焦りぎみに走らせた恋
私がまだたった16歳のころ。それは今から、だいたい十二年ほど前。
桜の花びらがその役目を終えて、ちりぢりに地面をピンク色に染めるはじまりの季節。
私はあなたのその声をはじめて耳にした。
──つづり……ころ…けい?さん
──あ、それで"きょう"っす。頃で、きょう。
先生にそう言った姿が眩しく見えて、私はあなたに興味が湧いた。
このころの私は、心に重たい鉛を抱えて息苦しい日々を過ごしていた。桜の花が散るのに、どうして四月ははじまりの季節なんだろう。どうして、春の花は桜といわれるのだろう。入学式でその花を見ても、そんなねじまがった考えしかできないほどに。
初等部からエスカレーター式の馴染みの学び舎で、三度目の入学式。胸元には母からもらった桜のブローチ。私の名にふさわしいそれを見てもなにも思うことはなく、高校生になるといっても新鮮な気持ちは持てなかった。
高等部からは外部生も合流することになるとはいえ、もともと内部生ともそれなりの関係性しか築いていなかった私にはそんなことはどうでもいいこと。どちらであろうと、たいして変わりはしない。
裕福な家庭が多いその学び舎。女子校と呼ばれる箱のなかでは家柄が友人のそれを作りあげているようなもので。どうせ、私に寄ってくる人たちも内情はそんなところ。それでもはみ出すことはないように私なりにその輪の中で仲良くやってはきたけれど、それも初等部でおしまい。
ある日、私は知ってしまった。
自分が、自分ではないことを。
初等部の最終学年が終わるころ、私は図書室でよく本を読んでいた。
昔から本が好きだった。人と過ごす時間が嫌いなわけではないけれど、ひとりの時間の方がずっと楽で。本を読んでいればそれを邪魔する人は少ない。無理やり割り込んで声をかけてくるような人はいないから──そんなきっかけで読み始めた小説たちも、ずいぶんとその数を増やしていた。
私はお気に入りの小説だけを部屋の本棚に構えておこうと、それに該当しないものを地下の物置に仕舞うことにして段ボールへと詰め込んだ。自分が思っていたよりも、引っ越すことになった本は多かった。
普段あまり入ることのない家の物置部屋。埃っぽいその空間は想像よりも眠っているものが多く、空いている棚を探すのに少し時間がかかった。
窓際の古い棚の上段に、ちょうど手元のそれが入りそうなスペースを見つける。いっぱい入ってて重たいから──と、そんな理由で下段に隠れていた段ボールを手元のそれと入れ替えた。ずいぶん軽いけどなにが入っているんだろう?そう思ったけれどわざわざ開けることはせず、軽いそれを持ち上げて空いている上段へと押し込んだ。
そのとき、重みのないそれが傾いて、私の手から逃げるように床へと落ちていった。年季の入った段ボールから古びた書類が四方八方へ飛び出す。片づけるのめんどくさいな…とそんなふうに思いながら、私はそれをひとつひとつ拾い上げた。きっと母の仕事の書類だろう──日本語ではない文字がずらりと並んだそれを流し見しながら、その中にひとつ厚めの封筒があることに気づいた。
──なんだろうこれ。
興味本位で封のされていないそれの中身を、私は覗いてしまった。
何枚かの写真と、色褪せた紙──先頭にあったそれは出生届の控えだった。
"科木 春"──と、私の名前。写真の中には、ベッドの上の赤ちゃん。
私が生まれたころの書類たちなのだろう。こんな写真あったんだ、とそれをじっくり目に通す。家のベットみたいだけど、何歳のころだろう?まだ歳も重ねてないときかな?──と、日付の印字を探して写真を裏に返したとき、私は言葉を失った。
そこに記載された四桁の西暦が、私の生まれ年よりも、五年も前だったから。
印字ミス?と何枚かある写真を裏返してみても、その西暦はすべて私の生まれ年よりも若かった。日付は全部、違うのに。
この写真は私じゃないのだろうか。いや、でも私の出生届と一緒に入っていたし…そう思ってもう一度"科木 春"と書かれたその紙を確認すると、私は言葉と一緒に瞬きすら失うことになってしまった。
生まれ年も、その月も日付さえも。
私の生年月日と違っていたから。
なにひとつ一致していないのに、そこには確かに私の名前。どういうこと…?──そう思ったとき、その紙が不自然に厚みを帯びていることに気が付いた。
──これ、二枚ある…。
長年仕舞ってあったのか、すっかり一枚になってしまいそうなそれを親指でずらすように擦ると、なんとか一緒になっていたものに分かれ目ができる。戻ってしまわないよう、私はすぐに爪の端でぺりぺりとめくりあげた。
そして目を疑う。
死亡届の、その文字に。
そこに載る、私の名前に。
私が亡くなっている。
私が生まれる、その前に。
いいや違う。これは私のものじゃない。だって私は言葉も瞬きも、思考すら止まってしまっても。こうして心臓がどくどくと動いているのだから。額に汗が、流れているのだから。
「……お姉、ちゃん……?」
私と同じ"科木 春"。
私と同じ"女"の表記。
私はそのとき初めて、自分に姉がいることを知った。
そして初めて目にした姉はもう、この世にはいなかった。
私のものだと思っていた名前は、そのどれもが私のものではなかった。母が姉に授けた"春"という名前──桜の開花する三月生まれにはよく似合う。一ヶ月出遅れている私なんかより、ずっと。
その名前が自分につけられたものではないとわかったとき、私はまるでこの世に存在していないのだと、そう言われている気分だった。
これが姉のものならば私は一体だれなのだろう、本当の名はどこにあるのだろう──そう考えるたび、眩暈がした。
幼いころ、母がくれた桜のブローチ。お気に入りだったそれも姉の存在を知ってからはガラクタになってしまった。目にするたび、お前は姉の代わりなんだと、そう私に囁いているようで。使わなければいけないとき以外、引き出しの奥に仕舞っておくようになった。
母のことは好きだった。けれどそれを知ってから、私は母の目をまっすぐ見ることができなくなった。
どうしてお姉ちゃんのこと黙ってたの?なんで私に自分の名前をくれなかったの?──そう思っていても、言葉にすることは叶わなかった。ただ、短い人生で終わってしまった姉の代わりに私は生きなければいけないのだと、幼心にそう思うようになった。
