17.彼女の決意
夜の駅前商店街。
昨日、H大映画研究同好会の連中を叩きのめす為に足を運んだばかりだが、今日は目的が違った。
麻奈美の発案で何人かでカラオケに行こうという話となり、その中に珍しく恋乃丞も含まれていたのである。正直なところ、カラオケなど幼稚園の年中組以来だった。
「笠貫君はぁ……楽しんでくれたかなぁ?」
帰り道、まだまだひとの数が多く見られる駅前の大通りへ出たところで、隣から智佐がふんわりした笑顔で問いかけてきた。
恋乃丞は死人の様に表情の無い顔を向けて、凄く楽しかったと抑揚の無い声で応じた。
「ってか、笠貫……アンタ、一曲も歌ってなかったじゃん……」
逆側から麻奈美が心底呆れた様子で覗き込んでくる。これは事実だ。今日この日、およそ十年ぶりとなるカラオケボックスで、恋乃丞は結局何も歌わずに二時間程を過ごした。
「あたしさ、初めて見たよ……コントローラーの取説と仕様書貸して下さいなんていうひと……で、最後は何だっけ? 基板の図面無いですかとか訊いてなかった?」
すぐ前を歩いていた怜奈が、乾いた笑いを漏らしながら振り返ってきた。
確かに彼女がいう通り、恋乃丞はカラオケボックス店内ではひたすら、最新機能満載のカラオケコントローラーばかりをいじっていた。彼はそのメカニズムが気になって気になって仕方が無く、歌うどころではなかったのである。
「ウチもさぁ、カラオケ行ってあんなハズかったの、初めてなんだけど」
尚もぶつぶついっている麻奈美。
智佐は、
「まぁまぁ……笠貫君が楽しんでくれたんなら、それで良いじゃない」
と、まるで意に介した風も無くころころと笑っていた。
すると、怜奈の左右に並んで歩いていた俊之と浩太が矢張り同じく振り向いて、最高の笑顔でサムズアップ。そのふたりに麻奈美が軽くキレた。
「大体アンタらも何? 女子に全然歌わせる気ナッシングな訳? ふたりしてずーっとマイク独占しちゃっててさ」
「なぁにいってんだよ。あんなのは先に曲入れたモン勝ちじゃねーか」
俊之が快活に笑うと、麻奈美は尚一層ぐぬぬぬと悔しげに喉の奥で唸っていた。
「珍しいよね。秋篠さんがあんなにタジタジになってるなんて」
「いやだって、そらそうだよね? カラオケ行ってコントローラーばっかいじっててさ、ずーっとそればっかなんだよ? どこの世界にさ、カラオケ屋の店員に図面要求する奴なんて居るのさ」
浩太に反論する麻奈美だが、しかし実際に、少なくともひとりはここに居る。
恋乃丞は、そんなに不思議がることかと小首を傾げた。
「学生やねんから、知的好奇心に溢れてこそが、あるべき姿やろ」
「アンタは黙ってなさい」
麻奈美にぴしゃりとシャットアウトされ、恋乃丞はそんな怒ることかと尚も不思議でならなかった。
「せやけど、カラオケも変わったなぁ……っていうか、世の中何でもかんでもスマホアプリやな。今どき、アプリ対応してへんかったら時代遅れみたいになっとるもんなぁ」
恋乃丞はこの時、凄腕ハッカー厳輔が、アプリだらけの現代は余りにも脆すぎる、などといっていたことを思い出した。
猫も杓子もアプリに頼り過ぎるから、そこを起点にサイバー犯罪を起こす者も増えたのだとかどうとか。
勿論、今この場に居る面子にいったところで、どうせ理解されないのだろうが。
「次は笠貫の歌、聞いてみたいよなー」
「だったらアンタが、もうちょっと自重しろっての」
俊之に噛みついた麻奈美だったが、しかしその視線は隣を歩いている恋乃丞にちらちらと寄せられている。
その麻奈美と一瞬だけ、目が合った。麻奈美は慌てて視線を逸らせたが、何かいいたいことでもあるのだろうか。
ともあれ、この日は久々に楽しいと思える夜を過ごすことが出来た。
家族以外の誰かと一緒に遊びに出掛けるなど、一体いつ以来だろうか。
◆ ◇ ◆
自宅へと帰り着いた恋乃丞だったが、玄関へ入る前にふと足を止めた。何者かの気配が門扉近くに潜んでいたからだ。
その方角に視線を走らせると、パーカーにショートパンツ姿の陽香が立ち上がる姿が見えた。
「あ……お帰り、恋君」
「こんな時間に何しとんねん。さっさと家入れ」
恋乃丞は仏頂面で声だけを返し、そのまま自宅玄関を潜ろうとした。
ところがその恋乃丞の前に陽香が素早く割り込んで、通せんぼする格好となった。
また何か余計なことをするつもりか――恋乃丞は内心で苛立ちを募らせながら、目の前の美少女をゆっくりと手で退かせようとした。
しかし陽香は、動こうとしなかった。その美貌に、その瞳に、強い意志が浮かんでいた。
「恋君……私、変わりたい」
「……何?」
恋乃丞は陽香がいわんとしていることが理解出来ず、動きを止めて目線を返した。
「私、甘えてた。幼馴染みポジに安心して、努力してなかった。恋君は凄く頑張ってるのに、私はただの察してちゃんで、お姫様気質で、自分でも一体何様なんだよって思っちゃった。駄目だよね、こんな横着な女」
「変われたとして、何がしたいんよ」
矢張り陽香の意図が分からない。恋乃丞は怪訝な表情を向けた。
陽香は一瞬だけ視線を落とし、そしてその直後に、強い意志を込めた瞳で恋乃丞の顔を見上げた。
「私も、恋君と同じレベルに立つよ。追い付いてみせるから」
それだけいい残して、陽香はそそくさと去っていった。
対して、恋乃丞は呆気に取られていた。
(カースト最上位の奴が、最底辺の俺に追いつく? 何眠たいこというとんねん)
恋乃丞は頭の中に幾つもの疑問符を浮かべながら、自宅玄関をくぐった。