その名前
風がその匂いを変えて、秋が顔を出したころ。私は高等部にあがってから初めての体育祭を迎えた。
今までと同じ校庭で、さほど変わらない競技。それなのに、今でも忘れられないほどの思い出になってしまったのは、あなたのせい。
先生に任された実行委員の仕事は慣れたもので、中等部も何度かやっていたことだった。
参加競技決めの総合の時間、あなたは教卓に立つ私の話をなにひとつ聞かずに窓の外をぼーっと眺めて。
「綴理さん?」
「…………あ、はい」
「聞いてました?」
「いえ... 」
「個人競技、まだ選んでないの綴理さんだけですよ?」
「…いや、出ないし…」
「……はい、じゃあこれで──先生、全競技決まりました」
「ちょちょちょ、」
私が話してるんだから、少しぐらい耳を傾けてくれてもいいのに。何にそんな気を取られているのか。嫉妬に似た気持ちを抱えた私は<100m走>と大きく書かれたその下に"綴理 頃"とあなたの名前をフルネームで書いてやった。まわりのクラスメイトは私とあなたの刺々しいやりとりにひやひやしていたけれど。
100mを選んだのは、委員会の先輩があなたの名前を昔よく総体で見かけたと言っていたから。
でも本当は、足の速いあなたの走る姿を見たかった。一緒に体育祭に出たかった。無理やり名前を書いた理由は、ただそれだけ。
「なんなの」
「なにが?」
「100m」
よほど出たくなかったのか、あなたは帰り道、私を乗せて自転車を漕ぎながらぶつくさと文句を並べていた。
本当に嫌だと言われたら、無理に参加はさせないつもりでいたけれど。
「私が選んだ競技、やなの?」
「……」
「綴理さんの走ってるとこ見たいなあ?」
「…わーったよ!出りゃいんでしょ…だからその呼び方やめて」
あなたが断れないのを知っていたから、きっと参加してくれる──そう信じていた。
「こうやって呼ばれるのうれしいのかなーって」
「…ばかじゃないの?」
かしこまった喋り方で話しかけられたことに、教室の後ろで頬を緩ませていたことを私は見逃していなかった。
「ねえ、きょうちゃんって敬語とか好きなの?」
「あーもう、っるさい!!!」
ごまかすようにあなたが立ち漕ぎでスピードをあげる。
照れたその行動がかわいくて、私は怖くもないのにキャッとわざと大きな声をあげた──。
それから放課後はしばらく、私が準備に追われて忙しくなり、あなたもあなたでバイトがあって。あまり二人の時間も取れないまま体育祭当日を迎えた。
それが始まっても一向に姿を見せないあなたに、きっとそろそろ起きて重い足をジタバタさせていることだろうと"きょうちゃんそろそろ起きた?"──そんなチャットを入れてあなたを待っていた。
返事こそなかったけれど、100m開始のアナウンスが校庭に響いて少し経ったころ、あなたは気だるそうに姿を見せた。
「きょうちゃん!おそい!」
「あー、ごめ」
「連絡返さないからこないかと思った」
「あ、忘れてた」
「しかも長い方だし」
「あー、ね?」
100mに参加する人は皆、短いジャージを身につけているのに。あなたときたら、あくびを漏らしながらやる気のかけらもなくて。
「はい、行って!きょうちゃん次だから。一位とったらご褒美あげる」
「いやそんなんでやる気出さないし…」
「綴理さん?」
「…チッ……はぁぁぁもう」
いってらっしゃい。そう言って、舌打ちをしたあなたにゼッケンを被せて背中を押すと、そのため息を勢いにするようにあなたは渋々駆け出していった。
もう同じ回の走者は位置についていたから、そこまで走る分ハンデになって一位は難しいかもと思っていたけれど、ドンッという音とともにレースが幕を開けると、私は息をすることすら忘れてしまいそうになった。
颯のように風を切るあなたが、こんなにもかっこいいと知らなかったから。
その真剣な眼差しに、心を奪われてしまったから。