母の大きな会社。それを継ぐことは小さいころから決まっていたこと。母の母も、そのまた母も。同じ業界でいろんな角度から視線を受けて、幼い私がその姿に憧れを抱くのは自然なことだった。私も母のように──と、自ら望んでそれを目指すようになったのはいつからだったか。
だけどそれも、きっと本当は姉の役割。それがわかってから私は自分の中のなにかが切れたように、すべてがどうでもよくなってしまった。ただ姉の代わりに母の望むことをしてさえいればいいとそんなふうに考えて──誰もそんなこと、言ってはいないのに。
それから母に甘えるのをやめた。わがままな性格もすぐ泣いてしまうところも、私の全部を隠すようにして。
次第にそれが当たり前になって、母以外の前でも自分を出すことをやめていた。姉という仮面を被り、友人だった人をただのクラスメイトだと思うようになった。
でも、それでよかった。母もまわりもそんな私を否定することはなかったし、なにより学校ではそうしていた方がみんなは喜んでいた。読書に逃げていた私が誰とでも笑顔で接するようになったのだから、そう思うのは当たり前なのかもしれない。
姉がもし生きていたら、こういう人だったんじゃないか。そう考えながら日々、私は姉を演じ続けた──芝居の仕事が増えてきたのは、このころのおかげかもしれない。
そんなふうに何もかもがどうでもよくなっていたころだった。
あなたが私の前に現れたのは。
「あ、それで"きょう"っす。頃で、きょう」
「あらぁ~間違えてごめんねぇ。"綴理 頃"さんね!」
いつもと同じ形式の入学式、飽きるほど聞いた校歌。これから始まるそれにうんざりしながら迎えたホームルームで、教室には見たことのある顔がチラホラ。また次の桜が散るまで適当に笑顔を作っていればいい──そう思っていたとき、あなたの声が耳を突っついた。
"綴理 頃"──先生が呼んだのは、あなたのその名前。
中等部でお世話になったマイペースな先生は、きっと事前に確認していなかったのだろう。読みを間違えられたあなたは気だるげに声をあげてそれを正した。まるで"私は私です"と、みんなの前でそう言っているようで──。
平然とそれを言ってのけるあなたの声に、心が傾いた。
この学校で見たこともない明るい髪の色。解けた第二ボタンにゆるゆるのネクタイ、短いスカート。耳元で光る、たくさんのピアス。外部生といっても、そんな見た目であの学校に入ってくる人はあなただけだった。教室でただひとり机に突っ伏したその姿は、今思い出してもやんちゃで愛らしい。
「ねえ、これで"きょう"って読むの?」
「…あー、そう」
普段は自分から人に興味なんて持たないのに、私はホームルームが終わるとそのやる気のない背中に声をかけていた。
「いい名前だなって」
「……どーも」
なにを言ってもまるで興味を示さない表情に続かない会話、私を不審そうに睨むその目──あなたの全部が新鮮だった。こんなに名前の話をしているのに、私のそれを聞いてはこない。この人は私を、家柄やその名前で判断しないかもしれないと、そう思った。
この人に本当の私を見せたらどう思うだろう。
私を私として、見てくれるだろうか。
そんな身勝手な思いが、あなたとの始まりだった。
入学式が終わると、私はまたあなたに駆け寄って。
「ねえ、きょうちゃん一緒に帰ってもいい?」
「…なんで?てかきょうちゃん?」
そのとき、初めて名前を呼んだ。大好きなあなたのその名前。
「きょうちゃん何通学?」
「え、話し聞いてる?」
「だめ?」
「…いや別に…」
いつぶりだっただろう。人にわがままを言ったのは。あなたは迷惑そうな顔をしていたけれど、断ることはしなかった。
だからまた、甘えてみたくなった。
「私、電車なんだけど」
「あーごめん、チャリ」
「そっか、じゃあ送って?」
「…は?」
「だめ?」
「…あんた家、どこ?」
そしてあなたに、知ってほしくなった。
「春」
「あ?」
「科木 春。私の名前」
「あー、そう。で、家どこなの」
そう言ったあなたに、私は心の鉛が少し軽くなるような思いを抱いた。名前を教えても、そんなことどうでもいいと言わんばかりにその名を呼ぼうともしない。この人はきっと私を私として受け入れてくれる──気だるい声がそう思わせてくれた。
あなたのその落ち着く声。初めて教室で耳にしたときからずっと、大好きだった。
トントンと自転車の荷台を叩いたあなたに、ここに乗れとそう言われて驚いたけれど、狭そうなパーソナルスペースの扉をほんの少し開けてくれたような気がしてなんだか嬉しかった。スカートで跨るのは気が引けて、横乗りで腰を据えた私を見てあなたは笑った。
人生で初めての二人乗り──今もあなたとしかしたことはないけれど。でこぼこな道に揺られたり、降り注ぐ桜の花びらによろけたり。あなたの腰につかまって、その背の体温を感じて。なんでもないようなことが私にとっては新鮮で、あの日のことを思い出すたび心は温められてしまう。
夕日に照らされたたくさんのピアス。その一つ一つがきらきらと反射して、私は手を伸ばしてみたくなった。
「これ何個開いてるの?」
風になびいたあなたの長い髪が、私の手をくすぐる。
「ちょっ、急になに…!」
「きょうちゃんのそれ、気になってたから」
文句を言いながら耳を赤く染めたあなたを見て、私は知った。
「耳、よわいの?」
「っるさい、もう!」
自分が本当は、少しいじわるなんだということを。
こんなにやんちゃな見た目をしているのに照れて赤くなるところがかわいくて、私は緩む頬を抑えられそうになかった。
仕返しのように自転車のスピードをあげたあなたにもうひとつ、明日も一緒に帰ろう?とわがままを言って、それにあなたが不満そうにため息をついて。いつのまにか最寄り駅が顔を出したころ、初めて二人で見た夕日は暮れていった。
思わず目を眇めるような西日も、嫌いな桜の花も。なんだかその瞬間のすべてが貴く思えて、私はその夜、なかなか寝付くことができなかった。
きっともう、恋に落ちていた──。
まわりに流されない性格も、尖った見た目も。自転車がよろめいたときに怖い?と聞いた優しいその声も。
あなたの全部が、私の心をくすぐったから。
