第9話 追跡者ナギ
非常階段を駆け下りる足音が、夜の静寂を切り裂いた。
金属製の階段が悲鳴のような音を立てる。
「はぁ……はぁ……」
白鷺ミナトの呼吸が乱れる。
レイは彼女の体を支えながら、必死に下へ向かった。
「ごめん……足、引っ張ってるよね」
「そんなこと言うな!」
レイは歯を食いしばる。
ミナトの体は思っていた以上に軽く、冷たかった。
それが何を意味するのか、分からないふりはもうできない。
背後で、乾いた拍手の音が響いた。
「いやあ、いい逃げっぷりじゃん」
聞き覚えのある、軽い声。
レイの背筋が凍る。
「ナギ……!」
踊り場の手すりに腰掛けるようにして、ナギ=ファロウが立っていた。
いつの間に回り込んだのか、逃げ道を完全に塞いでいる。
「ここ、三秒前に戻した」
ナギは肩をすくめる。
「お前らがここに来る未来、もう見えてたんだよ」
ミナトがレイの前に立つ。
白い刻印が淡く光り始める。
「……どいて、ナギ。
この人は、あなたたちの“実験材料”じゃない」
「実験材料?ひでぇな」
ナギは苦笑した。
だがその目は、冗談を言っている色ではない。
「俺たちは管理してるだけだ。
時間を奪う力は、世界を壊す。
それを野放しにするわけにはいかねぇ」
「あなたたちが選別する世界なんて、歪んでる!」
ミナトの声が震える。
白い砂が、彼女の足元で不規則に揺れた。
ナギは一歩踏み出す。
「感情論だな。
でもさ……お前も分かってるだろ?
“与える力”は長くはもたねぇ」
ミナトの肩が、ぴくりと揺れた。
レイはその瞬間、はっきりと理解した。
ナギは知っている。
ミナトがどれだけの時間を削ってきたのかを。
「やめろ!」
レイが叫ぶ。
刻印が熱を帯び、右手が勝手に前へ出た。
「ミナトに近づくな!」
空気が歪む。
黒い砂が床から噴き上がり、階段を覆い尽くした。
ナギは目を細める。
「……やっぱすげぇな。
無自覚でそこまで引きずり出すか」
次の瞬間。
世界が、ぐにゃりと折れ曲がった。
「っ……!?」
レイの視界が揺れる。
気づけば、三段上の階段に立っていた。
――巻き戻された。
「悪いな。
その程度の発動、何度でもやり直せる」
ナギの声が、少し近い。
だが。
「……それでも」
レイは、もう一度手を握りしめた。
「それでも、奪わせない」
黒い砂が、今度は“逆”に流れた。
砂が床に落ちる前に、空中で止まる。
ナギの目が、見開かれた。
「おい……まさか」
レイの中に、誰かの声が重なる。
知らないはずの記憶。
知らないはずの怒り。
――時間は、喰らうだけじゃない。
――縛ることも、できる。
ナギの体が、ぴたりと止まった。
指先も、瞬きも、完全に固定される。
「……時間拘束?」
ミナトが驚いたように呟く。
レイ自身も信じられなかった。
ただ、ミナトを守りたい一心で、手を伸ばしただけなのに。
数秒後、拘束は解けた。
ナギは大きく息を吐く。
「……はは」
乾いた笑い。
「参った。
まだ未熟だけど……
お前、本当に“特異点”だわ」
ナギは一歩下がり、両手を上げた。
「今日はここまでにしとく。
ミナト、その体じゃ、もう無理すんな」
ミナトが息を呑む。
「……追わないの?」
「追うさ。
でも今は――」
ナギはレイを見る。
「お前が壊れる瞬間を、ちゃんと見たい」
そう言い残し、ナギの姿は夜の闇に溶けた。
静寂が戻る。
ミナトの足から、力が抜けた。
レイは慌てて抱きとめる。
「ミナト!」
彼女は弱く微笑む。
「……すごいね、レイくん。
あなた……もう、“奪う者”の域じゃない」
その言葉が、レイの胸を強く打った。
守るために力を使った。
けれど、その力は確実に――
誰かの時間を飲み込んでいる。
レイはミナトを抱えながら、夜空を見上げた。
「俺は……
この力で、何になっていくんだ……」
答えは、まだなかった。




