行く夏
「すぐに追いかける。」
いつも通り、ぶっきらぼうな物言い。
その言葉がひどく私を安堵させる。
「…こんな時に笑うな。」
どうやら私は笑っていたらしい。
二人の間に初夏の風が吹き抜ける。
初めて会ったのもこの季節だった。
「…ありがとうございました。」
ふと口から言葉が漏れた。
その一言にヴィルが怪訝な表情をする。
「礼を言われるようなことはしていない…むしろ…。」
そう言い淀み、いつも通り仏頂面で私を見下ろした。
私もいつも通りヴィルを見上げる。
「お待ちしてますね…ゆっくり来てください。」
――私はもうすぐ死ぬ。
彼女――ディアは、眠るように息を引き取った。
「旦那様…。」
背後でハンスが指示を待っている。
感情を殺すのは得意だ。
「…埋葬の準備を…海が一望できる、あそこの丘が良い。……あの子に知られないよう取り計らえ。」
「かしこまりました。」
そう言うと、ハンスは静かに動き出した。
一人――二人残された部屋でディアを見る。
ミルクティーブラウンの髪は病魔に侵されてなお、美しさを保っていた。
ディアの美しいエメラルドの瞳は永遠に何も映さない。
視線は自然とディアがよく使っていた小さい机に向かった。
読み書きを教えてからは、よくここで勉強をしていた。
思い出を振り返るように机の表面を撫でる。
そこで机の引き出しに目が留まった。
静かに開けて、中を見る。
「はは…。」
思いつきであげた栞。
初めて贈った花で作った押し花。
俺の瞳と同じ色のブルーサファイアを使ったネックレス。
ディアが大切にしていた物が入っていた。
そして――。
「…手紙?」
歪な文字でヴィルヘルム――俺の名前が書いてある。
「ははは、綴りが間違っている。」
ゆっくりと丁寧に便箋を取り出し開いた。
◆◇◆
―最愛のヴィルへ
―初めて会った初夏の日。
―私はあなたが怖くてたまりませんでした。
「ははは。そうだろうな…。」
―平民の私からしたらお貴族様は恐怖の対象。
―それもシュナイザー侯爵家といえば、関わってはいけないと近所のおばちゃんたちに言われてました。
「…その通りだ。」
―ギャンブルの借金で父から売られるようにシュナイザー家に足を踏み入れた私は、明日には…いえ、すぐにでも売られると思い震える足でハンスさんについて行きました。
「実際、父親に売られたんだがな…。」
―そして、その先で出会ったあなたを一目で怖い人だと決めつけました。
―と、同時に美しい人だとも思いました。
―その後すぐに朝顔の別館を宛てがわれ、平民の私にとって立派な家を使わせてくれる良い人だと思いました。
「単純だな…。騙されるタイプだ。」
―ハンスさんには「逃げないこと」、そして「人形のようにヴィルに使えるように」と言われました。
―正直、意味がわかりませんでした。
―私は人形じゃない。
「…。」
―その日にヴィルに手をつけられて、やっぱり怖い人だと再認識しました。
―痛くて怖くて、もっと優しくしてほしかったです。
「…それは俺も後悔している。」
―その日以降、度々私のところへ来るヴィルに、いつしか“自分は売られない”と自然と思うようになりました。
―そんな折、あの事件が起きました。
「…。」
手紙を握る手に自然と力が入る。
―ヴィルの囲っている女性の一人が朝顔の別館を訪れました。
―彼女はとても綺麗で、とても刺々しく痛々しかった。
―ヴィルの気持ちが私に移ったんだと怒り泣き、最終的に私は彼女の刃に倒れました。
―怖かったですが、私は彼女を恨んでいません。
―彼女は、ヴィルに飽きられた私の姿そのものです。
「俺はあの女を許すことはできない。」
―目を覚ました時、お医者様の人数に驚きました。
―ヴィルは時々、とても過保護になりますね。
「…お前は知らないだろうが、お前が死んだらあの医者たちは全員殺していた。」
―そこで、嬉しい話と悲しい話をされました。
―私がヴィルの子を妊娠していること。
―私が心臓を悪くしていて、出産したら死ぬ可能性があること。
―そう話してくれたヴィルの表情に、いつもの余裕がなくなっていることに気がつきました。
―もしかしたら、ヴィルは私を少しは気に留めてくれてるのかもしれない。
―そう思ったら嬉しかったです。
「少しは気に留める…?阿保だな…お前がいなくなったらつまらないだろう…。」
―だから産みたいと強く願いました。
―心臓病で長く生きることすら難しいのなら、せめて私が生きてヴィルと一緒にいた証を残したかった。
「…本当は産んでほしくなかった。少しでも俺との時間を選んで欲しかった。」
―生まれた子…ノーランは、とても可愛いかった。
―ヴィルが後継者として育てると言ってくれて嬉しかった。
―だからこそ、私は母として名乗らず遠くから見ているだけにしました。
―平民の母親なんてノーランにとって良くないです。
「少しはあの子を信じてやれ。」
―ヴィルが別館から見える通りを選んでノーランを抱っこして歩く姿を見るたびに、嬉しい気持ちと寂しい気持ちで涙が溢れました。
―ヴィルの優しさに私は何度も救われました。
「……気のせいだ。」
―今思えば、私は一目でヴィルに惹かれていたんだと思います。
―それがわかったのは、あの日刃に倒れた時に見たヴィルの表情。
―初めて母以外が私を心配してくれて嬉しかった。
「俺も…初めて権力や金以外で俺を見るお前の存在がありがたかった。」
―産後は5年しか生きられないと言われてたけど、結局7年も頑張った。
―朝起きるたびに、心配そうに顔を覗くヴィルがすごく好きだった。
―毎晩、大事そうに私を抱えるヴィルが大好きだった。
―ヴィルを独り占めにしたい。
―愛してる。
「――ッ。」
―本当は死にたくなんかない。
―ノーランの母としてヴィルの隣に、皺々になるまで一緒にいたかった。
―私が死んだ後、他の女性をこの別邸に連れてきたら嫌だ。
―死んだら、それすらも嫌だと言えなくなる。
―こんなに醜い私の最後のお願いです。
―ノーランが成人するのを私の代わりに見守ってください。
―そして、私のことは忘れないで。
「お前は本当に阿保だ。」
膝から崩れ落ち、便箋を机の上に置いた。
涙が溢れて止まらない。
「お前を忘れることなんて、できるわけないだろう。」
「追いかけるって言ったのを否定しておいて、なんて女だ。」
夏風が便箋を揺らし、頬を撫でる。
まるでディアがまだいるように感じた。
「お前の願い、全部叶えてやる。」
◆◇◆
「ノーラン様」
婚約者が廊下を駆けて来る。
「こら、はしたないから走るのはやめなさい。」
「だって、早く会いたかったんだもの。」
満面の笑顔でそう言われては許すしかない。
「ハンス、テラスにお茶の準備を。」
「承知いたしました。」
足早に去るハンスを見送り、婚約者をエスコートしながらゆっくりと廊下を歩く。
この廊下は父が良く抱っこをして歩いてくれた廊下だ。
「…ん?ノーラン様、あの紫色の屋根…あの建物はなんですか?」
婚約者の視線を追った。
「ああ、朝顔の別館だよ。」
「朝顔の別館?誰かお住まいに?」
首を傾げ見上げる婚約者を、微笑みながら見つめる。
「誰も住んでないよ。」
父もこんな気持ちだったのだろうか。
「父と母の墓なんだ。」