それから私は毎日のようにあなたのまわりをうろついた。授業中も休み時間も、ずっと寝ているあなたにちょっかいを出しては迷惑そうな顔をされて。それでも私を突っぱねないあなたの後ろに毎日腰をおろして。
もっと近づきたくて一緒にお昼ご飯を食べてほしいと頼んだり、屋上で煙草を吸っているあなたの後ろ姿を写真に残したり。もっとあなたに触れてみたい、なにかいい手はないかな?と、その煙草をあなたから取り上げたり──それにそっと口づけを落としてみたり。
「…え、っちょ、はるっ──!」
驚いたあなたが私の名前を初めて呼んだ日、心にやさしい風が吹いた。
嫌だった名前もその声に呼ばれるのは心地がよくて、私はすっかりあなたに夢中だった。
「…え、なに?意味わかんないってまじ」
名前を呼んでほしかっただけと、そう返したけれど。
本当はただ、あなたに意識してほしかっただけ。
自分はそれを嗜むのに私がそうしていたら嫌なんだとか、そんな些細なことが嬉しかった。
あなたに好きという感情を抱いたのは、桜の季節が終わってまださわやかな風が吹き抜ける夏の入口。
休日は寝ているだけというあなたを無理やりひっぱり出して取りつけた映画の予定。あなたとのはじめてのデート──そう思っているのはきっとまだ、私だけだったけれど。
なにを着ていくか一晩中悩んだ。大きなクローゼットには母がくれた数え切れないほどの洋服。この中のどれを着ていけば、私をかわいいと思ってくれるだろう──と。
まずは薄い花柄の白いワンピースを手に取って鏡で合わせた。少し短い?こっちの方がいいかな?そんなふうに何枚も何枚も繰り返しているうちに、いつのまにかベッドはそれで埋め尽くされていた。
そのとき私は気がついた。
お母さんがくれた服、白ばっかりだ──と。
たしかに私の肌には薄い色味が合う。だからすっかり慣れ親しんでいたけれど、自分で選んだ服って何色だったかな…そう思いウォークインの奥の方を探すと、少しレースのついた黒いワンピースがそこにぽつりと隠れていた。
そういえば、お店で気になって買ってから一回も着てないな…と、きれいなままのそれを見て胸の奥がぎゅっとなった。
母のセンスに間違いはない。だけど私は、私の選んだ服を着て、あの人にかわいいと思ってほしい──だから一面に広げていた白いそれを全部仕舞って、私はあの日黒いワンピースであなたのもとに向った。
「あ、きょうちゃん」
「ごめ、ちょっと寝坊した…」
少し遅刻してきたあなた。かかとをずって歩くその足音で、すぐに誰かはわかった。持っていたタオルで額の汗を拭ってあげると、もういいよ…と少し赤くなった顔がいじらしかった。
初めて見るあなたの私服。薄いグレーのパーカーに、ダボっとくすんだジーンズ。よく似合っているそれは、同じように着崩していてもいつもの制服とはやっぱり違って。
その姿に、心がちいさく音を立てた。
学校じゃない場所で二人きり。そう意識すると緊張でつい口が走った。それでもあなたは退屈そうな顔ひとつ見せずに、映画館に着くまでずっと私の話に耳を傾けてくれた。
「きょうちゃんどこの席がいい?」
「どこでもいいよ、春が観たいとこで」
本当はどこがいいんだろう──と、どきどきしながら選んだ一番後ろの通路側の席。
「お」
「だめ?」
「んーん、さいこう」
そう笑ったあなたにまたどきっとして。私はごまかすようにお手洗いへ逃げ込んだ。
こうして二人で他愛もないことを話しながら過ごす時間は楽しい。あなたもきっとそれは同じだったようで、出会ったころよりもよく笑ってくれるようになっていた。
それなのに、この日の私には不満があって。苦手な朝、いつもより早く起きて巻いた髪。時間をかけたメイクに自分で選んだ黒いワンピース。そのどれかひとつくらい、褒めてくれてもいいのにと。そんなふうに少し拗ねていた。
だけど、広告を眺めていた私の後ろ姿をあなたが勝手に撮ったから、その機嫌もすぐに元に戻されてしまった。
「撮ったの?」
「あー…」
「それどうするの?」
「いや…どうもしないけど…」
言葉に詰まりながら目をそらして首のあたりを掻くあなたを見て、もしかしたら──そう思った。
そして、確かめたくなった。
「盗撮するほどかわいいって思ってくれたんだ?」
「ばっ、ちがくて!」
まわりにいた人たちがびっくりするくらいのその声。泳いだ視線に、赤くなった耳。それがどうしてなのかを知りたくて、もう一押し。
「かわいくなかった?」
上目がちに顔をのぞき込んでみる。
「……似合ってるけど…」
そう言ってくれたことが、そう思ってくれたことが嬉しくて、私には緩む頬を抑えることはできなかった。
おもしろくなさそうな顔をして入場口に逃げるあなた。それを小走りで追いかけて、捕まえて。
「きょうちゃんってワンピースが好みなんだ?」
「…春、だまって」
またその頬を染めさせて。
言葉にするのは苦手なのに、聞けば否定せずに表情や態度で教えてくれるあなたが。
黒いワンピースを似合っていると、不器用にそう言ってくれたあなたが。
私の心を、こんな簡単に揺らしてしまうあなたが好きだと思った。
自分で選んだ自分の色。それを認めてもらえたような気がして、背負っていたものがまた軽くなって。
あなたに隣にいてほしいと、そう思ってしまった。
映画の内容はあまり──いいや、まったく覚えていない。
だって、暗闇でずっと、あなたが私を見つめていたから。
その瞳からあなたの気持ちが伝わってくるようで、心地がよくてそれを止めることはしなかったから、あなたはきっと今でも気づかれていなかったと思っているだろうけれど。
──きょうちゃん見つめすぎ…ポップコーン、さっきから膝に落としてばっかりだし…。
そう思っていたことは、ずっと内緒。
*********
高校生の一ヶ月は、大人のそれよりもスピードが速い。朝日が昇って夕日が落ちて、月が鳴いて太陽が笑う。そうしているうちにすっかり夏も本番になったころ。流れ落ちる汗にも負けない速度で、私とあなたは恋人になる。
初めてのデートから、あなたが私を意識しているのは一目瞭然だった。
授業中でも休み時間でも、お昼ご飯も帰り道も。いつも私を追いかけるあなたの子犬のような瞳が愛らしかった。
