喧嘩の後③
柚子の香が心地良く香る――長き眠りから覚め瞼を上げると、窓から差す光は赤暗く、夕暮れ時を迎えようとしている。
まだ意識は呆としながらも、ここは己が館の寝室であると気が付いた。
「ジン……」
隣で眠っている筈の愛しき存在を探して手を伸ばす。ふにゃりと柔らかな素肌を撫でた……つもりが、其処には硬い胸板が。
予想だにせぬ感触を忌避した指先を瞬時に引っ込め、盛大に眉を顰めて隣を見ると、添い寝の相手はジンではなくタカオ神である。
目覚める気配もなく眠り込んでいる姿を眺めながら、罵り合いながら決闘をした事を思い出した。
牙で抉り取ってやった筈の胸元を見る……すっかり胸の穴は埋まり、逆鱗は顕現したままではあるが、傷は癒えている。
最後にでかい電撃を受け……何とかあの空間を出て……それから……
記憶を反芻しながら両の拳を握り締め、痺れが無くなっている事に気付く。
〝僕が癒して……〟
愛しき女神の声が耳の内に響く。
ジンが……癒した? いや、しかし……
考えていると、此方へゆっくりと向かい来る足音が聞こえ、やがて戸が開いた。
柚子の香が強くなる――ジンが急須と茶碗を乗せた盆を手に寝室へと入り、脇机の上に置いた。
丸椅子に腰掛け、小振りの茶碗二つに順にとくとくと茶を注ぎ入れると、香りが更に立つ。
ことん、と音を立てて一つ目の茶碗を円卓の上に置き、二つ目を手に取りふと視線を上げると、寝転んだまま首を擡げていた王海と目が合った。
ガチャン、と茶碗を卓上に放り置くと、急ぎ駆け寄って来る。
「やっと起きましたね」
顔を覗き込んで嬉しそうに目を細めて微笑みかける、いつもと変わらぬ笑顔に安堵し、王海は口付けようと身を起こす。
が、ジンは突然、眉を顰め、すっと身を引いた。そのままの表情で覗き込みながら、身体はどうですか? と尋ねる。
王海がジンの手を取ろうと手を伸ばすと……また、掴めない。
「ああ……まだ完璧ではないが、普通に動けそうだ」
「良かった、です」
そうは言いながらも、ジンは今度は作り笑いを張り付けて、何か怒っているように見える。
「儂は……どうなった? 何故此奴が、ここに?」
ジンは椅子に戻ると、お腹を押さえながら腰掛ける。茶碗から立ち上る香りをすぅーっと吸い込み、小さく息を吐くと、直ぐには口を開こうとはせずに座したままでいる。
何故だか沈黙が刺さる気がして、王海は押し黙った。
「……二神とも、僕が治療して寝台に運びました」
「力は使うなと……」
「はい。言いつけは守って、薬で治療しました。移動させる時は少しだけ使いましたけれど、微々たる物です」
「放っておけば治ると言うただろう?」
寝台から降り、ジンの側へと歩を進めようとした所で裸である事に気付いたが、そのまま近く寄る。
ジンはがたり、立ち上がると、くるり、背を向けた。
「王海が元気そうで安心しました」
王海は細い肩に掌を乗せる……ジンはその掌の上に自分の手を重ねた。
「あったかい……」
王海は抱き締めようと、そのまま後ろから両腕を広げて包み込もうとしたのだが、それを躱してジンは肩越しに言う。
「……僕、応接間に居ますから」
振り向きもせず、ジンは静かに寝室を出た。
「何だ、怒っておるのか?」
「そのようだ」
応える声に振り返ると、何時の間にか目覚め、既に下穿きを身に着けたタカオ神が、白い中衣の片袖に右腕を通していた。
「此奴……!」
