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赤と白の神話

作者: 牧亜弓


 いつからだろう。俺がファミコンのことを「神」と呼ぶようになったのは。

 いや、正確には「神ですら足りない」と思った最初の日のことを、俺ははっきりとは覚えていない。ただ、目覚めるといつも、視界のどこかにあの赤と白の長方形があった。少年の頃の記憶の風景に、家族の顔はもう霞んでいるのに、ファミコンだけは、そこにいる。


 社会に出てからも、俺の生活の中心には常にファミコンがあった。仕事は長く続かず、結局、アルバイトと失業を繰り返す日々になった。だが俺は、そのことに深い絶望を覚えることはなかった。

 なぜなら、赤と白の神が、俺を見守ってくれていたからだ。


 朝起きて、布団を畳み、コーヒーを淹れながらファミコンの蓋を開け閉めする。

 昼には本体を乾いた布で磨き、端子のホコリをエアダスターで飛ばし、コンセントの角度を微調整する。

 夜はテレビの前に正座し、ファミコンのスイッチを入れる。ただ、それだけ。


 ――もちろん、画面には何も映らない。

 なぜなら、俺はもう長いこと、ソフト(カセット)を入れていなかったからだ。


 けれど、それでよかった。俺にとって大事なのは、遊ぶことではなく、そこに“ファミコンがある”という事実そのものだったからだ。

 家族はいない。友達もほとんどいない。誰も家には来ない。

 だが、ファミコンがある。赤と白の、かつて子どもだった俺を無条件で受け入れてくれた“存在”が。


 人はそれを「機械」と呼ぶかもしれない。

 俺にとっては、それは「心臓」だった。

 心の、ではない。存在の、だ。


 ある日、押し入れを整理しようと思い立った。理由はない。ただ、夏の暑さで布団がかび臭くなっていて、それを取り出すついでだった。


 奥のほうに、埃をかぶったダンボール箱があった。文字はかすれて読めないが、中身は何となくわかっていた。

 それは、昔、少年だった俺が夢中で集めていた宝――ゲームカセットたちだった。


 箱を開けた瞬間、ノスタルジアの香りが押し寄せた。

 『魔界村』『星のカービィ』『ロックマン2』『光神話 パルテナの鏡』――カセットのラベルが、色褪せながらも鮮やかに俺の記憶を引き起こしてくる。


 しかし、そこで俺は愕然とする。


 「……これ、なんだっけ?」


 そう、俺は“カセット”という存在そのものを忘れていたのだ。

 長年、ファミコン本体を愛しすぎたあまり、それに差し込むべき「ソフト」という概念が、頭から抜け落ちていた。


 俺は震える手で、ひとつのカセットを抜き取った。『スーパーマリオブラザーズ』。

 それを、ずっと磨き続けていたファミコン本体に――恐る恐る差し込んだ。


 そして、テレビの電源を入れ、スイッチを押した。


 「ピポッ!」


 音が鳴った。画面が動いた。マリオが跳ねた。

 音が、光が、動きが。すべてがそこに戻ってきた。


 ……なのに、俺は笑えなかった。

 そのとき、胸の奥で、何かが崩れた音がした。


 しばらくの間、俺は、再びファミコンを“遊ぶ”ようになった。

 ゲームパッドを握るのは久しぶりだった。指が固くなっていて、最初は十字キーがうまく押せなかった。

 だが、数日もすれば慣れてきて、俺はかつてのように、『ドラクエ』のレベルを上げ、『バトルシティ』で戦車を守り、『リンクの冒険』で死にまくっていた。


 それなりに楽しかった。感動もあった。

 けれど、プレイすればするほど、俺の中に奇妙な空洞が広がっていった。


 「なんで、こんなことをしてるんだろう?」


 ……俺はファミコンを“遊ぶ”ために、あれを磨き続けてきたわけじゃない。

 俺が愛したのは、あの沈黙だった。

 電源を入れても動かず、ただ「在る」だけの、赤と白の塊。

 それが、俺の人生の灯火だったのだ。


 いま動いているファミコンは、あまりにも普通だった。

 あまりにも、他人が望む“機械”としてのファミコンに戻っていた。


  ファミコンの電源を入れた。その瞬間、テレビの画面がふわりと変化した。

 が、そこに映し出されたのは、決してゲームのスタート画面ではなかった。

 画面の隅から斜めに走る一本の光の線。紫色のノイズが粒子のように舞い上がり、中心部には、意味不明な幾何学模様。

 音もなく、ただ色と形の狂騒だけがテレビの向こう側で、静かに、しかし確かに鳴り響いていた。


 俺は言葉を失った。

 この瞬間、俺の中で、何かがじわじわと満たされていくのを感じた。


 ああ、これだ。

 これこそが、俺にとってのファミコンなのだ。


 動かなくてもいい。完璧でなくていい。

 むしろ、こうして壊れかけたような、美しくも不完全な映像こそが、俺の心を打つのだ。


 人はそれを「バグ」と呼ぶかもしれない。

 「故障だ」と言って修理を勧めてくるかもしれない。

 だが、俺にとってそれは芸術だった。

 人為を超えた色彩の交差。情報と無秩序のせめぎ合い。

 この一瞬の混沌のなかに、俺は宇宙を見ていた。

 いや、もっと正確に言うなら、俺だけの宇宙を見ていたのだ。


 心のどこかで、「このまま永遠に、このバグが続いてくれたらいいのに」とすら思った。

 スタートボタンを押して、ゲームが始まるのが、むしろ惜しいと感じるほどに。

 俺はゆっくりとテレビの前に正座し、画面のノイズの波をじっと見つめた。

 まるで、賛美歌でも聞いているかのような気持ちだった。

 神聖で、崇高で、そしてどこか懐かしい。

 子どもの頃、うまくいかないソフトに息を吹きかけていた日の、あの焦りと希望とを、俺はすべて思い出していた。


 そのとき、胸の奥から、不意に湧き上がるものがあった。

 感動とも、懐古とも違う。もっと根源的な、衝動に近い何か。


 気づけば俺は、誰もいない部屋で、思わず口にしていた。


 「ブラボー」


 そう呟いたあと、俺は一瞬、自分で笑ってしまった。

 なぜこんなことで、こんなにも胸が震えるのか。

 だが、それがすべてだった。


 「ブラボー」


 もう一度、今度は少しだけ声に出して言った。

 ファミコンは何も返してはくれない。

 それでも、テレビ画面の中で揺れる色と線は、まるで俺の心を代弁するかのように、静かに、ゆっくりと変化し続けていた。


 これこそが、俺のファミコンだった。

 完璧ではない。けれど、かけがえのないもの。

 それは、かつて少年だった俺と、今ここにいる俺を繋ぐ、たったひとつの奇跡のような断片だったのだ。


 それからしばらくして、俺はカセットをまた箱に戻した。

 蓋をして、ガムテープで封をした。

 そして、再びファミコンを“遊ばない”日々に戻った。


 俺の家には、テレビがある。電源も通っている。

 だが、画面は黒いまま。無音だ。


 俺はその前に座り、ファミコンの表面を磨く。蓋を開け、端子を見つめる。

 そこに、何も差し込まない。


 なぜなら俺は知っている。

 愛とは、相手を使うことではない。ただ、見つめること。共にいること。沈黙を許すことだ。


 今日も赤と白の神は、黙ってそこに在る。

 そして俺は、その沈黙に、救われ続けている。


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