夏休みを迎える少し前、授業態度も悪くテストをすべて白紙で出したあなたは先生を困らせていた。進級したいなら休みの間の補習には顔を出しなさいと、そう言った先生の言葉に首を縦に振らず面談を長引かせて──。
一緒に帰ろうと待っていた私は痺れを切らし、補習のなにが嫌なのかと問い詰めると、眉を情けなく下げたその表情で理由はすぐにわかってしまった。
「私の家でやろっか、補習」
「……はい?」
「先生、それならどうですか?毎日レポート書かせますし、課題も他より多く出していいです」
そう提案したのは、寂し気な視線が訴えていたから。他意はなかった──たぶん、きっと。
先生は苦渋の表情を浮かべながらも、科木さんなら…とそれを呑み、私は満足げな顔であなたを連れて教室を後にした。
「よかったね、補習なくなって」
「いや、なんなら倍なんすけど…」
夏休みの大半を私の家で過ごすことになり、帰り道中ずっとあなたはばつの悪そうな顔をしていたけれど、本当はそう思っていないこともこのときの私にはもうお見通し。
「いいじゃん、私にも会えるし」
「は?」
「だってきょうちゃん、それがいやだったんじゃないの?」
「……ちが、」
「そう?」
「……てか春んち知らないし」
──やっぱりきょうちゃん、それがいやだったんだ。
素直になれない不器用さにも、ずいぶんと慣れたものだった。
「だから、今日は家まで送って?」
「あ?」
「だめ?」
私がそうやって顔を覗くと。
「……駅からどっち」
きまって少し黙り込んだあと、あなたは絶対に断らない。
「ふふ、あっち」
「春の定期代、半分私にちょうだいよ」
「そしたらきょうちゃん、ずっと家まで送ってくれる?」
「…考えとく」
いつまでずっと、あなたと一緒にいられるだろう。
私は生あたたかい夏の向かい風に、その気持ちをそっと流した──。
言いつけをしっかり守ったあなたは毎日私の家のインターホンを鳴らした。
ぬいぐるみや雑貨の多い私の部屋が、あなたにはあまり似合わなくてなんだかおかしかったけれど、二人で過ごす時間はやっぱり楽しくて、はじめて気づくことも多かった。普段はおろしているのに勉強するときは髪まとめるんだ、とか。意外と集中力あるんだな、とか。
横顔、きれいだな…とか。
一番意外だったのは、実は勉強が苦手ではないということ。やり方はわかっていなくても、少し公式を教えればものの数分で難しい課題をすらすらと解いてしまう。学校ではその見た目のせいでコネだとかなんだとか、本当は受験も受けていないというような噂を囁かれていたけれど、この人ちゃんと実力で入ってきたんだな──と。私はまた、そんなあなたを好きになっていった。
やればできるのにどうしてやらないのかと聞いた私に"目的ないし"と答えたあなたを見て思った。この人はきっかけをくれる人がきっとそばにいなかっただけ。だったらどんな理由でもいい。私がそのきっかけになりたい、と。
「じゃあ私がきょうちゃんに勉強する目的あげよっか」
「は?」
「卒業式も送って?きょうちゃん」
「………一人でチャリ漕げないから?」
頬から力が抜けてニマニマと。嬉しそうな顔をしているくせに、そんなふうに茶化してしまうあなたは本当に不器用で、それを感じるたびに私の胸は温度をあげてしまう。でも、私が自転車に乗れないことをいじった罪は大きく、そのあと私はいつもの倍、あなたをからかって楽しんでいた。
そんなこんな戯れているうちに、カーテンを通り抜けて差していた日差しもすっかり落ち着き、夕日へとその姿を変えようとしていた。
一緒に夏休みの宿題に手をつけていたのに、あなたよりも先に集中力が切れてしまった私は、真面目に課題に手をつけるその横顔をばれないようにこっそりと見ていた。真剣な眼差しをずっと眺めていたかったから、映画中のあなたみたいに視線が熱を持たないように必死だった。
整えた眉に、少し切れ長だけど子犬のように愛らしい目。スッと通った鼻筋と、ちょっとだけ口角の下がった小さな口元。やっぱりきょうちゃんの顔好きだなぁ…そう思って、胸の奥がじんわりとした。
「ねえ」
「わっ、なに…」
ちょっとだけ触れたくなって。顔を近づけて。
「それ、痛い?」
「痛くないけど」
あの日のようにピアスを口実にして、あなたの耳に手を伸ばした。
「ちょ、だから、急に触るのなし!」
そう言って持っていたシャーペンを手からすっ飛ばしたあなたがおもしろくて。私はもっと、その顔が見たいと思ってしまった。
「じゃあ触ってもいい?」
「……まあ、どうぞ」
聞かれたら、あなたが断れないのを分かっているから。優しいあなたに少し甘えすぎているような気もしたけれど、頬を赤く染めているところを見ると、まんざらでもないのかなと口元は緩んでしまう。
ゆっくり手を伸ばして、私の指がその耳に触れる。耳たぶが柔らかくて、あたたかい。最初は人差し指でつんつんと。その動きに合わせて形を変えるそれが気持ちよくて、ごろごろとしているピアスをよそに私はずっとその感触を楽しんでいた──口実に使ったこともすっかり忘れて。
少し厚みのあるそれをたしかめたくて、親指を使って摘まむようにしてみると、あなたの身体がびくっと揺れた。目をぎゅっと瞑ってなにかを耐えるその顔と、指先からの感触に私は少しおかしくなってしまいそうだった。
軟骨のあたりはどんな感触がするんだろう。耳たぶよりはもちろん硬そうだけれど、端っこの方は薄くて気持ちがよさそう──そう思った私は、気づけば耳輪の淵に人差し指の腹をツーッと滑らせていた。
その感触が触覚に届く前に反応したのは、私の聴覚だった。
「は、はる…そろそろ…あっ──」
あなたからこぼれたその甘い声が私の耳をくすぐって、次に反応したのは痛覚。ミツバチに刺されたみたいに胸の奥がチクチクと。
「きょうちゃん、耳まっか」
目の前の耳がみるみるうちに色づいていく。顔や、その首までも。
蒸気があがりそうなほど赤くなったあなたを見てわかった。
あなたに触れてみたいのも、照れさせたいのも。私によってそうなってしまうあなたが愛しいからなのだと。
「春が触るからでしょ…もうおしまい」
追い打ちをかけるようにそんなことを言うから。きっとそういう意味で言ったわけじゃないのに、私じゃなかったらそうならないの?と心はどんどん満たされてしまう。
──相手が私だから、きょうちゃんはあんな声をこぼしたの?
