第12話 最初の返還
夜が、ゆっくりと街を包み込んでいく。
雲に覆われた空には星ひとつ見えず、風も止んでいた。
返還の場所に選ばれたのは、人気のない河川敷だった。
街の灯りから少し離れ、時間の流れが緩やかな“境界”。
ミナトが「一番、干渉が少ない」と言った場所。
レイは川の前に立ち、深く息を吸った。
「……ここで、いいんだな」
ミナトは静かに頷く。
顔色はまだ良くないが、瞳ははっきりしていた。
「最初に奪った人。
あなたの刻印に、一番深く結びついている時間」
ミナトは、黒くひび割れた砂時計を地面に置いた。
その瞬間、空気がわずかに歪む。
「準備はいい?」
レイは、右手を見つめた。
刻印は、今までになく静かだった。
まるで――覚悟を待っているかのように。
「……始めてくれ」
ミナトは一歩下がる。
「返還は、あなた一人でやらなきゃいけない。
私は補助しかできない」
「分かってる」
レイは砂時計の前に跪いた。
冷たい地面の感触が、妙に現実的だった。
「奪った時間を、呼び戻す」
レイは目を閉じ、意識を刻印に集中させる。
すると――
世界が、ゆっくりと色を失っていった。
あの白い空間が、再び現れる。
無数の砂時計。
だが今回は、ひとつだけが、はっきりと輝いていた。
ひび割れた砂時計。
中に残る砂は、ほんのわずか。
「……君か」
声が、聞こえた。
――また、来たな。
優しい声だった。
怒りも、恨みもない。
「……返しに来た」
レイは、震える声で言った。
――そうか。
――それは、ありがたい。
映像が流れ込む。
夕焼けの台所。
笑う娘。
ケーキのろうそく。
――時間が戻るなら、
――もう一度だけ、あの子の声を聞ける。
レイの喉が詰まる。
「……でも、その代わりに……」
――分かってる。
――お前の時間が、減る。
砂時計が、静かに傾いた。
――それでも、来たんだな。
レイは、はっきりと頷いた。
「……ああ」
黒い砂が、レイの胸へと流れ込む。
それは“奪う”感覚とは、まったく違った。
冷たく、重く、
そして――確かに、命だった。
――ありがとう。
その言葉と同時に、砂時計が砕けた。
現実に戻る。
レイの体が、大きく揺れた。
思わず膝をつく。
「レイ!」
ミナトが駆け寄ろうとするが、
白い光の壁がそれを阻む。
返還が、始まった。
川の水面が逆流するように揺れ、
空間に無数の“時間の糸”が現れる。
その中心で、レイの刻印が黒から――淡い灰色へと変わっていく。
「……っ!」
胸が、焼けるように痛む。
息ができない。
自分の中から、何かが“削ぎ落とされていく”感覚。
――これが、返す痛みか……!
そのとき。
空が、裂けた。
低く、冷たい笑い声。
「……やっぱり、始めたのね」
空間の裂け目から、黒いドレスの少女が降り立つ。
赤い瞳。
イリス・クロウ。
「返すなんて、無駄よ」
彼女の足元で、時間が凍りつく。
「世界は、奪い合うことで均衡を保っている。
返還は“停滞”を壊す行為」
ミナトが叫ぶ。
「それでも!
奪われた時間は、持ち主のものよ!」
イリスは微笑む。
「理想論ね。
だから嫌いじゃないけど」
彼女は、レイを見る。
「でも……その少年は、もう半分“こちら側”」
レイの視界が揺れる。
立っているのが、やっとだった。
「……まだ、終わってない……」
イリスは肩をすくめた。
「ええ。
だから――止める」
彼女が指を鳴らす。
世界が、完全に停止した。
動けるのは、レイだけだった。
いや――
“動かされている”。
レイの中で、無数の声が響く。
――行け。
――今だ。
――止まるな。
――返せ。
レイは、最後の力を振り絞り、
刻印に全てを注ぎ込んだ。
「……返す……!」
黒と灰の砂が、爆発する。
イリスの目が、わずかに見開かれた。
「……っ!?」
光が、世界を満たす。
時間が、再び動き出す。
川の向こうで、
一人の男が、息を吹き返した。
遠くで、子どもの泣き声が聞こえる。
返還は――成功した。
だが。
レイは、その場に倒れ込んだ。
「レイ!!」
ミナトが抱き起こす。
彼の右手の刻印は、
明らかに“薄く”なっていた。
イリスは静かに笑う。
「一つ、返したわね」
そして、楽しそうに告げた。
「――次は、あなた自身が消える番かしら?」
彼女の姿は、闇に溶けて消えた。
ミナトは、震える手でレイを抱きしめる。
「……成功した……でも……」
レイは、かすかに微笑んだ。
「……ちゃんと、返せた……」
それだけ言って、意識を失った。
夜明け前の河川敷で、
新しい“罪”と“希望”が生まれていた。




