79 最後の香水
目を開けると、ハミルの姿はなく、一人せわしなく動くミストの姿だけがあった。
ミルフィが身体を起こすと、ミストは鉄格子の鍵を取った。
「成功したか!」
「はい……」
本当は、もっと明るい声で返事したかった。
それなのに、右目から零れてきた涙が止まらない。
ミストは鍵の隣に置いてあったジュエルバレットの瓶を取り、鍵を開ける。
その後手錠の鍵穴に鍵を刺して開けようとするが、焦っているのか中々開かない。
針金一つで手際よく開錠していたセヴィスと比べると、ミストが怪盗フレグランスに勝てない理由がよく分かる。
「開いた!」
手錠が外れるとすぐに、ミストがジュエルバレットを差し出してきた。
蓋を開けると不思議な香りが漂う。
躊躇せず、ミルフィはジュエルバレットを飲み干した。
聞いていた通り吐き気が襲ってきたが、乗っ取られる苦しみに比べれば、大したことはない。
それよりアフター・ヘヴンがなくなることへの開放感が圧倒的に上回っている。
それでもしばらくは動けそうにない。
「ローズ! 国内放送のチャイムを二回鳴らせ! ジュエルバレットは飲んだ!」
ミストは携帯電話に向かって叫んだ。
***
「アフター・ヘヴンが消えたわ!」
電話を切ったローズは、喜びの声をあげた。
しかし、部屋は静かだ。
指令室の机の上には、いくつもの汗の水滴が落ちている。
「ベルク!」
ローズは大声でモルディオに呼びかける。
しばらく戦っていないのに、肩で息をしている。
彼が何をしたのかは考えるまでもなかった。
「あなた、また魔力権を使ったのね! 無理しないでって言ったでしょう!」
「……ちょっとだけだよ」
モルディオは傷の痛みに顔をしかめながら、机に置いてあった細剣を手に取った。
細剣の刃こぼれは目に余る程で、先端も少し曲がっている。
「ローズ、君がチャイムを鳴らして。あと、さっき僕が言った指示を他の無線に送ってくれない」
「どういうこと?」
「一分以内に、この指令室が破られるから、僕が食い止めるよ。君さ、僕の代わりなんでしょ? わざわざここに来たんだから、それぐらいできるよね」
先程の表情が嘘のように、モルディオは平然と扉まで歩いていく。
それに呼応するように、扉が壊れた。
入ってきた悪魔は、剣の一撃で刹那の間に貫かれた。
「君の言った通りだ。サキュバスって、ほんとに性格の悪い悪魔だよ。それだけ性格が悪くないと、僕は殺せないのかな」
扉の向こうで、レイクが倒れている。
レイクが力尽きたことによって、ここは破られたのかとローズは思った。
だがモルディオはそのレイクの腕に剣を刺した。
「ぐあっ!」
思わず出てしまった声を塞ごうと、レイクの腕が動く。
その腕も剣が刺さっていて上がらない。
「やっぱり生きてるじゃん。死んだふりして生き延びようなんて、大した度胸だね。僕にはできないよ」
返事はない。
指一本動く気配もなくなった。
「あーあ、壊れちゃった。起こしてあげるつもりだったのに、僕がとどめを刺してしまったみたいだね。まあこれがいてもいなくても、現実は変わらなかったと思うけど」
ベルクの昔の癖がここまで露骨に出るのも、めったにないことだ。
こんな事態でなければ、彼の言動と行動に注意するところだ。
「ここまで僕を痛みつけたんだ。サキュバス、君の子供たちが、どうなっても知らないよ。僕さ、……を虐めるの、大好きなんだよね。死ぬまでいたぶってあげる」
ローズは一度目を閉じ、気を取り直す。
今、自分は一番重要なことを任せられているのだから。
***
止まった電車と、誰もいないホームが見える。
足と脇腹から流れ出す血は止まることを知らない。
河川敷から赤色の点を垂らしながら、ようやく駅に辿り着いた。
チェルシーはまだここに来ていないようだ。
まずローズが司令室に着いたのかさえ分からない。
とりあえずここに留まって、攻撃を続けるしかない。
「さっきまでとまた動きが変わったわねぇ」
些細な攻撃の変化は、すぐに感付かれる。
彼女の居場所は曝してしまったが、今ここにチェルシーが向かってきていることにはさすがに気づいていないだろう。
それより、サキュバスが気づくまでの時間を与えないことが大前提だと、何度も自分に言い聞かせる。
「ダイヤモンドのナイフは嘘じゃなかった……またわたしはフレグランスに騙されたわけねぇ。でもこれ以上の隠し玉はないでしょう? きみの傷もかなりの深手、もう鬼ごっこもおしまいにしましょう? きみはわたしに取り返しのつかない傷を負わせたけど、いい暇つぶしになってくれたわ。わたし、とっても楽しかったわよぅ?」
「……どいつもこいつも、俺の顔だけ見て、すぐ勝ったって思い込むんだな。これから自分が負けることも知らずに」
セヴィスは四本の赤いナイフを投げる。
アフター・ヘヴン消滅の意図に気づいているサキュバスは、身を翻してナイフをかわした。
だが治癒の魔力権があるからか、本気でかわしていない。
一本は確実にサキュバスの手に触れていた。
それが透けたということは、まだ魔力権が消滅していないのだろう。
「きみのはったりは聞き飽きたわ」
戻ってきた四本を、もう一度投げる。
「また黒いナイフ?」
サキュバスが痺れを切らしたのか、光線が飛んできた。
それは狙い通りだった。
「えっ?」
ナイフの先端で、ガラスが割れる音がした。セヴィスが投げたのは黒いナイフではなく、赤のナイフが刺さった黒い瓶だった。
「……なにこれ」
怪盗フレグランスが持つ、最後の香水だった。
香水は悪魔にも通用する。
サキュバスが鼻を右腕で覆う。
その隙に、黒いナイフを投げつける。
サキュバスは下降したが間に合わず、顔を覆う右腕に刺さった。
「ちょっと、まだ隠し玉を持ってるのぅ」
空中にいるサキュバスがナイフを抜く前に、ワイヤーを収縮させる。
そのまま振りかぶろうとすると、ナイフを抜いたサキュバスの右手から光線が放たれる。
鎌を握る右腕に光線が刺さり、攻撃が鈍った。
サキュバスがその腕を掴み、傷口付近を長い爪で圧迫した。
「っ!」
「ねえ、もう一回キスする?」




