支配と覚醒
婚約から一年。
私は二十歳になっていた。
ある夜、エドガーがさりげなく切り出した。
「そういえば、君の実家のことなんだけどね。僕の家から、少し援助をさせてもらっているだろう?」
「……はい」
私の実家は貧しい騎士家だ。
婚約を機に伯爵家から援助を受けるようになって、ようやく家族は安心して暮らせるようになった。
「でもね、エレノア。もし君が僕の言うことを聞いてくれないなら……援助を続けるのは難しいかもしれない」
心臓が冷たくなった。
「僕たちの関係が良好なら、援助も続く。そうじゃないなら、分かるよね?」
これは、脅しではないのだろうか。
「君を守りたいんだ。君の家族も含めてね」
エドガーは満足げに頷いた。
自分がどれほど優しいことを言っているか、疑っていない顔だった。
*
数週間後、実家から手紙が届いた。
『伯爵家からの援助が、先月から止まっています。
何か心当たりはありませんか?』
母の文字が、震えているように見えた。
その日の仕事が終わるのを待って、私は伯爵邸を訪ねた。
「ああ、その件?」
エドガーは首を傾げた。
「僕は何も言ってないよ。父上の判断じゃないかな。君が最近、僕に冷たいからかもね」
笑顔で、残酷なことを言う。
「でも大丈夫だよ、エレノア。君がちゃんと僕の言うことを聞いてくれるなら、僕から父上に口利きしてあげる」
何も言えなかった。
もう言い返す気力さえ、湧いてこなかった。
*
さらに追い打ちをかけるように、仕事にも支障が出始めた。
「あー、その件は……ちょっと今は対応できないんです」
「え、でも前は……」
「すみません、他の方に頼んでもらえますか」
以前なら快く引き受けてもらえていた小さな頼み事が、ことごとく断られるようになった。
廊下を歩いていた時、たまたま聞いてしまった。
「伯爵家と取引してる商会の人から言われてさ。あの侍女にはあんまり関わるなって」
頭が真っ白になった。
家族、仕事、人間関係。気づけば、全てを握られていた。
*
ある朝、カタリナ王女に呼び止められた。
「エドガー伯爵令息から、変な申し出があったの」
心臓が跳ねた。
「あなたに休養を取らせた方がいいって。侍女の仕事が負担になっているのではないか、とね」
王女の声は淡々としていた。けれど、その目は鋭い。
「でも私は断ったわ。あなたの仕事ぶりは、私が一番よく知っている。三年間、あなたがどれだけ真摯に働いてきたか」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「ただ、あなたが幸せそうに見えないのが、気がかりなの」
「最近のあなた、笑顔が減ったわ。彼との関係は、本当にうまくいっている?」
息が、詰まった。
「は、はい。もちろんです。エドガー様は、私を愛してくださっています」
滑らかに嘘が出た。
あんなに苦手だと思っていたのに。
「……無理はしないでね、エレノア。あなたは私の大切な侍女なのだから」
大切。その言葉が、乾いた心に染み込んでいく。
エドガーも「大切だ」と言う。でも、同じ言葉なのに、こんなにも違う。
王女様の「大切」には、鎖がついていない。
*
その夜、エドガーと会った時。
「カタリナ王女と話していたそうだな」
「はい。お仕事のことで」
「侍女の仕事、もうやめたらどうだ」
心臓が、冷たくなった。
「僕たちは来年には結婚するんだ。君が王宮で働き続ける必要はないだろう」
「でも、私は……王女様にお仕えするのが……」
「僕より王女が大事なのか?」
声の温度が、すっと下がる。
「君の仕事なんて、他の侍女でもできるだろう。代わりはいくらでもいる」
その言葉が、胸に突き刺さった。
代わりはいくらでもいる。
「……分かりました。考えて、みます」
自分の声が、遠くに聞こえた。
*
翌日、私は王女の私室で一人、窓の外を見つめていた。
『代わりはいくらでもいる』
エドガーの言葉が、頭から離れない。
私の仕事は、誰にでもできる。私は、必要とされていない……?
「……励んでいるな」
声がして、振り返った。
オズワルドが廊下に立っていた。
「少し休んでも構わない。王女殿下は今、執務中だ」
しばらく黙って窓の外を見ていた。
ふと、口をついて出た。
「……私は、これでいいのでしょうか」
「何がだ」
「侍女の仕事を続けることが、です。結婚したら、家政に専念した方がいいのかもしれません。侍女の代わりは、いくらでもいると……言われて」
言葉にすると、余計に胸が痛くなった。
オズワルドは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「家政は、家令でも務まる」
「……はい」
「王女殿下の侍女を、家令ができると?」
「……いいえ」
「ならば、答えは出ている」
私は目を瞬いた。
そうだ。王女様の侍女は、誰でもいいわけじゃない。
王女様のお好み、ご習慣、お体の調子。三年かけて覚えてきたこと。
それは、代わりがきくものじゃない。
「王女殿下は、私を……信頼してくださっています」
口に出してみた。
「三年、この仕事を続けてきました。失敗もあったけれど、それでも、殿下のお役に立てるようになった……と、思います」
言葉にすると、胸の奥で何かがほどけていく感覚があった。
気づけば、涙が滲んでいた。
「私、ちゃんと……頑張ってきたんですね」
「あなたが積み上げてきた時間は、裏切らない」
オズワルドは、ただそれだけ言って、持ち場に戻っていった。
私は、誰かに認めてほしかったんじゃない。
私自身が、私を認めてあげたかったんだ。
エドガーの言葉ばかり聞いていて、自分の声を聞くのを忘れていた。
『代わりはいくらでもいる』。そんなことはない。
私は三年間、ここで頑張ってきた。
それは、誰にも否定できない事実だ。