怒りが未だ収まらず王海はタカオ神に掴みかかろうと寝台へ足を掛ける。
「賦神が怒っているのは我らが戦った所為であろう。決着が付いて尚まだ戦うか?」
寝台を乗り越えタカオ神の衣の襟に両手を掛けた所で、王海は唸って動きを止めた。
タカオ神は冷ややかな目で王海の体を眺め遣る。
「見苦しいな、早く衣を身に着けろ」
その指差す方向には、ジンが用意したのであろう、銀鼠の衣や帯、下穿き等の普段着が一式、綺麗に畳んだ状態で重ねて置かれていた。
「くそ……元はと言えばお前の所為だ。お前がどれ程想うてもジンは儂の物だからな」
タカオ神に背を向け、衣を身に着けながら王海は言う。
「懸想して居る訳では無い。賦神と二神だけで話したい事がある、と言っても御前は許さなかったろう」
「当然だ!!」
「だから賦神に許しを得てあの空間に招いたのみ。御前が危惧しているような事は何も無い」
「有れば確実に息の根を止めておるわ。よくも儂の子を宿したジンと二神きりになろうなどと……」
「話さない御前が悪い」
衣を身に着け終え、王海は振り向いてタカオ神を睨め付けた。
そんな敵意も全く意に介さず、紺色の衣を身に着けたタカオ神は円卓と共に配されている丸椅子に腰掛けた。
「せっかく賦神が淹れてくれた茶だ。御前も飲んで少しは落ち着け」
徐に茶碗を手に取ると、優雅に口元へと運ぶ。
苛苛としながらも、喉の乾きを覚えていた王海はタカオ神の向かいに腰掛け、茶碗を手にして一口飲み下した。
柚子の砂糖漬けと生姜を組み合わせた茶は、酒以外口にはしない王海には甘過ぎたのだが、鼻腔に抜ける柑橘の爽やかな香に少し気持ちが落ち着いた。
タカオ神は茶碗を卓上へと置くと、涼しい顔で、ところで、と切り出す。
「お産はどうするつもりだ? 助け手が要るだろう」
「ジンは独りで産むと言うておる」
「やはり大馬鹿なのか?」
言われ無き悪口を受け、何!? と王海は語気も荒く問い返す。
「お産の大変さを知らぬのか。ましてや賦神は稀有な身。母体に何か起こらぬとも限らぬ」
「う、ぐ……それは……だが、ジンが独りでも問題無いと言うて……」
「龍神の郷へ来い」
突然の、思いも寄らぬ提案に、王海は唖然として黙り込んだ。
「我らは近く、天神界へと居を移す事となる。それまでに御前だけでは無く、賦神も色々な事を学ばねばならぬ」
「ジンはこの神境に残して……」
「通い婚か? では賦神はこの神境の管理をしながら独り子育てをし、敵がおれば子を守りながら戦う事になるが」
冷ややかな目で淡々と語るタカオ神に何も言い返せず、王海はうぐぐ、と唸る。
「分かったなら、賦神とともに我が郷へ来い」
「儂の神境を放っておく訳には……」
「心当たりがある。全て、私に任せておけ」
既に全てはタカオ神の胸三寸で決まっているのであろうが、己の心持ちなど全く無視した物言いに苛立ち、王海は茶を飲み干して立ち上がった。
そのまま背を向け戸口へと向かい、戸を開く。
「名も変えねばならぬぞ。神名を……」
「うるさい!! 儂らは放っておいて欲しいんだ、本当は!!!」
そう大声を上げて荒々しく戸を閉め、王海は大股で応接間へと向かった。
誓いを交わした事に後悔しては居ないが、己の神境で穏やかに過ごす時に水を差された上に、ジンを怒らせてしまった事に悶々としながら、応接間へと向かう。
何故、ジンは怒って居る? 奴との戦いのせいだと?
