8.特命巡回役員
恋乃丞は思わず立ち上がってしまった。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれや陽香……お前それやったら、何でもっと早ういわんかったんや」
「いおうとした……いおうとしたけど……だって恋君、ずっと……ずっと私を避けてたじゃない。私、何度もこの話伝えようとしたけど……私が近づいたら、恋君いつも、逃げ回ってたじゃない……!」
陽香は肩を震わせながら、両掌で顔を覆った。
対する恋乃丞は愕然としたまま、脱力したかの様にがっくりと腰を下ろした。
何ということだ。
陽香の視界に入らぬ様にと努めていたことが、却って彼女の心を追い詰めることになってしまってとは。
勿論、知らなかったことだから恋乃丞に罪がある訳ではない。
だがそれにしても、もう少し陽香の様子をきちんと観察し、彼女の表情をしっかり見ていたなら、こんなことにはならなかっただろう。
恋乃丞は唇を噛み締めた。
自分は一度ならず二度までも、陽香の心を傷つけてしまった。ならば尚のこと、彼女の前から消えるべきなのではないのか。
だが、そんな恋乃丞の思考を先読みするかの様に、陽香は涙に濡れる瞳を上げて恋乃丞の顔を真正面からじっと見据えた。
その視線には、もう二度と自分の前から逃げないで欲しいという切実な感情が込められていた。
「だから私……この学校に入ってから何度も恋君に話しかけようと思ったけど、でも、もしまた逃げられたらって思ったら怖くなってきて……それで自分の居場所だけでも先に確保しておこうと思って、色んな友達、沢山の友達を作ったの。そうしたら今度は、その友達が皆、私と恋君を引き離そうとして……でも私、恋君に拒絶されたらと思うと、どうしても皆との繋がりが断てなくて……それでいつしか、私は陽キャ組、恋君は陰キャ組みたいな色分けされてて、それで余計に声をかけづらくなってしまって……御免、御免ね恋君……私、こんなズルくて薄汚い女で、自分が何やってるかも分かんなくて……でも恋君をずっと苦しめて……ホントに……ホントに、御免ね……」
そこから先は、言葉にならなかった。
陽香はこの三年間、抑えに抑えていた感情をこの場で一気に爆発させたかの如く、ひたすら泣きじゃくった。対する恋乃丞は何もいえず、ただ茫然と涙に暮れる陽香を見つめるしかなかった。
と、ここで美夏が立ち上がって陽香の傍らにしゃがみ、その背中を優しくさすってやった。美夏の美貌には憐れみではなく、後輩をいたわる慈しみの情が浮かんでいた。
怜奈は呆然と陽香と恋乃丞に対して交互に視線を流していたが、やがて彼女も立ち上がり、未だに涙が止まらない陽香の傍らに寄り添っていった。
その間、恋乃丞はじっと瞼を閉じて頭の中を整理していた。
陽香にこんな辛いを思いをさせてきたことは事実だ。その点についてはまた改めて謝罪し、彼女の心を慰めてやらなければならない。
だがそれはそれとして、恋乃丞は何故今日この場に自身が呼び出されることになったのかを、改めて考えた。何も陽香に過去の話を蒸し返させて、悲痛な声を上げさせることが目的ではなかった筈だ。
「……それで生徒会長さん、俺に何の話があってここに呼び出したんでしょう。陽香に、こんだけ辛い思いをさせて洗いざらい喋らせたんです。しょうもない話やったら、俺本気で怒りますからね」
恋乃丞はいつもの死んだ魚の様な澱んだ目ではなく、我天月心流の使い手としての鋭く射抜く様な眼光を隆太郎に叩きつけた。
隆太郎は勿論、重要な話があるからこそ君に御足労願ったのだと頷き返した。
「実は君にお願いしたい仕事があってね……笠貫君、是非君には、特命巡回役員を拝命して貰いたい」
「特命……巡回役員? 何ですかそれは?」
するとここで美夏が立ち上がり、陽香のことを怜奈に託してから自席に戻った。そして彼女は一枚の資料を取り出し、恋乃丞に手渡した。
そこには、奇妙な文言が記されている。
「女子生徒A、一年、十五歳。女子生徒B、二年、十六歳……何ですか、このリストは?」
「それは……ここ一年以内にレイプ被害に遭った、我が校の女子生徒の匿名リストよ」
恋乃丞は美夏の応えに耳を疑った。だが彼女の眼差しは真剣そのものだった。ということは、これは本物のリストなのか。
「そこに記されている生徒達からは、副会長が匿名を条件に直接話を聞き出した。彼女らがレイプ被害に遭っていることは間違いない」
「いやいや、ちょっと待って下さい。何でそんな話をここで持ち出すんですか? んなもん、警察の仕事でしょうに」
だが隆太郎は、警察ではすぐに対処出来ない案件だから自分達が動いていると渋い表情を浮かべた。
「警察ってのは……特にこういう暴力的な犯罪では、基本的には事が起きてからでしか、対処出来ないものなんだ。でもそれじゃあ、遅すぎる。レイプってのは未然に防がなきゃ、意味が無いんだよ」
隆太郎の言葉は恋乃丞にも理解出来る。
しかしだからといって、何故一介の学生が、こんなことに手を出す必要があるのか。
「そのレイプの犯人側にも、うちの生徒が関わっているからだよ」
所謂、ヤリサーというやつだった。
どうやらその不埒な連中はどこぞの大学のふざけたサークルと手を組んで、自校の女子生徒らを食い物にしているらしい。
「その調査と、そして被害に遭いそうな女子生徒らを守る為には、俺は君の力と、自身の命の危険を顧みずにひとを助けることが出来るあの勇気が、どうしても必要だと思ったんだ」
怜奈を救ったあの一瞬の判断力、勇気、そして数多くの金属資材をも弾き飛ばす戦闘力。
それがどうしても欲しいと隆太郎は真剣な面持ちで語った。
「確かに暴力は良くない。でも、暴力で女性を食い物にする様な連中には、時として暴力で対抗するしか手が無い時だってある。でも、いざ本物の対人戦となると、どんな格闘家でもビビってしまって本領を発揮出来ないことが多い……でも君は違う。綾坂さんを救ったあの咄嗟の判断と力量、あれは本物だ」
だから恋乃丞を特命巡回役員に任じたい、と隆太郎は尚も熱っぽく語った。
しかしそこで障害となるのが、陽香との心の軋轢だった。
陽香が生徒会役員として在籍している以上、恋乃丞と陽香の間に刻まれている心の溝を、先に排除しておく必要があったのだ。
「だから今日この場で、そのしこりを解消して貰う為に、彼女には辛い役回りを担って貰った。これが君をここに呼んだ理由だ……納得して貰えたかい?」
隆太郎は尚も厳しい表情で、恋乃丞の顔を真正面から見据えた。
恋乃丞はこの時、戦士の顔つきで静かに頷き返した。
十分に、納得出来る応えだった。