86 大切な友達
こうして納得のいかないことがあると、ハミルはクリムゾン・スターに向かう。
今日は久しぶりにチェルシーと会って話す約束をしていたが、ラナンキュラスへ行く準備をしないといけないので、少ししかいられなくなってしまった。
「いくらなんでも急すぎるだろ。明日の朝に突然島に行け、なんてよ。アルジオさん、ビールくださいよ」
ハミルは愚痴を言いながら、アルジオに手を伸ばす。
それを見てアルジオは苦笑すると、その手に水の入ったコップを渡した。
「ダメですよ。仕事前にビールは」
現在この店の店長はアルジオになっている。
しかしアルジオは自分が店長だとは言わない。
彼は本当の店長が戻ってくるまでの代わりだ、といつも主張するのだ。
シンクがいなくなってから、この店で働く人間は増えた。
皮肉なことだ。
「島ってどこですか? もしかしてヴェスマリン諸島ですか?」
「そんなリゾート地じゃないですよ。ラナンキュラスって島です。地図には載ってるんですけど、どんな場所かは全然知らないんですよ」
「ラナンキュラスですか!?」
アルジオの目が嬉しそうに光った。
「どうかしたんですか?」
「そこはクリムゾン・スターの二号店があるんです。マリもそこで働いていて、私も様子を見に行きたいんですが手放せなくて。よかったら立ち寄ってみてください」
初めて行く島に行ってまで、クリムゾン・スターの食べなれた飯を食べに行くのはどうだろう。
ミストの話を聞く限り、ラナンキュラスはスラム街に近いそうだ。
そんな場所に二号店を置こうと決めたのは誰なのだろう。
とりあえずよさそうな店がなかったら食べに行こう、とハミルは思った。
「久しぶりー!」
店の扉が開いて、チェルシーが入ってきた。
彼女に会うのはエルクロス学園を卒業して以来だ。
そのまま学園の教官になったと聞いたが、明るい雰囲気は今でも健在のようだ。
「あれ、ハミル老けた?」
「老けたってなんだよ」
「さては、お酒ばっかり飲んでるんでしょ?」
ハミルは水を口に含む。
図星だったが、認めたくなかった。
「なんかさ、今でも信じられないんだよね」
「何が?」
チェルシーはハミルの隣の席に座った。
自分から誘ってきたのに、約束時間から五分遅れてきたことを全く気にしていないようだ。
「祓魔師が廃止されたこと。魔力権も使えなくなっちゃったし……あたしも学校で悪魔について教えてるんだけど、大変だよ」
確かに悪魔がいなくなったことに関しては、ハミルもほとんど実感がない。
悪魔が出没しないので夜に外出する人間は増えたらしいが、今でも夜は周囲を警戒してしまう。
『宝石』の消滅により、美術館は事実上必要なくなった。
そこで美術館長や諸国の代表が一年程話し合った結果、祓魔師は廃止、美術館は取り壊しという結末を迎えることになった。
職を失った祓魔師たちは、王族や政治家たちの護衛、警察などの職についた。
しかしジェノマニア美術館だけは悪魔の短い歴史を知る施設となった。
そしてシェイムが現在の館長を務めている。
「教官はほとんど悪魔だったわけだし、今のエルクロスにいる教官は他の学校から来た人なんだよね。だから全然わかってないっていうか、あたしも答えにくい課題を生徒に出したりして……今日はどうしても知ってる人に意見を聞きたかったんだ」
「なんだよ、その課題って」
「『ラスト・ギャンビット』と、その著者モルディオ=アスカをどう思うか」
嫌な課題だ、と聞くだけで思えた。
ハミルが学園にいた頃は『ラスト・ギャンビット』については話してはいけない、という暗黙の了解があった。
だが、今はもう学園に元候補生はいない。
エルクロス学園は、ジェノマニア王国の名門高校でしかなくなった。
「それで昨日提出してくれた何人かの課題を見たんだけど……やっぱりモルディオを悪く思う子が多いみたい。セビがモルディオに利用されていたって書く子も結構いた。小学校や中学校で、何も知らない先生から偏見を教えられてるのかな」
