29.災難で終わった一日
あれ程の大型サバイバルナイフとなれば、大人が居るからといって全て任せきりにするのは余りにも無謀であろう。
この撮影現場に居るひとびとはカメラマン、スタイリスト、ネイリスト、マネージャー、その他諸々の撮影スタッフばかりであり、武器を持った暴漢に対処する特殊な訓練を受けた者が居るとは到底思えない。
恋乃丞は一瞬、陽香に視線を流した。
彼女は恐怖で凝り固まり、逃げることすら出来なくなっている。例のトラウマが陽香の体を呪縛の様に絡め取っているのだろう。
他の三人のモデルも同様だ。特にMayなどは陽香以上に恐怖で竦み上がり、身じろぎひとつ出来ない状態に陥っていた。恐らくはこの暴漢が彼女のストーカーなのだろう。
だがこれでは、他の誰かが彼女の手を取って逃げ出そうとしても、足が絡まってしまってろくに走ることも出来ない。
ならばここは、力で対処するしかないか。
「皆、逃げろ!」
誰かが叫んだ。
恐らく四人のモデル達に投げかけられた言葉なのだろうが、彼女らは皆、全身が恐怖と緊張で動けない。
暴漢はナイフを振り回しながら真っ直ぐに、モデル達が立ちすくんでいる簡易テーブルの傍らへと駆け込んできた。
が、それよりも早く恋乃丞が敵の前に位置を取った。
「駄目だ! 逃げるんだ笠貫君!」
上谷マネージャーが叫んだ。彼はきっと恋乃丞を、美女達の前で良いところを見せようとしている無謀な若者という風に見ているのだろう。
勿論、その見方は間違いではない。普通はそう考えるのが妥当だ。
我天月心流など、世には知られていない。凡庸な外観の、普通の男子高校生が、大型サバイバルナイフを振り回す暴漢相手に何が出来るだろうか。
その考えはきっと、襲い掛かってきたこの暴漢も同じだろう。だからこそ隙がある。
次の瞬間、恋乃丞は大型サバイバルナイフを握る男の手首を左手で掴んでいた。更にその直後、恋乃丞の右肘が真下から跳ね上がり、男の顎を鋭く打った。
この時点で男の意識は茫漠としている。目の焦点が合っていなかった。
次にとどめだ。恋乃丞は肘打ちに用いた右腕を伸ばして男の頭をむんずと掴むと、そのまま手前に引き摺り落として、その顔面に膝蹴りを打ち込んだ。
これで男は、沈黙した。肘打ちで脳を揺らして意識を朦朧とさせ、最後の膝蹴りで通常では耐えられない程の激痛を面頂に叩き込み意識を奪う。
ここまでに要した時間は僅か3秒程。この程度の男が相手ならば、大体こんなものであろう。
周囲は、唖然としていた。
誰もが信じられないものを見たといった表情で、その場に言葉も無く呆然と立ち尽くしている。
一方、恋乃丞は力無く崩れ落ちた男をうつ伏せに寝かせ、凶器を蹴って遠くに離すと、そのままスマートフォンを取り出して110番通報をかけた。
◆ ◇ ◆
それから、十数分後。
駆けつけてきた警察官に暴漢は取り押さえられ、連行されていった。
撮影スタッフらとモデル四人はその場で事情聴取を受ける一方、恋乃丞は過剰防衛の可能性もあるとして、パトカーの後部座席へと押し込まれた。
しかし恋乃丞には、自信があった。
警察の目の前で直接戦った訳ではない、つまり現行犯ではないのだ。これならば内閣官房直属護衛士候補生の裏の力が作用する筈だ。
そしてその読み通り、恋乃丞は結局お咎め無しということで解放された。
恋乃丞が撮影現場に戻ると、いの一番に陽香が駆け寄ってきて恋乃丞に抱き着いた。次いでMay、利都子、友希恵らが左右と後ろから盛大なハグ。
更に撮影スタッフやマネージャーらが次々と集まってきて、恋乃丞の無事を喜ぶ声と、あの暴漢相手に立ち向かった勇気、そしてものの数秒で仕留めた強さを讃える声を連鎖させた。
結局、この日の撮影はここで中止となった。警察の現場検証が始まるのだから、もう残りの時間、この場所を使うことは出来ない。
その様な訳で、撮影の続きはまた後日に、ということになった。
それにしても恋乃丞を囲むひとびとは、どの顔も喜びに満ちている。折角の現場仕事が強制中断となったにも関わらず、だ。
彼らは一様に、暴漢を圧倒的な強さで捻じ伏せた高校生ヒーローの誕生ということに対して、興奮を覚えている様子だった。
しかし恋乃丞はひとり、渋い表情。
「あのぅ、お姉さん方。もうそろそろ、解放してくれませんやろか」
恋乃丞が静かに申し入れると、陽香と他三人の美人モデルらは尚も嬉し泣きの涙を流しながら、やっと離れてくれた。
「うわぁ……ちょっと、マジっすか、これ」
恋乃丞は美女達の涙でべたべたになった上着の前後を、何度も見返した。結構お気に入りのレザージャケットだったというのに、彼女らの涙と鼻水でかなり汚されてしまった。
「んもぅ、勘弁して下さいよ……」
「あ、ははは……そういうとこ、やっぱり恋君だね」
笑顔で涙を拭いながら、呆れた笑い声を漏らす陽香。
今回、彼女は怯えてはいなかった。無理をして恐怖を克服したのかと内心で焦った恋乃丞だが、しかし陽香の面には特段に無理をして笑っている様子は無かった。
(まぁ、自然に笑とるだけなら別にエエんやけど……)
そんなことを思いながら、恋乃丞はすっかり汚れてしまったレザージャケットを脱いだ。
ところがここで別の声が上がった。
「わっ……笠貫君、筋肉めっちゃスゴッ!」
まだ涙が滲んだままのMayが、今度は心底驚いた顔つきで上着を脱いだ恋乃丞の上体をまじまじと見つめてきた。
否、彼女だけでなく利都子も友希恵も、そして上谷マネージャーやスタイリスト、カメラマン、ネイリストなど、周りに居る全員が、上着を脱いで黒いタンクトップ姿となった恋乃丞の完成された筋肉美に惚れ惚れとした視線を送ってきていた。
「別に今どき、筋肉なんて珍しゅうないでしょ」
「いやいや、笠貫君……この筋肉は凄いよ。形も量も完璧だし、全く無駄が無い。見た目も綺麗だ……どうだ、君、読モになる気は無いか?」
いきなり上谷マネージャーの口から飛び出してきた爆弾級の申し入れに、恋乃丞は速攻で拒否した。
裏の世界で動く内閣官房直属護衛士候補生が表舞台に立つなど、以ての外だった。
「一身上の都合により、お断り致します」
「いや、そこを何とか……」
尚も食い下がる上谷マネージャー。
すると何も事情を知らない陽香やMayまでが、是非一緒に仕事したいなどとすり寄ってきた。
(あ~あ、もう……やっぱ来るんやなかったわ)
お気に入りのジャケットを汚されるし、変な申し入れはされるしで、今日は散々な一日だった。




