第一話 井戸から始まる異世界生活(たぶん)
冷たい。意識が戻った瞬間、真っ先にそれを感じた。背中に伝わる硬い感触。湿った空気。土と水の混ざった匂い。喉の奥がひりつく。
「……ここ、どこだ?」
声が反響した。やけに遠く、丸みを帯びて返ってくる。重たい頭を動かし、ゆっくりと目を開ける。視界は暗いが、完全な闇ではない。真上に、円形に切り取られた小さな空が見えた。光が遠く、ほんのわずかに差し込んでいる。
(……井戸、だよな)
嫌な予感が胸をかすめる。上体を起こそうとして、違和感に気づいた。身体が、やけに軽い。視線を落とす。
「……は?」
服がない。正確には、下着一枚しか身につけていなかった。
「ちょっと待て……」
必死に記憶をたどる。夜道を歩いていた。突然のライト。耳を裂くクラクション。衝撃。
「……死んだ、よな」
呟きが井戸の底に落ちていく。だとしたら、ここは――。
「異世界転生……?」
勇者、魔法、冒険者――そんな単語が頭をよぎる。だが現実は下着一丁で井戸の底だ。
「スタート地点、そこなんだ……」
乾いた笑いが漏れた、その瞬間。
「おーい、生きてるかー?」
「生きてます! たぶん!」
「たぶんって何だよ!」
上から声が降ってきた。見上げると、井戸の縁から数人の顔が覗き込んでいる。農具を持った、いかにも村人といった面々だ。
「すげえな、まだ元気だぞ」
「若いからだな」
「服はどうした?」
「最初からその格好だったぞ」
「違います!!」
全力で否定したが、完全に流される。
「ロープありませんか!」
「あるけどな」
「今干してる」
「濡れると困る」
「俺のほうが困ってます!!」
叫びは虚しく井戸の中で反響した。
◇◇◇◇◇
どれほど時間が経ったのか分からない。寒さに震え、希望が削れていったころ、人だかりが静かに割れた。
「あの……」
澄んだ声が降ってくる。見上げると、白いローブを着た少女が井戸を覗き込んでいた。淡い銀色の髪が光を受けて揺れている。
「助けますね」
「お願いします!」
即答だった。少女は小さく頷き、指先をこちらに向ける。
「《浮遊》」
次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。
「うわあああ!?」
悲鳴を上げる間もなく、ゆっくりと井戸の外へ引き上げられる。地面に足がついた瞬間、膝が抜け、その場に座り込んだ。
「……生き返った……」
「大丈夫ですか?」
少女はそう言って毛布を差し出してくれた。ありがたく受け取り、震える身体を包む。
「ありがとうございます。本当に……」
改めて彼女を見る。年は同じくらいだろうか。落ち着いた雰囲気で、どこか浮世離れした印象があった。
「あなた、冒険者ですか?」
「いえ、多分違います」
「多分?」
「今日、井戸に落ちる予定はなかったので」
少女は一瞬きょとんとした後、くすっと笑った。
「変な人ですね」
「よく言われます」
その笑顔を見て、なぜか思った。この出会いが、俺の異世界人生の始まりなのだと。勇者でも英雄でもない。下着一丁で井戸に落ちた男の異世界転生は、こうして最低な形で幕を開けた。寒くて恥ずかしくて、死ぬほど情けない。でも、なぜか胸の奥が少しだけ高鳴っていた。これから先、どんな冒険が待っているのか。魔法使いの少女と、奇妙な村人たちと、そして自分自身と。まったく先が見えない異世界が、今ここに広がっている。
だがひとつだけ確かなのは――俺は勇者じゃない。勇者なら、井戸には落ちない。多分。




