してあげるから」
耳元に落とされた言葉に私の身体は固まる。理緒様の元を離れたのは私の咎であって、ほかの誰にも背負わせてはならない。
「――それでおとなしくなったら、それはそれで腹立つわね」
ぐっと痛いくらいの力で掴まれて身動きもとれないくらいだった。そのまま私は理緒様の車に乗せられてあの忌まわしい屋敷に向かった――。
* * *
時は私が12歳のころに遡る。
「夕菜、こちらが柏木理緒様よ。遡れば皇室にも繋がる血筋をお持ちの方。本来ならば私たちは顔もお見せできないくらいの高貴なお方だから粗相のないようにね」
「おやめください、静香様。私はそのようなお言葉に値する人間ではありませんから」
「まあ、ご謙遜を! ご当主様の跡を立派に継いでいらっしゃることはこの末端の一族の耳にも届いておりますわ」
母は今思い返しても異常なほど血筋にこだわっていた。それは、父が母を差し置いていたって普通の女に入れ込んでいることが大きく影響していたのだろう。滅多に家に帰ってこない父は忙しいだけなのだと思っていたのはずっと昔のことで、その頃にはもうある程度の事情を悟っていた。母は血筋を認めることで己のプライドを守っていたのだ。
でも、どうしてそんなすごい人に私を会わせるのだろう?
そう思った次の瞬間には母は答えを教えてくれた。
「貴女はこのお方に嫁げるのよ!!」
母は喜び勇んでそんなことを言った。私は正直その言葉を信じられなかった。この人はどう見積もっても大学生以上だ。そんな人がこんな中学生を相手にするわけがない。
「貴女が理緒様の生活を邪魔しないという条件があるけど、なんてことないわよね?」
――これで大樹様は私の元へ帰ってきてくださる。
これまで見たこともない満面の笑みで私にそう問いかける母に、拒否なんてできるはずもなかった。黙って首を縦に振る私を見て母は私を抱きしめた。そしてあっという間に私たちの元を去っていった。
「んふふっ」
聞こえてきた笑い声を最初信じられなかった。それは、少なくとも男性が上げるべき笑い声ではなかった。なのにその声の持ち主は紛れもなく目の前の理緒様で。
「おかしいったらないわ! 私の生活を邪魔しないってことは愛される夫婦にはなれないってことなのに!」
「……私はそのような生活は望んでおりません」
すると不意に理緒様は真顔になった。
「そうよね、アンタが考えてるのは母親の関心を買うことだけ。そのためなら、自分が嫁ぐ男がこんな女みたいな言葉を使ったとしてもなんの問題でもないわよね」
馬鹿にするような言い草に苛立ちが募ったのは事実だけれど、婚姻を破棄させるわけにはいかない。黙る私をつまらなそうに見た理緒様はそれ以上言葉を残すことなかった。
しかし、理緒様はとても誠実だった。年下の小娘にすぎない私に対して誕生日に贈り物は欠かさなかったし学校の行事があるときは必ず見に来てくれた。そこにどんな意図が潜んでいたとしても、忙しい日々を過ごしているに違いないのに私に時間を割いてくれたその事実が嬉しかった。理緒様に心を寄せるようになるのは何の疑問もないことだった。
* * *
私は屋敷につくなり、昔使っていた部屋に放り込まれた。私の身を受け止めた柔らかいベッドは記憶に残っているそのものだった。
「暫くそこでおとなしくしてなさい。アンタは前科があるから手錠はまだ外さないわ。
私はまだ仕事が残ってるからここから先は和真を呼ぶわね」
そう言って理緒様は私の猿轡だけを外した。
「ここではいくら叫んでもいいわよ? まあ、叫ぶだけ無駄だけど」
にこやかに笑って理緒様は部屋を出て行った。
静かに部屋のドアがノックされる。返事をして現れたのは理緒様の秘書――和真さんだった。
ベッドに横たわる私の傍に膝をついた和真さんは記憶にあるより少し年を取ったように思える。和真さんは私にストローの入ったコップを差し出した。私は手が使えないのでそのまま彼がコップを支える。その手は、少し震えていた。