分からないままに部屋の外へ着くと、中からジンの笑い声が漏れ聞こえてきた。
機嫌が直って居る様子に安堵して戸を開ける……と、黒い衣の男神と談笑している様子が目に飛び込んで来た。
「おお、師匠。邪魔しておるぞ」
クラオ神が笑みながら立ち上がる。
卓上には空の箱が並び、美しい小さな鞠、布製の吊るし飾りが置かれ、鮮やかな朱色の独楽が回っている。それを眺めていたジンは、顔を上げて王海の方を向いた。
「クラオ神様から頂きました」
独楽を手に取り、嬉しそうにジンは笑っている。
此奴もか、と、内心頭を抱えた時……クラオ神が居住まいを正して王海に向き合った。
「此度は奥方のご懐妊、誠に喜ばしき事にて、僅かばかりの祝いの品をお持ち致した」
畏まって言うクラオ神を見て、王海は疑問顔になる。
「何故、それを……知っておる」
「昨日、タカオ神様を探しにいらして、少しお話しましたので」
すっと立ち上がりジンは言う。
「良かったの、師匠が目覚めて」
はい、とジンが笑顔で返す……と、戸が開いた。
タカオ神が部屋の外から中を覗き込んで言う。
「帰るぞ」
「おう、兄者」
タカオ神を見て苛立ちが再燃し、王海が近寄ろうとするが、その間にクラオ神が割って入り、にこやかな笑顔で軽く頭を下げた。
「師匠よ、兄者が奥方の世話になったようじゃ。感謝する」
「ああ、確かに見事な治療……助かった」
何も言わずにただ、微笑み、ジンは小さく頭を振った。
「僕、お見送りして来ますから……王海は待っていて下さいね」
ゆっくりとした動作で戸口へと向かうと、ジンは王海を閉じ込めるようにして戸を閉めた。
何故かは分からないが怒っているジンを、追おうとはせずに王海は座して待つ。
手持ち無沙汰になり、目の前に並べられていた鞠と独楽を手に取り、眺めた。
そういえば、こう言った物も用意せねばならんのだな。クラオ神はジンに色目を使った訳では無いか……彼奴はそう言う男では無い……
疑心暗鬼になり、悋気に呑まれそうになっている己を、肚の底で溢れそうになる暗い闇を自覚し、王海は深く息を吸い込み、静かに吐き出した。
中々に戻らないジンを待ち兼ねて神境の内に意識をやる……と、館の内には居らず、独り、暗くなりつつある森を散策している。
王海は慌てて立ち上がり、応接間を飛び出した。
館の外に出ると同時に狼と化し、追い駆ける……見る間に追い付くと、葉擦れの音にジンが振り返った。
曇っていた目が僅かに輝くのを見て取り、狼は側に寄ってジンの足元に鼻を擦り寄せた。
ジンは少し屈んで手を伸ばし、狼の耳に触れる。指先でその三角の輪郭をなぞり、弄ぶように弾くと、狼は擽ったそうに目を瞑ってふるふると頭を振った。
くすっと小さく笑うジンを見上げて目を細めた狼は地に伏せそのまま凝とする。首を背中の方へ向けて目配せすると、ジンは二度、その背を撫でてから跨った。
その背に重みを確かに感じると、狼は首を上げ、四肢で立ち上がった。ゆるりと歩き始める狼の背の毛を指先に絡めながらジンの口元が綻ぶ。
狼はジンを乗せたままで暫く歩き、やがて大樹の前で足を止めた。その木の根本から大きく裂けて出来た洞を通り抜ける……其処は、静謐な気に満ち満ちていた。
空気がうねり木立の間から見える空には波が揺らぐ――余りにも濃い神気に空間が恰も海であるかのような質感を帯びている。
そのぬるりとした温かな感覚が何故か懐かしく思え、寛いだ心持ちで安らいだジンはほうと息を吐いた。
不思議な事に、入って来た大樹よりも更に数段大きな樹の下で、苔生したその小さな森をジンは眺めた。
狼が伏したので、地に足を付ける……狼は神身と化してその隣に並び立ち、恐る恐るその細い指に触れる。顔を上げて微笑んだジンに安堵し、指と指を絡ませ合いその手を柔らかく握った。
「ここは儂が生まれた所でな。狼から神に召し上げられた……神境の芯たる場だ」
ジンはただ黙って王海の肩に頭を凭れ掛けさせ、手を握り返す。
何時の間にか日は落ち、夜の音がくぐもった響きを持って辺りを包み込み、二神は互いの温かみを感じてただ静かに、身を寄せ合う。
やがて、少し身動ぎをし、ジンが口を開いた。
