5.三年越しの挨拶
そして、教室に到着。
朝のホームルームまでには、二十分と少しばかりの時間がある。
まずはこの時間帯を如何にして凌ぐかが最初の関門となった。
「おっはよー!」
先に怜奈が元気一杯の笑顔で入室してゆく。当然ながら、彼女に挨拶を返すクラスメイト達の明るい声が幾つも続いた。
問題はこの後だ。
(頼んます……変なことが起こりません様に)
祈る様な気持ちでそろそろと後ろの出入り口から教室内へと忍び込む。今なら怜奈が皆の注目を引いているから、隠密裏に自席へ到達出来る可能性があるだろう。
これまでの十六年間で培ってきた、暗殺拳士としての気配遮断を最大限に発揮しつつ、そろりそろりと音も無く教室最後尾の机の間を抜けてゆく恋乃丞。
今のところ、全員が怜奈に視線を向けているから、このままでいけば何事も無く自席に辿り着けるかも知れない。
僅かな不安材料といえば隣の列の中ほどに席がある陽香だったが、彼女は恐らく恋乃丞など今更眼中に無いだろうから、それ程の心配は要らない筈だ。
ところが、その恋乃丞の予想は呆気無く覆された。
陽香が不意に立ち上がって振り向き、あろうことか笑顔なんぞ向けてきた。
(いや、待ってくれ……どういうことや)
恋乃丞は内心でぎょっとしながらも、敢えて気付いていない風を装いながら自席への接近を続ける。しかし陽香の方も軽い足取りで恋乃丞に歩を寄せてきた。
そして彼女は、目の前に立った。その微笑はかつて、小学生時代によく交わした笑みそのままだった。
「おはよ、恋君」
この時、恋乃丞は呆然と、陽香の極上な程の美貌スマイルを凝視した。
何故彼女が、言葉をかけてきたのか。この三年間、一度たりとも接触を取ってこなかった陽香が、何故今になって、かつての笑顔を浮かべるのか。
恋乃丞は、すぐには声が出ない。が、何かいわなければと本能が囁いている。
僅かな時間、ほんの数秒程度の間だったが、恋乃丞には限りなく長い静寂の様に思えた。それでも何とか、喉の奥から声を搾り出した。
「あ、あぁ、えぇと……お、おはようございます……桜庭、さん……」
この時、陽香は少しだけ寂しそうな反応を返した。
何故彼女がこんな顔を見せるのかはよく分からないが、兎に角この場は何とかして自席に辿り着き、それから朝の予鈴が鳴るまでどこかに退避しなければならない。
しかしそうは問屋が卸さなかった。
大体のクラスメイトと朝の挨拶を終えた怜奈が、次に陽香へ声をかけようとしたのだろう。そうして彼女がこちらに顔を向けると、他の連中も一斉に視線を飛ばしてきた。
当然ながら、恋乃丞と陽香が一対一で佇んでいる場面が全員の目に飛び込んでゆくことになる。
身の危険を感じた恋乃丞は、じゃあ俺席に行くんでと低い声音でぼそぼそいってから、何とか陽香の前から離脱を図った。
その間、クラスの連中からは訝しむ声が四方八方から飛んでくる。
「え……何で桜庭さん、あんな奴と一緒に居てんの?」
「もしかして前から知り合い? いやいや、んなこたぁねぇよな」
彼らが口々に囁くのは、矢張り疑問だった。
恋乃丞と陽香では、住む世界が余りに違い過ぎる。本来なら交わる筈の無いベクトルだ。それが何故、いきなり何の前触れも無く接触するのか。
そもそも恋乃丞と陽香の関係性を知らない者からすれば、疑問に思わない筈が無い。
ところが陽香は、そんな周囲の声を無視していきなり恋乃丞の手から通学鞄をひったくった。まさかの行動に恋乃丞も反応が遅れてしまい、防御すら出来なかった。
周囲からは驚きの声が上がった。しかしその大半に込められている感情は、敵意に近いものがあった。
「ほら、まだ肘とか痛いんでしょ? だったら席まで持ってってあげるから」
「あ、あぁ、そりゃどうも……」
恋乃丞は内心で苦い表情を浮かべつつも、陽香の後に続いて自席へと向かった。
どうやらクラスメイト連中は、恋乃丞が何かの理由で休んでいたことを思い出したらしく、陽香が親切心だけで恋乃丞に手助けしてやっていると解釈した模様。
すると彼らは一様に恋乃丞への興味を失い、再び怜奈相手に雑談を始めた。
陽香も恋乃丞を机まで誘導してからは、何事も無かったかの様に離れて行って、仲良しグループの輪に溶け込んでいった。
(あ、焦らすなよ……何やねん、いきなり)
恋乃丞は肝が冷える思いだったが、しかしどうやら事無きを得た様だ。
相変わらずクラスの全員が、入院する以前と変わらずに恋乃丞を無視し続けている。
陽香との接触もほんの一瞬の、それこそただの一過性のものに過ぎないと判断したのだろう、もう恋乃丞に対して敵意を交えた視線を送ってくることは無くなった。
(もうホンマに頼むで……要らんことせんといてくれ)
この三年――恋乃丞が陽香の初恋を台無しにしてしまって以降、全く言葉も交わさなくなったというのに、何故今日、この時になって近づいてくる様な真似をしたのか。
その真意は分からないが、今回は恋乃丞が手負いだと知った上での、単なる善意に過ぎなかったのではという気がしないでもない。
そう考えると、少しだけ気分が楽になった。
(俺は兎に角、もう陽香の視界の中に居ったらあかん奴やねんから……)
それがたまたま、同じクラスになっただけの話である。
怜奈を助けたのも偶然に過ぎないのであって、別に彼女以外の誰かであったとしても、あの場面なら迷わず助けていただろう。今回は運悪く陽香の仲良しグループの一員だっただけの話だ。
だがそれも、もう終わり。
恋乃丞は退院し、漸く普通の、今までと同じ陰気なあぶれ者生活が始まる。
それ以上でも、それ以下でもない。