そう考えれば考えるほど、どくどくとうるさく鳴く心臓が全身に血液を送り込んで、頭が熱で浮かされていく。
もっと、あなたをそうしてみたい。もっとあなたに触れたい──。
「ねえきょうちゃん」
「なに」
「今日泊まっていく?」
うまく働かない頭はあなたに向ってそう言葉を投げていた。
驚いて丸くなったその瞳。それは一ミリも嫌だとは言っていなくて、それだけで声が出てしまいそうなほど嬉しかった。
「……や、バイトあるし」
不器用でヘタレなあなたの精一杯の言い訳。言葉では断られているのに、そうは言っていない表情とその眼差しがたまらなくしおらしかった。
だからこの日も、もう一押し。
「じゃあ、明日は?」
「……明日なら、まあ」
ほら、もう逃げない。
「じゃあ今日は許してあげようかな」
「なにを」
「なんでもないっ」
上機嫌な私とは対照的に、あなたはもともと下がりぎみな口元を余計にへの字に曲げて。でもそれも、私に向けてのものではないと気づけたのは、あなたが夕方私の家を出るまで問題を一問も解けていなかったから。
──自分の心と戦ってるのかな。
必死に解くふりをするその姿に、私は目をやわらげた。
あなたが帰ったその夜、明日はもう少し近づけるかな?と、私はまた寝付くことができず、どうしたらあなたから"好き"を引き出せるのかと頭を悩ませていた。
もう少し寄り添ってあげた方がいいのかな、とか。なにかそう思わせる要素があればいいのかな、とか。未熟な私はそんなことばかり。
「うーん……八十五番歌って感じ…」
お昼に解いた古典の問題集を頭に浮かべるうちに、いつのまにか私は夢の中に落ちていた。
今思えば、なんて身勝手な恋だったのだろう。
あなたに甘えてあなたを求めて。あなたにも同じだけ、私を求めてほしいなんて──。
翌日のあなたの頭。それは私が想像した以上にお留守状態。
「その問題、むずかしい?」
「あ、いや…」
前の日には簡単に解けていた問題にも手を止めて、ぼーっとして。解いている演技をすることすらも忘れ、私の様子をちらちらと覗う落ち着きのない視線。うすく茶色をおびた瞳は、抑え気味に私と課題のプリントをいったりきたり。
からかったら拗ねちゃうかな…もう少し気づかないふりしてあげよう──そんなふうにあなたの視線をごまかしているうちに、また日は静かに暮れてしまった。
「──おいしい!」
「でしょ」
あなたが得意げに眉を動かす。夕食に食べたのは、人生で初めてのカップ麺。"まじで食べたことないの?お嬢様?"というあなたに、どちらかというとお姫様?と冗談を返した。
母も代々、そう育てられてきたから、私ももちろん例外ではなくて。身体によくないこともあるし、体系維持をするうえでも肌の調子を保つうえでも、好ましい食品ではない。
おかしにジュースにカップ麺。あなたに出会うまで、そのどれもあまり口にしたことはなかった。別に強制されていたわけではないけれど、できればとそんなところで。母も食べていないし家でも出てこないのだから、必然的に口にする機会はなかった。禁止と言われれば食べたいと思う欲も出ていたかもしれないけれど、食べたければどうぞくらいのスタンスだったからその欲がなかったのだと思う──学校の屋上でそれを啜っているあなたを見るまでは。
それでもそのものを食べたいというよりは、あなたが美味しいと思うものを知りたい──そんなところだった。
あなたが教えてくれたトマト味のカップ麺。今でもたまに、その味を思い出してしまう。
もくもくと食べていると、またあなたの目が私を追いかけていることに気がついた。さすがに食べているときはちょっと恥ずかしい。だから、少しだけ。またあなたにいじわるをあげた。
お箸を持つ反対の手でゆっくりと片耳に髪をかけると、あなたはそれを見ておもしろいくらいに静かになってしまった。だらしなく口をあけて瞬きも忘れて。
「きょうちゃん聞いてる?ねえ」
「え、あぁ…ごめ、なに?」
「明日お昼オムライス食べに行きたいなって」
私はあなたに出会うまで、自分が恋愛に対してこんなにも積極的だとは知らなかった。でもきっと、相手が優しいあなただから。かわいいあなただから。私はそうなってしまったのだろう。
もちろん、あなた以外の前での自分なんて、今も知らないままだけれど。
夕食を終えると、私は一つ、前日に眠れない頭で考えた策を使ってみることにした。ワンピースが好きなきょうちゃんならきっと反応する──そう思って新しくおろしたパフスリーブのそれ。
お風呂あがりに着替えて部屋に戻ると、あなたは予想どおり…いいや、それ以上に私の姿に釘づけになってくれた。私の本棚から適当に取って読んでいたみたいだけれど、その手が止まり、エアコンの風がパラパラとページを戻してしまう。そんなことにも気づけないあなたは私が話しかけるとまたその本に目を落として、何食わぬ顔をして。
──さっきとページ違うよ、きょうちゃん…。
心の中で呟いて、単純すぎるあなたに胸を焦がした。
かわいいと思ってくれたら、あなたからこの距離を縮めてくれるかな…そんな考えは甘かった。ただ髪を乾かす私の姿を、ふたつの瞳は本の合間からこっそり覗くだけ。
──もう、きょうちゃん…見えてる…。
それが鏡で丸見えだとも知らずに。
私はそのだらしない顔を見て頬を緩めると、ドライヤーを一度置いてまだ乾ききっていないあなたの髪に手を伸ばした。
「乾かしてないの?」
「伸びたからだるい」
「きょうちゃんせっかく髪きれいなのに」
「こうやってれば乾くっしょ」
タオル片手に髪を雑に拭った姿。それにまた胸がきゅっとして。
「だめ、やったげる」
「い、いいよ…」
「いいからおとなしくして?」
抵抗することを諦めたあなたからタオルを取り上げると、そのきれいな髪にドライヤーをあてた。弱めの風に気持ちよさそうに目を細めるあなたはさながら子どものよう。
あなたにもっと意識してほしい、振り向いてほしいと思っていたけれど、この調子では私はあなたを追い越してその先で振り返ってしまいそうな勢いだった。
「──ッ」
「ごめん、痛かった?」
大半が乾いてきたころ、まだ少し湿り気のある根本の部分を乾かそうと、わしゃわしゃとしていた手を頭の上の方に持っていったとき、指先が耳を掠めてしまった。
「いや、だい、じょうぶ…」
今度はわざとじゃなかったのに。あなたが身を震わせてまた耳を真っ赤に染めたから、私の心にも同じ色が滲み出てしまったのは仕方のないことだった。
「赤くなってるけど…」
「…あ、あぁ、暑いから…」
どうしよう。ちょっと、私、なんだか。
「じゃあ飲み物もってきてあげる」
おかしいかもしれない──そう思って、すぐに部屋を出た。
私の指が耳の先をほんの少し掠っただけ。それだけで、そんな些細なことで赤くなって、言葉に詰まって。しどろもどろに瞳を揺らしたあなたのせいで、鼓動がドライヤーの音をかき消してしまいそうだった。
その音があなたの耳に届く前にと、私はなんともないような顔をして部屋をあとにした。あなたの前ではそうできても、ドアを閉めて一人になった途端それは顕著に表れて。尻もちをつくようにドアの前にへたり込むと、マラソンのあとみたいに浅い息を繰り返しては、あなたの瞳を思い出してまた胸が苦しくなって。