少しいじわるをして、全員が運動部のグループにあなたの名前を書いた。どうせちゃんと走ってくれないだろうし、とか。もし走ってこの人たちを追い抜いたら、とか──準備中もずっと、あなたを思い浮かべて。
そんな中でもあなたは、すべての風を跳ねのけるように前を行く背中を次々に追い抜いていった。
思わずまわりも見惚れてしまうほどのきれいなフォームで、すらっと伸びた足がテンポよく振り出されていく。
──タンッ タンッ タンッ。
重心を低くして、胸元を前に突き出しながら腕を強く振りかざす姿。整ったその呼吸に、つい自分のそれもつられてしまう。
もしかしたら、本当に一位を取ってくれるかもしれない──私はゴール前に移動してその姿を待った。
コーナーをその枠線の淵ぎりぎりまで攻めたあなたは、白いテープまであと数メートル。直線に入ったラストスパート、まだそんな力が残っていたのかとすかさずギアチェンジを重ねて。残りの背中はあとひとつ、サッカー部のキャプテンのそれ。
──がんばって、きょうちゃん。
そう思ったとき、あなたはいつまでも抜かせないその背中にへこたれた顔を見せて、呼吸に変なアクセントが見え始めた。少しずつ緩やかにペースダウンしていくその車輪。
──もう、肝心なところで…。
だから私は、最後にもう一押し。
小さくなったその火種が風に吹かれてしまわないように。
しゃがみ込み、ありったけの想いを込めて。
あなたにとびきりのエールを投げた。
*********
「………はぁ、はぁ……うっとおしい…」
「ウインク効いた?」
「……ほんっと、めんどくさ…はぁ…走るのも、春も…」
一位を取ったあなたに、本当はすぐにおめでとうと、抱き着いてそう言いたかったけれど。汗に輝いたその顔にそっとタオルを投げて、まだ実行委員の仕事があるから──なんて私は逃げた。
あなたをまともに見ることなんてできやしなかった。
だって、恋を覚えてしまった私には、あなたのその姿があまりにも眩しすぎたから。
*********
「先生、校庭にいるから私がやるね」
「ん」
「…いたい?」
「…別に」
「もう、きょうちゃん訳もしらないのに出てくるから」
「……」
一位を取ったそのすぐあと、腫れた頬を抱えたあなたは私と保健室にいた。
「でも我慢できてえらかったよ、きょうちゃん」
「あの赤髪、次会ったらぜったい殴る」
「だめって言ったでしょ」
「痛っ」
頬を冷やしながら、反対の手で暴れる子犬の額にでこぴんを少々。
「昔から不器用なの」
「春、知り合い?」
「みんなだいたいエスカレーターだから」
「ふーん」
「妬いてる?」
「……て、ない」
取っ組み合いの喧嘩でもしたのか、と。外見からそう思われても仕方はないけれど、その頬の腫れは、ただあなたが私のために一方的に受けたもの。
「でも千早さんって、きょうちゃんにちょっと似てる」
「や、どこが…」
「四条さんのことになると熱くなっちゃうところ?」
「いやだから、どこが──」
「だってきょうちゃん、いつもだったらあんなとこ入ってこないでしょ?」
「……」
「相手が私じゃなくても、つっかかったの?」
なにも言い返せないあなたは口をすぼめて、腰かけていたベッドにそのまま背中から倒れ込んだ。
千早 瑞月──あなたがしばらく赤髪と呼んでいた彼女は、頬を腫れさせた張本人。
100mが終わったあとのハードル走で、ひとりの生徒が転倒した。それはもう、豪快に。私は駆け寄り、その子猫のような生徒を保健室へ連れて行こうと、怪我をした足の具合を聞いていた──そこにやってきたのが、瑞月。
「うちで診るからいい」
「でも一回保健室に…」
強引に子猫を連れて行こうとする瑞月と、けが人の症状を記録につけなければいけない私は、ほんの少し言い合いになってしまった。
「春」
「あ、きょうちゃん…」
そこに現れたのが、久しぶりの全力疾走に疲れ果てたあなただった。
「四条さんが怪我しちゃったから保健室──と思ったんだけど」
「あんたしつこい、深白は連れて帰るって」
