3.己の不甲斐なさを実感した病室
突然、誰かに手を引かれた。
補修工事の足場が崩れたのは一カ所だけだが、まだ他にも崩れそうな場所があるかも知れない。
周辺に居た生徒の何人かがその危険性を察知し、血まみれの恋乃丞と、彼が救った美少女を早急に校舎玄関前から引き離して避難させてくれたのだろう。
そこで漸く、件の美少女も我に返ったらしく、涙目になりながら足元が覚束ない恋乃丞に駆け寄ってきた。
「ねぇ、大丈夫? 大丈夫なの?」
彼女は頭部出血が止まらない恋乃丞を心配している様子だったが、恋乃丞はぼんやりとした顔で、相手の必死な形相を眺めるばかりだった。
(拙い……こらぁやっぱり、脳が揺れとるか?)
何とか踏ん張ろうとするも、結局膝を地につけてしまった。
周囲の生徒らは、教職員を呼びに走ったり、手持ちのハンカチなどで恋乃丞の頭部出血箇所を押さえるなどして、懸命の救護に当たろうとしてくれていた。
恋乃丞は膝ががくがくと震えるのを何とか堪えて立ち上がろうとしたが、傍らに居た見知らぬ男子生徒が、立つんじゃない、じっとしてろと悲痛な声で呼びかけてきた。
(いやいや、何いうてんの……こんなんでいちいち倒れとったら、厳さんや拾君に笑われるて……)
同じく我天月心流を修練する大先輩の笠貫厳輔や、同じ世代の兄弟子である従兄の笠貫拾蔵なら、この程度の負傷でがたがたいうことは無い筈だ。
だが現実として、脚に力が入らない。
あの頭突きは失敗だったか――恋乃丞は自分で自分に腹が立った。
しかし、痛みが走っているのは頭部だけではなかった。
肘と拳にも、鈍い疼痛が響いた。折れるところまではいっていないが、ヒビが入っているかも知れない。
(あぁもう……最悪や。金属相手やねんから、掌打と足底だけで始末せなあかんとこやんか。何してんねん俺……)
咄嗟の判断力がまだまだ甘い。
恋乃丞は己の未熟さを呪った。
と、そこへ幾つもの人影が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。どうやら教職員、或いは工事関係者といった面々なのだろう。
彼らは口々に何かを叫び、その後の処置や手配やらを進めようとしていた様だが、ここで恋乃丞は意識が遠退き始めた。
出血に加えて脳震盪がいよいよ本格的に彼の精神を叩き潰しにきたのだろう。
(あかん、こらもう無理や)
その直後、視界が暗転した。
◆ ◇ ◆
次に目を覚ました時、白い天井が見えた。
右手の甲からは点滴のチューブが伸び、左手の甲には包帯が巻かれている。右肘にも何かが巻き付けられている感触があった。こちらも恐らく包帯だろう。
恋乃丞は起き上がろうとした。が、無理だった。
何かの器具で固定されている訳でも無かったが、安静の為に何かの薬を投与されているのかも知れない。
(……救急車で運ばれたか)
校舎玄関前で意識を失って以降の記憶は無いが、病室のベッドに寝かされているところを見ると、誰かが救急車を呼んだのだろう。
(あの子、無事やったんやろうか)
自分で救出した件の美少女の安否が気になったが、気絶する寸前には涙目で叫んでいたのを覚えている。であれば恐らく、彼女は大きな怪我などはしていないのだろう。
(あんな綺麗な子が、しょうもない事故で傷モノになるなんて、絶対あかんで)
逆に自分の体がどれだけ傷ついても、全く気にはならない。我天月心流は暗殺拳だ。この技の修練を始めた当初から、己の肉体が破壊されることは既に織り込み済みだった。
今回は寧ろ、この程度で済んで運が良かったともいえる。
そう考えると、あの事故は比較的穏やかな結果に終わったのではないかとすら思えてきた。
と、そこで若い女性看護師が意識を回復した恋乃丞に気付き、軽めの診察を行ってから、担当医を呼びに行った。
その後、両親が病室に入ってきて無事を喜んだり、恋乃丞が助けた美少女とその家族が見舞いに訪れるなどして色々とせわしない時間が続いたが、恋乃丞は薬が効いていた為か、余り詳しいことは覚えていなかった。
ただひとつだけ明らかになったこととして、恋乃丞が救ったのは同じクラスの綾坂怜奈という女子生徒で、どうやら陽香と同じ仲良しグループのひとりらしい。
これには流石に恋乃丞も、内心で渋い表情だった。
(うわぁマジか……陽香と変な接点、出来んかったらエエけどな……)
怜奈を救うことが出来たのは僥倖だったが、しかしこれが切っ掛けで変な方向に話が転がっていかなければ良いのだがと、幾分肝が冷える思いだった。
(まぁ……昔は仲良かったいうても、今は赤の他人や。そこまで気ぃかけることもあらへんやろ……)
第一自分は陰気なはみ出し者だ。
クラス、いや学年でも一番の人気を誇る陽香が、わざわざ恋乃丞の為に何かの行動を起こすことなど、まずあり得ないだろう。
(せやけど……いきなり授業初日から欠席ってのは痛いな。オトンかオカンにいうて、教科書だけでも持ってきて貰おか……)
学校とは、勉学の場である。
その信念を強く抱いている恋乃丞としては、学業の遅れだけはどうにも許容出来なかった。
一学期の中間テストまでにはまだまだ時間があるから挽回は幾らでも可能であろうが、初っ端からこれでは先が思いやられる。
こういう時、友達が居ないのは不便だが、そんな学生生活を選んだのも自分自身だ。ここは己の日頃の行いの結果だとして全て受け入れざるを得ないだろう。
(まぁ何とか挽回したる。こんなんでいちいち、凹んでられるか)
恋乃丞は自らに気合を入れ直した。
が、すぐに睡魔がやってきた。
彼に投与されている薬は、結構な強さなのかも知れない。