あなたから好きを引き出したいのに、これじゃ私が──。
私は頭の熱を放出するようにしばらくリビングの端で涼んだ。このままでは、口にしてはいけない言葉が飛び出てしまいそうだったから。
一息ついてこぶ茶を飲むと、窓を開けて外の風にあたった。頼りない夏の夜風が一生懸命に身体から熱を取り上げ、十五分ほど経ってやっと身体は落ち着きを取り戻した。
もう大丈夫。あなたを見ても、気持ちを先走りさせたりしない。
それはあなたを、傷つけるだけだから──。
そうやって私は言っておかなければいけないことを何一つあなたに告げないまま、恋に溺れて浮かされて。
そうしていることが何よりもあなたを傷つける結果になってしまうと、そんなことにも気づけずに。
「おっそ。…これなにちゃ?」
「こぶちゃ」
「…なんで?」
「なんでとかある?」
部屋に戻った私が当たり前のようにこぶ茶を差し出すと、普通麦茶とか緑茶でしょ、とあなたは笑った。そんなこと言われても我が家にはこぶ茶しかないし、それが私は好きなのだからなにも笑うことないのに…と私が怒って、あなたがそれをなだめて。そんなふう夜が更けていったころ、ふぁっとあなたはあくびをひとつ落とした。
「ねむい?」
「うーん、ちょっと…布団敷くのてつだう」
「布団?」
「え?」
「ないよ?」
「…床で寝ろって?」
ハハッと軽く笑ったあなたを不思議に思って、私はすぐそこにあるベッドを指差した。
「あるじゃん」
「え、一緒にねんの?」
「だってダブルだし」
「……まじ?」
「きょうちゃん寝相わるいの?」
いやそういうことじゃ…と、ばつの悪そうな顔をしたあなたに、こんな大きいのになんの文句があるのだろうと、私は言葉を続けた。
「床がよければ床でもいいよ?」
「………ベッドで寝ます…」
そう言ってあなたは足取り重くベッドに身を沈めた。
思い出すだけで恥ずかしい。このころの私は本当に子どもで、ただ"きょうちゃんと一緒に寝たい"と、そう思っていただけ──他意なんて、なかったのに。
あなたがどうしてそこまで顔を引きつらせたのか。それを知るには、そう時間はかからなかった。
*********
「ねえ」
「なに」
「いつまでそっち向いてるの?」
「…こっち向きが寝やすいから」
ベッドに入って数十分が過ぎたころ、私は日課の読書にひと段落つけてしおりを挟むと、サイドランプの灯りを消した。奥側に転がったあなたは寝てもない癖に、そのあいだずっと反対側を向いたまま。そこになにもありはしないのに。
つまらない──そう思った私は横向きに転がったあなたの左頬に手を伸ばして、それをぎゅっとつねりあげた。
窓じゃなくて、私を見てほしかったから。
あなたの顔が、見たくなったから。
「痛って!ちょ、はるっ」
頬を擦りながら反射的に振り向いたあなたと目が合う。それが嬉しくて、私は子どものころのように笑みをこぼした。
「暴君かよ…」
「そういえばきょうちゃんのすっぴんって初めて見る」
普段からメイクが濃いわけではないけれど、要所要所素材を生かすように施されたそれは"しっかりしているな"という感じだった。適当なのにそういうことはちゃんとしているところも、あなたの好きなところのひとつ──私服はパーカーばかりだったけれど。
──すっぴんだと本当に子犬みたい。
そう思って、ヒリヒリする…と顔を歪めたあなたの頬に指先で触れた。
「…そんな変わんないっしょ」
「でもちょっと、幼くてかわいい」
私がつねった部分。少し赤くなってしまったその箇所も、顔全体が同じ色に染まってはもうどこかはわからなくなった。
あなたはまたそっぽを向いて、パーカーのフードに顔をうずめた。そんなことをしても丸見えなのに。
「ね、腕枕して」
「は?やだよ」
「いいから」
私は強引にその腕を引っ張ると、近寄って頭をすり寄せた。
「……重い」
そうは言っても、それを引き抜こうとはしないのがあなた。
夏でも長袖で寝るんだと、またあなたのことをひとつ知れたような気がして頬は勝手に緩みだす。パーカーの生地から、あなたの柔軟剤の匂い。少し強めに香るそれは、それでも匂い自体はやさしいもの。
あなたみたいな匂いで、大好きだった。
だから今も、忘れられない。
なんの柔軟剤使ってるの?と前に聞いたとき、そんなの知らない、そう言われると思っていたけれど、意外にもあなたはすらすらとその商品名を口にして。これが一番いいから、とか。他の種類もある、とか。聞いてもないのにいろいろ教えてくれたっけ。そういうの、やらなそうなのに。
洗濯も料理も、家事はなんでも自分でやっているというあなたに、どうして?と聞いたことがある。親が使いものにならないからと、短い返事で返したあなたの家族のことは当時あまり知らなかった。お姉さんとお母さんのことをあなたは話そうとはしなかったし、私も無理に聞き出すことはなかったから。
あなたのお姉さん。結さんと私が今でも連絡を取るほどの仲になるなんて、当時の自分に言っても信じないだろう。
*********
「ねえ」
「……」
「耳、触ってもいい?」
あなたの腕の上でじっとしてその匂いに包まれていると、眠くなるどころかすっかり目が覚めてしまった。暗闇でおぼつかない瞳が、目の前にあるあなたの耳の形をおぼろげに映して、また触れたくなった。
「……」
寝てないの、ばればれなのに。狸寝入りをしたあなたに、耳元でもう一押し。
「だめ?」
こういえば、あなたが断れないのを知っているから。
「……好きにしたら」
ほら、やっぱり。
冷房の風に少し冷たくされた指先でその耳を撫でる。感じる部屋の温度は二人とも同じはずなのに、どうしてあなたはこんなに熱くなっているのか。それが知りたくて、私は手を止められなかった。
淵をなぞって、丸く膨らんだ壁を軽くつまんで。そうしているうちにふと思った。中はどうなっているんだろう──と。
欲に駆られた私は許可も取らずに、人差し指でその小さな耳の中に入り込んだ。狭くて、他よりもずっと熱い。形を確かめるようにくるくるすると、指が四方八方からその熱を吸い上げて境目がわからなくなる。だから、まだ冷たいままの中指も──。
「……は、るっ──」
そうやって感触を楽しんでいると、あなたがふいに声をあげた。
手が私のそれを止めるように軽く触れても、私は止まれなかった。
熱のこもったその声が、心を撫であげたから。
頭で思うよりも先に二つの指が動き回り、もうその全部が熱くなってしまったころ、その耳の持ち主は肩を揺らしながら浅い呼吸をひたすらに繰り返していた。私は生まれて初めて感じるなんとも言えない気持ちに戸惑って、指をそっと引き上げた。
なんかこれって、ちょっと…。
そう思ったときにはもうあとの祭り。
「きょう、ちゃん……?」
呼吸を荒く乱したあなたが、私を組み敷いていた。
「春だけ、ずるい」
余裕のないあなたの瞳が、すぐ目の前で揺れる。
「…かわいい」
あなたの口から漏れたその言葉が胸を突き刺して、私の時が止まる。でも、そんなことはないというように、暗い部屋には時計の針とあなたの呼吸、そして二人の鼓動だけが響き渡っていた。
「……ん…」