「……僕、王海が目を開けた時……とっても安心して……」
うん、と王海は静かに相槌を打つ。
「安心した途端に、何だか分からないけれど腹が立って……」
たぶん、とジンは続ける。
「僕……王海には戦って欲しくない、んだと、思います……」
王海はすっと屈んで片膝を着くと、ジンの手の甲を己の額に当て頭を垂れた。
「スマン。ジン……お前を愛おしく思う余りに己を失っておった。許してくれ」
顔を上げ、真摯にこちらを見上げる琥珀色の瞳をジンは見詰める。
狼の姿で追い掛けて来たその時に、既に怒りは解けては居たのだが、その光る瞳に見蕩れジンは黙り込んだ。
何と言おうか、言葉が出ないまま、立ち尽くしてしまう――と、不意に、きらきらきらと綺麗な音が聞こえた。
王海もそれに気が付いた様子で、僅かに眉が動く。
闇に包まれた森の木の間から月の光が差し、揺らぐ光の幕となって柔らかくジンを照らす。
「……許します」
何時もと同じ、屈託の無い微笑みを浮かべたジンに、王海は安堵の笑みを返して立ち上がった。
そっと抱き上げると平らな岩の上に腰掛け、ジンの身体を両腕で包み込む。
「ここは……とっても心地好いですね……王海の守る土地……僕、大好きです」
「儂も……だが、タカオ神の奴に、龍神の郷へ来いと言われてな」
「なぜ?」
「……お産で何か起こると……危ない、だろう? 助け手がある方が……」
ジンは片手を伸ばし王海の口を塞いだ。
「僕は、産まれ出るこの子たちの手助けをちょっとするだけですから……独りで大丈夫です。それに……」
その手を頬にやると、柔らかな手のひらで撫でる。
「王海、行きたくない顔、してますよ?」
真っ直ぐ此方を見詰める白緑の瞳に囚われ、王海の心が揺らぐ。
儂はどんな顔をしておるんだ……
ね、とジンは顔を間近に近付け、コツンと額と額を合わせた。
「此処とは違う世界へ逃げる……と言う手段もありますよ?」
甘い香が強くなるのを感じながら、逃げる場所などあるまいに、と王海は不可思議な心持ちになる。
「〝誓い〟に縛られているのですよね……?」
知って居たか、と思いながら、王海は小さく首を縦に振る。
「僕は王海の隣に居られるならどこだって良いんです」
もう片方の頬にも手が添えられる。
「遠い遠い……此処じゃない世界でも……」
柔らかな唇に唇を塞がれながら、ジンの身の内から漂う香を味わう……そこにはジンと似た、しかし同じでは無い香も混ざっている。
再び――きらきらきらと綺麗な音が聞こえてきた。
心地好く感じながら、ああ、そうか、と、独り得心し、王海はジンの内から流れ来る神気に心地好く目を細める。
己の新たな一族である子らの笑い声に、王海の揺れていた心が胸の奥に定まった。
やがてジンが唇を離すと、王海は快活に笑んでみせる。
「子らは、此処が気に入ったようだ。笑うておる」
きらきらきらと音を奏でて笑う子らの神気が、二神の身に纏わり付く。
王海は両の腕に少し強めに力を込め、ぎゅ、とジンを抱き締めた。
「ジンよ、儂はこの地が好きだ。此処でお前と子どもたちと暮らしたい。だが、不本意に交わしたとは言え誓いは神聖で……破られるべきでは無いものだ」
ジンは神妙に眉を顰めながらも、静かに聞いている。
「だから、龍神の郷へ行こう。彼奴の気の済むまで付き従い、誓いが達せられたら……ここで、儂ら一族だけで、静かに暮らそう」
眉間に入れた力をふっと抜いて微笑し、こくん、ジンは頷いた。
月に照らされ……何と美しい……
「サクヤ……」
王海は不意に、降りて来た言葉を呟く。
不思議そうにジンは小首を傾げる。
「……治癒の女神……神名……サクヤ……通り名は神」
王海はジンの掌に〝神〟の字をなぞる。
「治癒の、女神?」
「そうだ。郷で暮らすなら別の神名が要る。表向きは神名で暮らし……儂と居る時は〝ジン〟に戻るんだ」
「サクヤ……」
新たに授かった名を言葉と言う形と成して発する――月の光が祝福するかのように煌めいて雪のように舞いながら二神の上に降る。
「ありがとう……王海……」
余りの美しさに、その笑む唇を――己の名を呼ぶ声を唇で受け止める。
きらきらきらとさざめく音と煌めきに包まれ――初めて、一つになれたような気がした。