「そりゃそうだろ。あの報道だけ見たら、誰だってモルディオがゲス野郎だって思うさ。おれだって、シュヴァルツ拘束の時はとんでもねえ野郎だって思った。実際あいつは、人間をいたぶって笑う奴だったし、良い奴とは到底言えねえ。……でもモルディオがいなかったら、今頃人間は全滅して、サキュバスの国ができていたかもしれないんだよな」
ハミルは大きくため息をついた。
本当に嫌な課題を出す教官もいるものだ。
「さっきね、ある生徒に面接した時に質問されたんだ。モルディオは何か良いことをしたのかって。あたし、答えられなかったんだよね。ハミルだったら何て答える?」
「あいつは自分で正しいと思ったことをしただけだ。それが正しいと思ったから、セヴィスはあいつに協力した。それに嘘を加えたのが『ラスト・ギャンビット』だ。だから、それが良いことか悪いことかなんて、おれには分からねえよ。みんなが正しいと思うことは違うんだし」
「そうだよね。ごめんね、こんなことで呼び出したりして」
チェルシーは何も頼まずに、水を飲んでいる。
「セビって、今何してるのかな。ハミルも知らないんでしょ?」
「もっと小さい声で言ってくれよ。世間じゃあいつは死んだことすら明らかになってねえんだからよ」
怪盗フレグランスの正体も、と言いかけて口を閉じる。
今現在、怪盗フレグランスの正体を知っているのはハミルとローズ、ミルフィだけだ。
「おれだって分からねえんだ。モルディオの親父さんが内緒で治療してくれたこと以外は」
***
あの日は何も考えず、がらんどうになっていた美術館に、重傷になった彼を担いで連れて行った。
とにかく医務室に行こうとした時、祓魔師ではない男に呼び止められたのだ。
「全て、手紙に書いてあった通りだ……」
男は眼鏡をかけて、手で彼をベンチに寝かせるよう促した。
よく分からないまま従うと、男は手首に触れた。
「まだ生きているな。私が彼の治療を引き受けよう」
「あの、あなたは?」
ハミルがたずねると、男は立ち上がって眼鏡を外した。
「申し遅れた。私はアスカ総合病院の院長、フルヴィオ=アスカという者だ。バカ息子が世話になったな」
「バカ息子って……」
「バカ息子が手紙を送ってきたのだ。この時間にここに来て、大切な友人の治療を引き受けてほしいと」
緑色の瞳と、どこかあふれ出る知的な雰囲気。
ハミルはこの男がモルディオの父親だと理解した。
「本当にバカだ。姉弟揃って、麻薬夫妻に翻弄され続けたバカだ」
モルディオの姉の話はグロウのノートに書いてあった。
麻薬夫妻が作った麻薬に溺れ、金のためだけに弟をグロウに売ったという。
姉はモルディオの性格が歪んでしまった最大の要因だ。
だが弟もバカだと言うこの父親の言い草はどうも気にくわない。
「自分が死ぬことでしか償えない罪なら、最初から犯さなければいいものを」
「そんな言い方、ひどいですよ! あいつがいなかったら……」
「そうだ。あいつは全て分かっていた。自分が死ぬことで、勝利する未来をな。だから私に手紙を送ってきたのだろう」
フルヴィオは冷静だった。
泣くような素振りを見せつつも、決して涙を見せなかった。
「彼はフリージアに連れて行って治療する」
「えっでも、セヴィスは死んだことになってるし、このまま国外に出たら捕まるんじゃ」
「船を借りてきた。私個人の所有物ならジェノマニアの検閲を受けることもない」
「どうして……そこまでしてくれるんですか?」
「麻薬夫妻が憎いのに、か?」
「……はい」
「確かに私は麻薬夫妻を憎んでいた。そして彼は紛れもなくあの麻薬夫妻の息子だ。だが、彼と麻薬夫妻は別。彼は無実だ。それにあのバカ息子を信じて、この世界に生きる全ての人間のために命を懸けて戦ってくれた、大切な友達なんだろう。その彼を、どうして見捨てることができるんだ?」
***
「あいつ……一言ぐらい話してくれたっていいだろ」
チェルシーの教え子たちの話を聞きながら、ハミルの脳裏は五年前のことばかり過ぎっていた。




