15 彼の煩悶
「僕が呼んだんだ。僕一人じゃ無傷で終わらせるのは無理だったから。それじゃ、後は君に任せるよ」
と答えると、モルディオは足早に去って行った。
ミルフィは呆然としていた。
今自分が寝ている場所が、自分のベッドであることをやっと理解したばかりだった。
「要はそれだけ悪魔が強かったってことだ。お前を乗っ取った悪魔は、元々S級だったらしい」
そう言って、セヴィスはミルフィの傍らにタオルを置いた。
そのままミルフィの頭上、と言うよりベッドの隅に腰掛ける。
彼の表情は顔を上げないと見えない位置にあった。
「また、迷惑かけたんだね」
沈黙の中、襲ってくるのは後悔の念ばかりだ。
あの時――自分に弱さを見せた彼への愛しさと、乗っ取られる恐怖の両方に苛まれた。
それに耐えられなくなった自分は、彼に深いキスをした。
彼は抵抗せずに、受け入れてくれた。
それだけで、勝手に彼に自分の想いが伝わったと思い込んでいた。
彼が抵抗しなかったのは、きっと自分を受け入れたからではない。
所持者が、異性を虜にするようにできているからだ。
自分はサキュバスの娘でありながら、S級祓魔師の身体を支配してしまっていた。
彼には謝っても謝りきれない程の迷惑をかけた。
「やっぱり、あたし死んだほうがよかったのかな」
「誰もそんなこと言ってないだろ。モルディオに何か言われたのか?」
図星なのかもしれない。
あの実験の話が、正気を保てなくさせたと言っても過言ではない。
だが、所持者に関する事実はいずれ知らないといけない。
「条件さえ守れば、トーナメントに来てもいいって。でも、駄目だよ。また迷惑かけるし」
実験の話は口止めされている。
こう言うしかなかった。
「目立たないって約束してくれるなら、別に来てもいい」
「目立たないなんて、無理だよ」
「シンクも来るから大丈夫だ」
「……」
「お前、俺に何を隠してるんだ?」
上を見上げると、目が合った。
「何も、隠してない」
と言うと、刺さる視線が鋭くなった。
もう嘘だと気づいただろう。
だが、ミルフィも気づいている。
セヴィスもまた重要な何かを隠していると。
「そうか、誰かが止めないと操られたままなんて、アフター・ヘヴンってのも面倒だな。最初、死んだ奴と話せるって聞いた時は便利だと思ったんだけどな」
セヴィスが嘘を一切咎めなかったことに、ミルフィは驚いた。
湧き上がる自責と同時に、涙が浮かんできた。
「俺の両親は、悪魔じゃないけどな」
彼が流れ落ちる涙に気づいたのか、ミルフィの視界がタオルの白で覆いつくされた。
ミルフィは自分の右手でタオルを押しつけて涙を拭いた。
「あたしも、お父さんと話したかった」
母親はサキュバスだ。
どうしてサキュバスのいう存在があるのかは知りたいが、話したいとは思わない。
「俺は、今自分が何をすればいいのか分からない」
彼は唐突に、自身の内心を口にした。
「グロウが何で悪魔を全滅させようとしてるのか分からない。大体サキュバスを倒すことに何の意味があるんだ」
きっと他の誰にも言えないことを、彼は言っている気がする。
それが、純粋に嬉しかった。
「分からないなら、普通に過ごせばいいよ」
「……普通?」
「セビはS級だけど、17歳の男の子でもあるんだよ。普通の17歳の男の子は、自分が何をすればいいのか、とかそんなことで悩むのかな。少なくとも店に来る同じくらいの男の子は、遊ぶこととか勉強に打ち込んでる感じがするよ。
いつも思うんだけど、セビは深く考えすぎだと思う。どうしていつも自分が何かを為さないといけないって思ってるの? S級だから?」
偉そうに言い過ぎた、とミルフィは自分で思った。
それでも、このまま迷い続けるのは決して良い方向に転ばないだろう。
そんな予感がする。
「俺にとっては、悪魔を殺すことが普通なんだ。それなら、お前の言う、普通に過ごすって何なんだ。何の為に、普通に過ごすんだ?」
「自分が何の為に生きてるのかなんて、知ってる人間は一人もいないよ。だから生きたことを後悔しないような生き方を選ぶんでしょ? セビはあたしみたいに変な能力持ってるわけじゃないし、みんなと同じように、自分の後悔しない未来を切り開ける。それが普通に過ごすことじゃないかな」
「複雑だな」
「要は、今は深く考えなくていいってこと」
セヴィスは黙り込んだ。
変に遠まわしに言ったせいで、余計迷わせてしまったかもしれない。
「じゃあ、お前も普通に過ごせ」
「え?」
「二度と死ぬなんて考えるな。トーナメントにも来い。俺より先に死んだら……許さないからな」
「うん、分かったよ」
そう言ってミルフィはもう一度上を見る。
髪が邪魔で、彼がどんな表情をしているのか見えなかった。
彼の相談に乗れた喜びと同時に、自分の悩みも聞いて、と思ってしまう。
だが、それは言ってはいけない。
「そういえば、セビは帰らなくていいの?」
ふと浮かんだ質問を投げかけると、セヴィスは小さくため息をついた。
「シンクはとっくに寝てるし、モルディオも俺を残して帰ったんだ」
「それって……」
「……俺にお前が寝るまでいろってことだろ」
そんなことを言われたら、寝たくないと思う自分がいる。
彼はまた自分が乗っ取られるのを防ぐためにいるのだ。
甘えてはいけない。
「今、何時?」
特に意味もなく時間を尋ねると、セヴィスは壁にかかった時計を見上げ、
「一時半」
と答えた。
モルディオに呼び出された時間を考えると、自分は四時間以上も意識を失っていたことになる。
四時間も操られていたと思うと、気が遠くなってきた。
「だからモルディオも帰ったんだろ。俺は授業中寝てるから眠くないけどな」
確かに、普通の候補生が出歩く時間ではない。
モルディオはA級だが、帰ったことは決して不自然ではない。
「じゃあ、二時までに寝るから」
ミルフィは上体を起こす。
彼にはまだここにいてほしい。
彼を捕まえるように、腕に抱きつく。
言っていることと反対のことをしているのは、気に留めていられなかった。
「おまえ……」
彼はこういう時だけ、年下らしい顔をする。
そんな彼の表情が気に入ってしまった。
「二時まで、ここにいて」
「……」
彼はしばらく考え込んだ後、慣れない手つきで肩を抱いてくれた。
「俺はお前が寝るまでいるって、言っただろ」
嬉しくなって、彼の首に腕を巻きつける。
背中に温かい腕が回され、優しく抱擁されているのを感じた。
時間の許す限り、一緒にいたい。
ただそれだけ、考えていた。
彼の腕の中は安心感を与えてくれる。
それなのに早い鼓動を感じる。
彼が緊張しているのだと知ると、さらに愛しくなってくる。
もう彼に近づいてはいけないと思っていても、気持ちが抑えられない。
もし所持者じゃなかったら、またあの柔らかい唇にキスをしたかった。
彼の唇に触れたいという願望を抑制する為に、彼に寄り添うなんて矛盾している。
キスさえしなければいい。
そう考えてまた甘えて、目を合わせないように彼の胸にしがみついている。
サキュバスの子供には、何もかも禁忌なのに。
結局、あたしは寝た振りをして彼を見送った。
二時を過ぎても、三時を過ぎても寝られなかった。
あたしは、彼よりも依存してしまったらしい。