私の耳にあなたの熱い手が触れる。滑る指に声にもならないなにかが私からこぼれ落ちて、やっと気がついた。
どうしてあなたが、一緒に寝るのを拒んでいたのか。
私がそうしたよりももっと深く、あなたが私の中に沈み込んで身体が勝手に震える。
私の頭はもう、使いものにならなかった。
どのくらい続いたのかも不確かなその時間。覚えているのは、あなたの指の熱さ。
「春…」
私を呼ぶ声。
「……ちゅーしてもいい?」
濡れた瞳。
「──だめ?」
あなたの乱れた瞳が私を好きだと、そう言っていて。
私を真似たその聞き方が、憎らしいのに愛くるしくて。
答えるかわりに、私はそっと目を閉じた。
桜の散る四月、あなたのその声に惹かれてからまだ三か月ほどの夏の夜。
私はあなたの想いを、唇から受け取った。
初めてのその感触を、私のそれが今も覚えている。熱くて甘くて、やわらかくて。繋がったそこから気持ちが途切れることなく注がれ、ずっとそうしていたいくらい心地のよい──あなたのこと以外なにも感じることができなくなってしまったその感触を。
落ち着きのない鼓動が、短く切れる吐息が。あなたのものか私のものかもわからずに、ただ暗い夜に溶かされていった。
言葉にしなければいけないことを、月と一緒に雲の合間に隠して。
あなたがこの夜、私の部屋で呼んでいた本はたしか、ロメオと──。
*********
私の青いアルバムの中で、一番ヘタレているのはその翌日のあなただったように思う。まるでなにごともなかったかのような顔をして、すべて忘れたみたいに爽やかな態度を見せて。
あなたからなにか言ってくれるのを待っていたけれど、オムライスを食べに連れて行ってくれた洋食屋さんで言われたのは、私が聞きたい言葉とはほど遠いものだった。
「あの…昨日、えーっと……」
「うん、私はおぼえてる」
「えーっと………忘れてもらえたり、する…?」
今思い出しても、きょうちゃんの意気地なし!──そう言ってやりたくなる。
私の目を見もせずに、できれば忘れてほしいとそう言ったあなたに腹が立って、ごめんと言われて傷ついて。
──きょうちゃんはそうじゃなかったかもしれないけど、私はファーストキスだったのに。
そう思っても伝えることなんてできなくて。
──明日からおばあちゃんの家に帰省するから、しばらく会えないのに。
あなたにそれを伝えても、そっかと、それだけで。
またね──とバイトへ行くあなたの背中を見つめていた私の瞳は、きっと聞き分けの悪い子どもように潤んでいたことだろう。
「春ちゃん?もういいの?」
家に帰った私はあからさまに落ち込んでいて、久しぶりに母が戻ってきているというのにその手料理にも箸が進まずぼーっとしていた。
「あぁ…うん、おばあちゃんのところ行く前だし」
「そう?…あんまり気にしなくてもいいんだからね?」
「うん、ありがとうお母さん」
優しい母にそう嘘をついて早々に食事を終えると、部屋に閉じこもりひたすら読書に耽っていた。悲しいことがあったときに逃げる先は今も変わっていない。私じゃない誰かの世界に入り込んで現実逃避。いやなことを忘れるにはこれが一番だから。
数時間読み入ったあと、網戸からの夜風に喉の渇きを感じた私は、紅茶でも淹れるかな…と残り数ページになった本にお気に入りのしおりを挟んだ。
階段を降りてリビングのドアに手をかける。そのとき、外行きぎみの母の声が耳に入った。誰かと電話してる?──そう思いドアのすりガラスに顔を寄せると、そっと聞き耳を立てた。
『あ、春、急にごめん。ちょっと昨日のこと、話したくて…』
「ええっと、春ちゃんのお友だち?」
『あっ、えっ?』
聞き馴染みのある声が耳に届いて私は急いでドアを開けると、母に駆け寄りその身体をインターホンから引き離した。
友だち!──それだけ言うと、あなたがこれ以上下手なことを母に言わないよう、慌てて玄関へ駆け下りた。親戚でも間違える私と母の声。インターホン越しでは、あなたに聞き分けられるわけもないのだから。
「春あの、ごめん、私その──」
「きょうちゃん、ストップ!」
「あれ、春…?」
急にドアを開けた私に、あなたはインターホンを指差しながら目をきょとんとさせた。
「はぁ、はぁ…きょうちゃん、なにしてるの…」
「え、だって、今」
「それ、お母さんだから……」
「……へ?」
『こんばんはっ』
「……あ、こんばんは…」
声を弾ませた母に"ちょっと出てくる"と伝えて、私は近くの公園まであなたを引きずっていった。まるで言うことを聞かない犬のリードを引くように。
公園のベンチにあなたと二人。誰もそこにはいないのに、あなたはなかなか口を開かなかった。けれど落ち着きのない戸惑いを帯びた瞳がなにを思っているのか私にはお見通し。
でも、それでもやっぱり、あなたから言ってほしいから。
「で、きょうちゃんはなんで来たの?」
私は少しだけ、その手を差し伸べることにした。
「……会いたくて」
「だれに?」
一つずつ。
「…春に」
「それはどうして?」
ゆっくりと。
「……それは…」
順を追っても言葉に詰まってしまうあなたに、じゃあなんで急にきたのよ…と私は痺れを切らした。
「答えられないならいい、私明日早いから」
「春──!」
ベンチを立つと、あなたが私の腕を掴んだ。でも私は振り向かず、そのまま足の動きを止めなかった。
「きょうちゃんと話すことない」
「私はある……昨日のこと、忘れられない」
「………忘れてって言ったくせに…」
やっと少し素直になってくれたあなたに足を止めると、ちいさな風がひとつ吹いた。
「春…」
ぎゅっと、あなたが私の手を取って。
「彼女になってほしい」
これがあなたの告白。
あなたらしくてストレートで。女同士とかなにも気にしていなくて。
それもいいけれど、でも。
でも私は、すっ飛ばしたその理由が、どうしても欲しかった。
「…どうして?」
「……好き、だから」
だから最後に、もう一押し。
「…だれを?」
「──…春が好き」
不器用なあなたの精一杯の告白は、今でも胸の奥に染みついて離れることはない。
情けないあなたの、そよ風のようにやさしい声。
どんなにへたくそでどんなにかっこわるくても。小説や映画のように情緒的じゃなくても。
私はあなたのこの告白が好き。
だって、きょうちゃんらしくて、あったかいから。
「……ばか」
「ごめん」
振り向いて駆け寄って、あなたの胸に顔をうずめて。そして自分が泣いていることにやっと気がついた。
「キスしたくせに…」
「うん」
「忘れられるわけないでしょ…」
「うん、私も」
あなたの告白がうれしいからなのか、忘れてと言われたことが悲しかったからなのか。どうして頬が濡れるのか分からないから、私はあなたの胸をポカポカと叩き続けた。あなたは木漏れ日のようにやさしい瞳でそれを受け入れてくれた。
「ヘタレだし、気づくのおそいし…」
「うん……ん?春いつから私のこと好きだったの?」
「……きょうちゃんなんか、きらい…」
そんなわけがないのに、そのやさしさにまた甘えて。
「春、彼女になってくれる?」
「……私、付き合ったらめんどくさいかもよ?」
「いや、もう十分…」
「なに?」
「なんでもないです…」