四条 深白──それが子猫の名前。豪快にすっころんだ生徒で、瑞月の幼馴染。
「瑞月…先生に言った方が…」
「なんかもう、邪魔だからそこどいて」
怯えた子猫の鳴き声も聞かず、瑞月は突っぱねるように私の肩をトンッと押した。強い力ではなかったけれど、不意に押されたことで私はバランスを崩し尻もちをついた。なんてことなかったのに、横で見ていたあなたはそれに吠えてしまった。
「謝りなよ」
「は?」
「春に謝りなよ」
そう言って、今にも殴りかかりそうな勢いで。別にたいしたことなかったのに、すっかり頭に血をのぼらせて。
「──帰るよ、深白」
「いや、ちょっと待、」
ドッ──という鈍い音とともに、校庭のコンクリートに叩きつけられたのはあなた──手を出したのは瑞月の方だった。
「痛っ……ちょ、ほんと、」
「きょうちゃん、だめ」
瑞月はなにごともなかったかのように、あたふたした深白をおぶってそのまま校庭から出て行ってしまった。
瑞月の家は開業医。
深白の家は花道の家元。
あの学び舎の中でも、とびぬけて家柄の良い二人を知らない生徒はたぶんあなただけ。私も初等部からその存在は知っていたし、怪我をした深白に声をかけた時点で瑞月がすっとんでくることはわかっていた。幼馴染の二人は、離れているところを見たことがないほど、当時からいつもぴったりくっついていたから。
小動物のような深白を引っ張る鬼のような瑞月──その姿を目にしたことがない生徒はいなかっただろう。深白になにかあるたびに、どこからか匂いを嗅ぎつけて瑞月は飛んでくる。まるでスーパーマンみたいに。だからこのときも来ることはわかっていたし、頑なに保健室に連れて行くのを嫌がったのがなぜなのか、私は気付いていた。
──私だって、きょうちゃんの頬を先生には触らせたくない。
きっと、そういうこと。
二人のことも、瑞月が嫌がった理由もわからないのに突っ走って。
私のために怒って、私のために殴られて。
私のために熱くなったあなたがどうしようもなく愛おしくて、守られているということがたまらなくうれしかった──本当はああいうの、面倒で嫌いなくせに。
相手が私じゃなくてもそうしたのかと聞いた私にむくれて、ベッドに倒れ込んだあなたは都合の悪い表情を隠すように両腕で顔を覆ってしまった。
「かっこよかったよ、きょうちゃん。一位ありがとう」
だから私は、早くあげたかったその言葉を口に出した。
あなたはへの字にしていた口元を解いて、ぽかんとした顔で私を見つめていた。
「きょうちゃん?」
「………あ、ごめん」
「なに?見惚れちゃった?」
ぼーっとしたあなたをそうからかった。どうせ少し言葉に詰まったあと、別に──そう言うと思っていたから。
「………最近」
「うん?」
「あんま会えてなかったから…」
瑞月にみせていた猛犬のような姿はそこにはなく、あるのは捨てられた子犬のようなあなたの瞳。弱々しいその目が、私に"寂しかった"と、そう伝えていて。胸が奥がヒリヒリと痛んだ。
「──こっちきて、ご褒美あげる」
私が両手を広げると、あなたは驚いた顔をしたあと、首のあたりを掻きながら少し照れくさそうに飛び込んできてくれた。
肌寒い秋の午後、二人きりの保健室。
少し冷えた、あなたの身体。
私の肩にうずまって、赤くなったあなたの耳。
控えめに私の背を抱いた、あなたの長い腕。
そのすべてが、今でも心の中にある。
思い出すたび胸の奥がじんとしてしまう、あなたとの大切な思い出だから──。
私の肩であなたは、気持ちよさそうに目を閉じ深い息をついていた。
──春の匂い、落ち着くからねむくなる。
そう言ってはよく私の匂いを感じていたっけ──きっと、このときもそうだった。
やさしくて甘い香りがすると言っていたけれど、自分ではちっともわからない。出会ってすぐのころ、なんの香水を使っているのかと聞かれたけれど、なにも使っているものはなくて。
──え、自然にこんな匂いするひといるの…?……お花畑でうまれた?