「できましたら、貴女様にはここに戻ってきていただきたくなかった」
「そうですよね、私がいたらお邪魔ですよね、でも私はなるべく存在を消しますから、」
「いいえ、そういうことではないのです、私は……っ」
そこで言葉を切り、辺りを見回した和真さんはやがて首を振った。
「いいえ、失礼いたしました」
* * *
私は花嫁修業と称して大学に進学するときから理緒様のお屋敷で生活することになった。その頃には理緒様のことしか見えなかったけれど、すぐに現実を知ることになる。
公私ともに行動を同じくする理緒様と和真さんはパートナーであると、使用人の噂話を耳にした。それは根も葉もない噂だと一時は思ったが必要以上に接するお二人を見ているうちに本当なのではないかと思い始めた。
大学卒業も目前にしたある日思い切って理緒様の元へ向かった。
「理緒様、本当に私を娶っていただいてよろしいのですか?」
その日珍しく和真さんをつけずにお一人でいた理緒様は、にやっと笑った。
「それってどういう意味かしら?」
「理緒様には真に想い合われる方がいらっしゃるのではないかと思いまして、」
両手の上に顎を乗せて私をじっと見る理緒様に耐えられなくなり、自然声が小さくなる。
「ええ、そうよ。和真と私はそういう関係。怖気づいた?」
「いいえ、理緒様の生活を決してお邪魔しないと誓いましたから」
私は深々と一礼して理緒様に背を向けた。これ以上理緒様の顔を見ていられなかった。私以外を愛してることを表している表情なんて、見たくなかった。
「――夕菜、逃げるんじゃないわよ。逃げても必ず捕まえる」
ドアを閉める直前届いた言葉の意味を考える余裕なんてなかった。
それから暫くの間、私の周りの警備が厳しくなっていった。それに比例するように理緒様と和真さんは人目をはばからず一緒にいるようになった。事情がわからない者が見れば単なる友情に見えたかもしれないけれど、実際はそうではない。嫉妬に狂いそうになる自分に耐えられなくなり、自分を責めることにも疲れ果てた。
「夕菜様、私が貴女様を理緒様の手の届かないところへお連れしましょう」
そんな月日をどれくらい過ごした頃だったのだろう。理緒様が残業で遅くなっていた時、和真さんが真剣な表情でそう言った。
「貴女様はこんなところに閉じこもっていてはいけない。貴女様は大学で優秀な成績を修められていると聞きました。しかしここに嫁ぐことが決まっているため、教授に紹介された職を一にもなく断られたとか。貴女様は理緒様の庇護を受けなければ生きていけないほど弱くはないはずです」
何故か熱心に私の耳に落とされる言葉。しかし私にとっては何の意味もない。
「理緒様は貴方の光を奪うことをよしとしているわけではないはずです。貴方が幸せなら理緒様も幸せなはずです」
だから、と続けられる彼の言葉に、それはエゴだと叫ぶ自分を聞いたが、もう抗うことにも疲れてしまった。こくんと力なく頷いた私に彼は喜びの色を浮かべる。
――もし私が貴女様に見合う力を得られたのなら、どうか貴女様を守る権利を与えてください。
消え入りそうな声で囁かれた言葉は聞こえない振りをした。
* * *
「さて、夕菜。少しは落ち着いたかしら?」
和真さんが紅茶の準備を進めていたとき、理緒様が部屋に戻ってきた。辞そうとする和真さんを手で制して、美しい笑みを浮かべる。
「――コイツね。私の夕菜を連れ去ったのは」
対する和真さんは身動き一つせずに断罪の時をただ待っている。私はこれから起こる事が予想できずにただ黙っていることしかできない。
「親しき仲にも礼儀ありって言葉あるじゃない? 和真といえど夕菜を逃がしたのはいただけないわね。――ねえ、もしここで私が夕菜を抱いたら和真もわかるかしらね」