私が笑って、あなたもつられて。その顔に目を奪われて、私よりも少し背の高いあなたを見上げた。
「ねえ、春」
「うん?」
「ちゅーしてもいい?」
答えなんてわかってるみたいに、瞳は触れあって。
「だめっていったらきょうちゃん我慢できるの?」
わざと聞いてきたあなたへ、最後にもう一つ。
甘い声でいじわるをあげた。
「──…できない」
その言葉を合図に、月が照らす影はひとつになった。
触れた部分から伝わるその気持ちがこぼれないように、背中にそっと手を回して、私の気持ちもあなたに届くようにぎゅっと抱きしめた。
ふたりの気持ちが夏の夜風に流されてしまわないように、ひたむきにあなたを想いながら──。
私を家に送り届けたあなたは、乗ってきた自転車を忘れて帰って。朝になれば"寝る前のこと覚えてる…?"なんて電話をよこして。
"きょうちゃんじゃないんだから忘れるわけない"と、そう返した私にまた口をつぐんでいた。私は一睡もできなかったのに、すやすや寝ついたのかなと思うと、少しだけ悔しかった。
きょうちゃんが好き。
本当は私も、あのときあなたの気持ちにそう応えたかった──。
*********
翌日の私は当たり前のように寝不足で、行きの飛行機では母が心配するほどに眠り込んでいた。祖母の家についてもあくびが止まらず、睡眠はちゃんと取らなきゃだめよ──と小言を言われるくらいに。
一週間、あなたに会えない退屈な日々。スマホをあまり見ないあなたはチャットをいれても気づかないから、夜にできる電話だけが毎日待ち遠しかった。
「冬、あなたがちゃんと面倒みてあげないと」
「母さんまたそんなこと言って……春ちゃん気にしなくていいのよ?」
昔から繰り返される祖母と母のそんな会話も、目の前の食事も頭には入ってこない。あなた以外が入る隙間は、この日の私の頭には少しもなかったから。
「なに言ってるの、あなただって春ちゃんの歳のときはいろいろ好き勝手してたでしょ」
「はぁ、またその話…」
「ようちゃんようちゃんって、ろくに帰りもしないで」
「……ようちゃんの話はやめて」
──ようちゃんって誰だろう。
こういう言い合いは日常茶飯事だったけれど、その名前には聞き覚えがなかった。私が幼いころに離婚した父も、そんな名前ではなかったはずだ。気になったものの、この二人の間に割り込むと余計に話が長くなってしまうからそれはやめておいた。
早く食事を終わらせてきょうちゃんに電話をかけたい、声が聞きたい。やさしすぎる恋の温度に浮かされ、あなたのことしか頭になかった私は、次に続く祖母の台詞で自分の立場を思い知らされることになる。
「それで?いつから春ちゃんは向こうに行かせるの?」
音も立てず、静かに箸が止まる。
「二十歳前に、とは思ってるけど」
「それじゃあ遅いわよ、あなただって高校生のときはもう向こうに行ってたでしょう?」
「そーねぇ……じゃあ高校卒業くらいかしら?どう?春ちゃん」
私の前で私の話が、私を置いていったまま進んでいく。
そんなことは慣れっこだったけれど、まだ時間はあると、そう思っていたから。
だから私は──。
「………お母さんは、私にどうしてほしいの…?」
「うーん、将来を考えるなら早めに…とは思うけど、もしあなたが──」
「うん、わかった。そうする」
「…そう?じゃあ高校卒業したら一緒に向こうに行きましょうか」
言えなかった。嫌だ──と。
祖母の求めることが、母の望むことがきっと、姉にたいして求めたそれなのだから。
私はあなたといたいという理由だけで、それに背くことはできなかった。
私の母は、モデルを育成する企業の責任者だ。
名の馳せた海外モデルが多く所属する母の会社は、世界的に見てもトップレベルの大企業。祖母も母も、当人たちは若いころ、その業界でたくさんのスポットライトを浴びながら多くの実績を残したレジェンド級。
もともと大きかったその企業を一回りも二回りも大きくしたのは、モデルだけでなくコレクションの運営に手を出した曾祖母と、ブランド事業にも参入した祖母。そして、デザイナーとプランナーを抱え込んだ母の功労。
中でも私の母の功績は計り知れず、もともと現役時代から桁違いに名声を博していた母は、その売り上げだけでも代々のそれとは比べ物にならないほど。絶頂期中頃で電撃的に引退を発表すると、経験を生かして育成サイドへ。それから若くして会社を継ぎ、独自のやり口と手広い商法で、傾いていた経営を一気に立て直した優秀な経営者でもある。
私は生まれながらにして、その跡を継ぐことが決まっていた。
それは別に、嫌々というわけでもない。
幼少期、母がステージで輝く姿を見て憧れを抱いた。いつか私も同じステージに立ちたい──そう思って、自分からその道を志した。祖母と違い、母がそれを無理強いすることはなかったし、今でもその夢は私の中にある。
ただそれは形を変えて、自分の夢ではなく、姉のモノになってしまったけれど。
"形だけの責任者"──何代か前の代表は端から経営サイドへと回り、モデルとしての実績を何一つ積まなかった。当然、経営はうまくいかず、まわりからは形だけと、そう呼ばれたそうだ。
だから私は母のように実績を作るため、いずれ日本を離れることになっていた。
経験がまったくないわけではなかった。小さなころから母のスクールでパーソナルレッスンを重ねて、十代に入るころには海外でコレクションに参加することもしばしば。
"科木 冬の娘"である時点でそれなりに注目を浴びて、このころでもまあまあの経験を積んでいた。高校時代はまだ、日本のメディアにはあまり顔出しをしていなかったから、それにあなたが気づくこともなかったけれど。
学業を優先させたいという母の思いもあり、それは長期休みや休日を利用してのことだったから、祖母が早く本腰を入れさせたいと思っていることも知っていた。
"いずれ"はそう遠くないと分かっているつもりだったけれど、それは私が思っていたよりもやや急ぎ足でやってきてしまった。
"まだ経営から手を引かなし、春ちゃんなら二十歳からでも大丈夫よ"という母の言葉を鵜呑みにしていたから。
もし日本の大学でやりたいことがあれば出てからでもいいと、口々にそう言われていたから。
私はまだもう少し、自分の時間があると思い込んでいた。
だからあなたを好きになって。
だからあなたにも好きになってほしかったのに。
それなのに、その"いずれ"がこんな目の前に迫っているなんて──私はこの日それを知って、無邪気にあなたに恋心を寄せた自分を責めた。
『春?聞いてる?』
「あ、ごめん……ちょっと眠たくて」
『じゃ明日またかける』
「…きょうちゃん寂しくならない?」
『……まあ、なるんじゃない』
「もう一回言って」
『やだ、おやすみ』
「あ、きょうちゃん──」
『ん?』
「…んーん、なんでもないっ」
『?じゃ、切るわ』
本当はこのとき、あなたに伝えたいことが、伝えなければいけないことがたくさんあった。
自分の家のこと。仕事のこと。高校を卒業したら、海外に行くこと。
そしてその、先のこと。
戻ったら、きっとあなたに伝えよう。
私はもう切れている電話を握りしめ、着信履歴に残るあなたの名前をただじっと見つめていた──。