2.一瞬の救出
朝のホームルーム前の休み時間。
教室内のそこかしこでは、早くも気の合った者同士が仲良しグループを形成し始めている。
そして当然ながら恋乃丞はひとりあぶれた状態で、窓際の席でひとりぽつんと浮いていた。彼の生気の欠片も無い眼差しに不気味さを感じたのか、クラスメイトは誰ひとりとして寄り付こうとしない。
だがこれは、今に始まったことではなかった。
私立M高等学校普通科に進学し、入学式初日から撒き散らされていた恋乃丞の負のオーラは、その時点から周囲の者達を遠ざけていた。
そして一年生として過ごした昨年、恋乃丞は事務的な連絡事項を除いては、クラスメイトの誰ともほとんどまともに言葉を交わさなかった。
それは陽香とて例外ではない。
春と秋に実施される遠足の際には、どの班が恋乃丞を受け入れるかで揉めたこともあったぐらいだ。
体育祭や文化祭でも同様の状況が続き、恋乃丞は存在そのものが一種のタブーとして扱われる有様だった。
それ程に恋乃丞はクラスの中では異端として扱われ、誰からも相手にされることは無かったし、現在も尚、そのことに変わりは無い。
(ま、それはそれで別にエエねんけどな……)
恋乃丞は、学業成績では学年でもトップクラスだ。
それに問題らしい問題も起こしたことが無い為、教師からの受けはすこぶる良い様だ。だからクラス内で浮いていても、完全に孤立するところまではいっていない。
担任教師などは決して誰ともつるまない恋乃丞の姿を心配することもあったが、陽香の初恋を叩き潰した自分には同級生と親しくする資格は無いと割り切っており、自分なら大丈夫だと答えるばかりだった。
一方で陽香は、いつも誰かと一緒に居る。彼女がひとりで居るところなど、見たことが無かった。
(まぁ……あいつが笑顔で居てくれてんのが、唯一の救いかな)
毎年陽香と同じクラスになるのは結構な苦痛だったが、しかし同時に、彼女が多くのクラスメイトに囲まれて楽しそうにしているのを自身の目で直接確かめることが出来るのは、それはそれで有り難い話でもあった。
(俺にはもう、お前に贖罪する機会も与えられへんのやろうけど、せめてお前が幸せになるところだけは、黙って見守らせて欲しいわ)
勿論、そんな台詞は死んでも口にすることは出来ない。
ただ静かに、恋乃丞は陽香の学校生活を遠目に見守ることが出来れば、それで良いと思っていた。
だから、自分には友人など要らない。仲良しグループなども不要だ。
残りあと二年間、じっとひとりで陽香の穏やかで楽しげな学生生活を眺めていることが出来れば、それだけで満足だった。
(でも出来れば、違うクラスで居たかったけどなぁ)
そんなことをぼんやりと考えながら、恋乃丞は朝の予鈴が鳴り響くのを聞いた。
◆ ◇ ◆
始業式も終わり、恋乃丞はさっさと帰り支度を始めた。
陽香の周辺には相変わらずひとの輪が出来ているが、流石に朝程の人数ではない。何人かは既に下校し始めているのだろう。
恋乃丞も他の帰宅する面々に紛れる格好で陽香の視界から早々に消えた。
下駄箱は結構な人数で混雑しており、さっきまで陽香の周辺に居たイケメンやら美少女やらが何人も居たが、当然恋乃丞は彼らと言葉を交わすことも無く、のっそりと校舎玄関外へと出た。
頭上からは、幾つかの金属音や工事の作業音が鳴り響いてくる。
現在、校舎の外壁の一部が補修工事に入っているらしい。本来なら春休み中に完了する筈だったが、何かの理由で工期が遅れているとの由。
(まだ午前中か……どうせ家は誰も居らんし、帰りにどっかで飯でも食うて帰るかな……)
そんなことを思い始めたその時、不意にけたたましい金属音が頭上で連鎖した。
思わずその方角に視線を向けると、補修工事の為に組まれていた足場の一角が崩れ、玄関口付近にその一部の金属資材が落下してくるのが見えた。
それらの金属資材が落ちてくる先に、人影があった。女子生徒だ。
彼女もまた同じく頭上の異変に気付いて見上げていたのだが、その端正な面は恐怖に凍り付き、全身がその場に凝り固まってしまっている様子だった。
恐らく、突然降って湧いた絶望的な災難に恐怖してしまい、体が竦んでしまって避難することも出来なくなっているのだろう。
(あかん!)
ほとんど反射的に、恋乃丞は走った。
周囲では怒号と悲鳴が次々と連鎖し、事故の餌食となろうとしている美少女の壮絶なる運命を悲観するばかりだった。
(突き飛ばすのは無理か!)
がっくりとその場にへたり込み、恐怖に引きつった顔でただ頭上を見上げることしか出来ない美少女。その彼女の視線を遮る形で、恋乃丞は一気に跳んだ。
まず跳び後ろ廻し蹴りで、落下してくるパイプ状の金属資材を蹴り飛ばした。
更に彼女の傍らに着地するや、掌底、肘撃、裏拳などで次々と落下物を弾き飛ばしてゆく。だがどうしても、手数が足りない。
その為、最後に落ちてきた金属板だけは頭突きで弾き飛ばした。
まさに一瞬の出来事だった。
美少女を襲う筈だった全ての金属資材はまるで何事も無かったかの如く周辺に散乱し、辺りの空気はただ不気味な静寂に包まれていた。
が、その直後、歓声が沸いた。
同時に頭上からは、工事業者からと思しき安否を問う声が次々と飛んでくる。
恋乃丞はしかし、それらの声には一切耳を貸さず、足元でへたり込んでいる美少女だけに意識を向けた。
彼女は涙目のまま未だ恐怖の表情で凝り固まっていたが、どうやら傷らしい傷は負っていない様子だった。
(良かった……何とかなったわ)
そう思った直後、恋乃丞はぐらりと膝から崩れ落ちる感覚に見舞われた。
更に視界がいきなり紅く染まった。
足元を見ると、大量の鮮血が滴り落ちて血だまりを作っている。
(ちっ、クソッ……割れてしもうたか)
額から少し上の辺りに鋭い痛みが走り始めた。
先程まではアドレナリンが大量に放出されていた為に全く気にもならなかったが、自分が救出した美少女が無事だと分かった瞬間に、激痛が襲って来た。
恐らく最後の金属板を頭突きで弾いた際に、頭皮のどこかが割れたのだろう。
人間の頭部表面は血管が多い為、ちょっとした傷でも異常に多くの出血が見られることは決して珍しい話ではない。
だがそれよりも恋乃丞が危惧したのは、脳が揺れていないかだった。
この足のぐらつきは、脳震盪の影響かも知れない。