言われたことをすぐに飲み込めなかった。一呼吸置いて言われたことの異常さを知る。起き上がって逃げようとする私の動きを読んでいたかのように、理緒様は私の肩を押さえつける。
「忙しくって満足に一晩中抱いたこともなかったわねぇ。ちょうどいいじゃない?」
「理緒様、夕菜様のこともお考えに、」
「誰が名前を呼んでいいと?」
和真さんの制止の言葉も全く効かない。
「か、和真さんが悲しみます、」
動きを制限されたけど、言葉は自由だ。そう思って必死で理緒様を食い止める。
理緒様は哀れみをこめたような瞳で私を見下ろした。
「あんたってほんとに馬鹿ね」
その言葉と同時に理緒様はその熱い熱を私にぶつけた。慣れない視線はついに消えることのないまま狂った夜は更けていった--。
* * *
「勉強を続けたいなら続けなさい。仕事をしたいならあたしの秘書になればいい。ただしあたしとの結婚は絶対よ。あんたも母親の教育を受けたんならわかるでしょ」
朝日に惜しげなく綺麗な体を晒した理緒様はそう口にした。
「理緒様は私がなぜあなた様の元を去ったのかおわかりではないのですね……。私はそれらが理由で離別を選択したわけではありません」
「もちろんわかってるわ。あんたが幼稚な嫉妬心を剥き出しにしたことくらい、ね」
顔に熱が集まってどうしようもなく逃げたくなった。思わず視線を落とすと、理緒様の磨かれきった革靴が目に飛び込んでくる。と同時に顎を思いきり掴まれた。
「いーい、夕菜。アンタはあたしの嫁よ。それは決して変わらない事実。諦めなさい」
与えられたのは窒息。そして理緒様はある1枚の写真を差し出した。
写真にはここ数年会っていない母様の幸せそうな顔が写っていた。傍らには--父様? いえ、似ているけれど……っ!
導き出された事実に戦慄した。母様は夢現の中で幸せを掴んだだけで目が覚めれば手のひらには何も残っていない。
「こんな偽りの世界で母が幸せなわけがありません」
「あら、偽りだなんて心外ね。今はちゃんと愛し合う仲よ?」
「……私に何をさせたいのですか」
クスクスと笑う理緒様の思惑が読めない。理緒様は不意に真顔を見せた。
「あんたがこの屋敷にいる限り、真実は闇の中。ただし、あたしの許可なく一歩でも外に出たら--」
背筋に冷たいものが流れた。そんな私を見て理緒様は笑みを浮かべる。
「簡単なことじゃない! あんたは自分の家にいればいいだけ。あたしはあんたの行きたいところならブラジルだろうとどこだろうと連れてってあげるわ」
「なぜそこまでして私を……?」
「決まってるわ。あんたはもうずっと昔からあたしのものだからよ。私のものを今更誰にも奪わせたくないだけ」
理緒様はそれだけを告げて出ていった。鍵が下ろされる音と共に胸の中が失望で満たされていき、そして私の中の、糸が、切れた。――この方に私の気持ちは一生通じない。
なら。理緒様の大事なものを奪ってしまえば、そうすれば、貴方は私をその瞳に映してくださいますか――?
和真さんは我が儘だ。理緒様に思いを寄せられているくせに、数年前のあの日確かに私に思いを告げた。あの時は自意識過剰だと自分を戒めたけれど、今ならわかる。やはり思い違いなどではなかった。
今はどうだろう。さすがに数年が経ち、思いが褪せた可能性もある。でももしかしたら。
愛してもらえないなら、憎まれたい。所有物としての独占欲なんか欲しくもない。
こんな私じゃますます嫌われてしまうかもしれない。和真さんを利用することにもなる。やめなさいと私が叫ぶ。だからどうしたのと私が哂う。
葛藤したのは一瞬。捨てたのは――私。
連れ戻されたのは幸か不幸か。わからないから幸せを見つけ出さなくちゃ――。
この案を実行するには時間が必要。理緒様は私からしばらく目を離さないだろうし、知真さんに接触するのもタイミングを見計らわなければ。
私を見て。――そう言ったのはどちらの声なんだろう。