そう言ったあなたに笑ったのも、今はもう遠くに霞む懐かしいものになってしまった。
私のために走って、私のウィンクで一位を取って。
私のために吠えて、腕の中で大人しくなって。
いつもクールなくせに、私のせいでそうなってしまうあなたが、好きで好きでたまらなかった。
私の心をいっぱいの光で埋めてくれるあなたに、私もそれをあげたくて。そっと、その頬に口づけを落とした。
「はい、ご褒美」
と、それを口実にして。
初めて自分からあげたそれは、子どもじみていたかもしれないけれど、くっついている胸元からあなたの鼓動が早くなっているのを感じた。だから私はそっぽを向いた──それを受けた自分の頬が、きっとひどく色づいていたから。
どのくらいそうしていたのか、お互いの体温がちょうど同じくらいになったころ、置いてけぼりにされた水嚢から水が漏れていることに気がついた私たちは、やっと二つに分かれた。
高校一年生の体育祭。
それが忘れられないものになったのは、実はこのあとのこと。
しばらくそこで他愛もない時間を過ごしていたときの、なんとないありふれた会話だった。
「にしても腹立つ。あの赤髪なんて名前?」
「もう…千早さん」
「じゃなくて、苗字」
「苗字が千早なの、下は…たしか…瑞月だったかな?」
「ふーん……いい名前で余計むかつく」
なにそれ、と。そのとき私は無理に笑っていた──できればもう、名前の話はしてほしくなかったから。
私には名前がない。だってこれは姉のものなのだから。
もうこの話はおしまいにしてほしい。そう思っていたけれど、訳をしらないあなたにそれが伝わることはなくて。
「だってなんか──あいつ"ハチ"って感じじゃん」
「ハチ?」
「うん、犬みたいだから」
「………そ、そう?」
きょうちゃんの方がよっぽど…そう言ったらまた拗ねてしまいそうだったから、口にするのはやめておいた。
「あの子猫は?」
「それは同じ認識なんだ…」
「ん?」
「なんでもない…あっちは四条さん」
「あー、ぽい。下は?」
「深白」
瑞月と違って、深白とは中等部でも何度かクラスが同じになったことがある。喋ったことこそないけれど、下の名前はスッと出てきた。
「んーーー、渚」
「…なに?」
「"渚"って感じ」
「四条さんの名前が?」
「ん」
急に二人に名前をつけ始めたあなたに、なにがそう見えるのかは聞かなかったけれど、今思うとあなたの言ったことはわりかし的を得ていた。
リードしているように見えていた瑞月は、実は深白がその手の中で転がしていたのだから。本人は今もそれに気がつかないまま、こっそり深白にリードを引かれている──さながら、飼い犬のように。
大人しそうに見える深白は、自分しか目に入っていない瑞月をペットのように可愛がり、手名付けて、飼い殺して。たまに私たちに見せるその顔は、いつものそれとは一味違うもの。穏やかだったり荒々しかったり──まるで、あなたの言った渚のように。
それを私たちが知るのは、もう少しあとの話だけれど。
「でも春はさ、」
「うん?」
「あ、春の名前ってさ?」
あなたの言葉に、私の心臓がドクドクと脈を打ち始めた。季節は秋だというのに、額にじわじわと汗が滲んでいく。動揺していることを悟られないように、私は顔を俯けた。
やめて、その先を言わないで。
もしあなたにこの名を否定されてしまったら、私は──。
「春って感じするよね」
「………へ?」
ぎゅっと握っていたその手に、ふいにあなたの手が触れて私は顔をあげた。
「ほら、なんかいつもあったかいし」
ほころんだ瞳が私を見つめる。
「春みたいな匂いする」
そっと近づいて、匂いを確かめるように首元を香って。
「春は春しか似合わない。春って感じ」
このあとのことはよく思い出せない。
覚えているのは、涙ぐむ顔をごまかすようにあなたに抱き着いて、頬にまたひとつキスを落としたこと。あなたがそれに驚いて身じろいだから、横に置いた氷嚢がぽちゃんと床に落ちたこと。
自分の名前を、好きになれたこと──。
「きょうちゃん」
「ん?」
「名前呼んで」
「え、なんで?」
「はやく」
「??」
───春。
好き。きょうちゃんが好き。
そう言ってしまいたかった。
私があげたかったのは頬にじゃなくて、本当は──。
高校一年生の体育祭。それは爽やかですっぱくて、甘くてあったかくて、最後は少し苦い後味の残る。私の人生を変えてくれたあなたとの、今でも胸を鮮やかに染める何にも代えられない思い出。
そしてまた季節が巡って、木枯らしが冬が連れてきたころ。
私は、あなたと一緒に卒業できないということを知る。
まだあなたに、なにひとつも伝えられていなかったのに──。