9.雪解けのふたり
結局、恋乃丞は特命巡回役員を引き受けることにした。
十年以上修練し続けてきた我天月心流だが、この平和な時代にこんな殺伐とした技術が役に立つとは到底思えなかった。恐らく、今後の人生でも絶対に使うことは無いだろうと思っていた。
ところが、思わぬ形で自らの特技を活かす場面に出会った。
従兄弟達の様に豊かな才能に恵まれている訳ではなかったが、しかし恋乃丞も、皆伝級に匹敵する技術に到達していることは密かな誇りだった。
その技術が、力が、皆の為になるというのなら、幾らでも使ってやろう。
陽香との溝が生じて以降、学生生活に何ひとつ前向きな材料を見出すことが出来ていなかった恋乃丞だが、漸く自分の進むべき道に巡り会えた様な気がした。
「いやぁ、本当に助かるよ笠貫君。心から、御礼をいわせて貰うよ」
隆太郎が端正な面に爽やかな笑みを湛えて、恋乃丞の手を取った。これ程の美麗なイケメンに握手を求められたことは今までの人生でただの一度も無かっただけに、変な緊張感に襲われてしまった。
「私からも、御礼をいうわ。貴方の力、期待してるから」
次いで美夏が、恋乃丞の方にぽんと手を置いて艶然と微笑んだ。
彼女の様な大人な雰囲気の女性と接するのは、自分の母親以外ほとんど皆無だった恋乃丞。これはこれでちょっと違う方向性の緊張感に全身が覆われた。
「ところで早速なんだが、用意して欲しい物はあるかい?」
と、ここでお洒落なメガネをくいっと押し上げながら生徒会役員のひとりが問いかけてきた。
会計担当の竜崎丈倫という青年で、これまた憎いぐらいのイケメンだ。しかし嫌味な感じを与えないのは、その柔らかな物腰のお陰だろう。
丈倫は、予算はそこそこあるから多少の装備品なら自前で用意出来ると豪語した。が、恋乃丞としては余り大掛かりな装備は必要無いと考えている。
「ほんなら黒のニット目出し帽、黒のスウェットジャージの上下、後はヘアピンを何十本か、用意しといて下さい」
「ヘアピン?」
丈倫が眉間に皺を寄せて訊き返してきた。
隆太郎や美夏も、どういうことなのかと興味深げに視線を寄せてきた。
「いや、ピッキングに使うんで……非合意の相手を強引に襲う犯罪紛いのヤリサーの場合は防犯カメラを嫌うこともあるみたいで、オートロック付きマンションを敢えて使わないことも珍しくないです」
だから普通の一般鍵を使用する昔ながらのアパートが根城の場合には、解錠の為のヘアピンが必要なのだと、と恋乃丞はいい切った。
「……笠貫君、随分、詳しいんだね……それに、君ピッキングなんて出来るんだ」
隆太郎が幾分呆気に取られた様子で訊き返してきた。
美夏も丈倫も、驚きを禁じ得ない顔つきで不思議そうな視線を送ってくる。
(あ、しもた)
恋乃丞は内心で頭を掻いた。
先程語った情報は全て、ハッカー集団『マインドシェイド』のリーダーである従兄の厳輔から聞きかじったものだった。
更にピッキング技術は、暗殺拳である我天月心流では必須の修得技法だ。暗殺の標的に近づく為には、錠前程度は自力で解除することが出来なくてはならない。
その為、器具を用いた解錠技術は早い段階で習得させられるのである。
しかしこの生徒会室に居る面々はそんなことを知る由も無い。彼らは一様に、恋乃丞の妙にプロじみた注文と知識にただただ驚きの顔を浮かべるばかりであった。
「いやまぁ、詳しい話はまたおいおいと……」
適当に誤魔化し笑いを浮かべながら、恋乃丞は注文した品の発注だけは確実にお願いしますとだけいい添えて退出しようとした。
すると、その目の前に泣き腫らした目がまだ赤い陽香が、行く手を遮る様に割り込んできた。
「お、おぅ……何や、陽香」
恋乃丞は真剣な面持ちの美少女に幾分圧倒され、僅かに後退った。
しかし陽香の口から飛び出してきたのは、全く想定外のひと言あった。
「あの、恋君……その……い、一緒に、帰ろ……」
「ん? お前、生徒会の仕事はエエんか?」
思わず眉を顰めて、他の役員らに振り向いた恋乃丞。しかし隆太郎を筆頭として、生徒会の面々はいずれも穏やかな笑みを湛えて頷き返すばかりだった。
一緒に帰って良い、ということなのだろう。
この時どういう訳か、怜奈も腕を組んでうんうんと頷いている。何故か後方腕組師匠の様な顔つきだった。
「うん、まぁ、仕事無いんやったら別にエエけど」
そんな訳で恋乃丞は陽香と連れ立って教室へ引き返すことにした。
どうやら陽香は、そこそこ落ち着きを取り戻してきたらしい。まだ何度か目元を拭っていたが、涙は収まった様だ。
そんな陽香に恋乃丞は、足並みを揃えながら横目に視線を流した。
「ホンマにすまんかったな。三年もお前を苦しめとったなんて、俺も大概アホ過ぎるわ」
「うぅん、良いの……悪いのは私なんだから」
陽香は穏やかな笑みを湛えて、小さくかぶりを振った。
「恋君はいつだって私の為に頑張ってくれてたのに……どうして最初に恋君を信じてあげられなかったんだろうって思うとね、あの時の私を思いっ切りぶん殴ってやりたい気分だよ」
ぺろっと悪戯っぽく下を出して、照れ笑いを浮かべる陽香。
これだ。この笑みが、見たかった――恋乃丞は、胸の内にわだかまっていたもやもやが、一気に晴れてゆく様な気分を味わった。
(ガキの頃は、陽香を泣かせる奴は許さんなんてイキっとったけど……俺が一番泣かせとるやんけ)
恋乃丞も己の浅はかさを改めて呪った。
そして、もう二度と陽香を悲しませないと自らに誓った。