下『兄の親友』
不良時代からの親友、鈴宮ユウマの妹から、我が家に手紙が届いた。
彼女の婚約者にあってから一年ほど経っており、俺は全く仕事が手につかぬ時期だった。
手紙の内容は、要は、こういうことだった。
『瀬戸ケンジさんと結婚をして、無事第一子を出産しました。近いうちに挨拶に伺います』
俺はその手紙を受け取ってから何度か、ユウマ伝いに連絡をして、今度は鈴宮家の面々が我が家を訪ねてくることになった。
「ほら、来たんじゃない?」
ドアのインターホンが鳴ると、サキちゃんは嬉しそうにそう言った。
我が家には娘がひとりいる。まだ幼い娘である。俺は元々、子どもを作る予定はなかったが、サキちゃんは大の子ども好きで、ひとりでいいから産みたい、育てたいと望んだ。
エントランスに通して、エレベーターまで上がってきた一同を、玄関まで俺が迎えに行く。
ユウマにマイちゃん、そしてその旦那である瀬戸くんがいた。マイちゃんは、ひとりの赤子を抱いている。
「久しぶり、アキラ! それに、サキさん!」
「お久しぶりです、鈴宮さん」
「まあ、入れよ」
この会に向けて、サキちゃんが料理を用意してくれた。
「初めまして、芹澤サキさん。鈴宮改め、瀬戸マイです」
マイちゃんはそう言って、サキちゃんに微笑みかけた。あの、悪魔の微笑である。
「マイさん、初めまして。それじゃあ、そちらがマイちゃんの?」
サキちゃんは満面の笑みで、マイちゃんの抱く赤子を指した。
「そうです、娘のユリです。抱いてみますか?」
「ええ、ぜひ!」
サキちゃんは心底嬉しそうに、マイちゃんの赤ん坊を受け取って、その腕をゆりかごのように揺らす。
「すぐに私たちの娘も呼んで、挨拶させます。年下の子と会う機会なんて、多くないでしょうし」
サキちゃんはそう言って、腕を揺らし、赤子をあやしながら、俺のほうを見た。
「ねえ、子どもって、いいでしょう。お世話だって、苦しくない。こんなに幸せな天使が、毎日見れるんだもの」
そう言って、俺を見上げるサキちゃんの、この上ない幸福に満ちたような笑顔。
おれが、世の中で、俺だけが悪人のように思えた。俺は、ここにいてはいけないような気がした。
それから、俺たちは食卓を囲んで、まるで前回の反省かのように、早い時間に解散した。
「可愛かったね」
サキちゃんが、後片付けをしてるときに、不意に言った。
「なにが?」
「みんなだよ。マイちゃんも、旦那さんも、それに娘ちゃんも」
「ああ、うん。可愛かったね、みんな、いいひとばかりだ」
俺は言いながら、あの日のことを思い出していた。
俺は悪人のままだった。ひどくエゴイストで、悪辣極まる、矮小で、卑劣な生き物だ。
「少し、外の空気を吸ってくる」
俺は逃げ出すように外へと出た。
適当な居酒屋に入って、適当な安酒を頼んで、それから、不味い焼き鳥を頬張った。
ふと、上着のポケットに何か入っているのに気付いた。
封筒である。切手のついていない、和封筒。中には、紙切れが何枚か。それは手紙だと分かった。
*****
初めてあなたを見たとき、もう十五年ほど前のことになりますが、私はその景色を、強く記憶しています。
あの頃はまだあなたもお若く、私も幼かった。
けれど、あなたはそのときから既に、『悪漢』の称号をほしいままにしていた。
あなたは、歩く暴力、色男、女たらし、極悪人、憎むべき悪漢……。
酒と煙草、そして女を好み、道徳や人道を真っ向から逆らって生きる、自由人。
誰もがあなたを、蛇蝎の如く嫌い、また恐れていた。
けれど、私はあなたを、世間が言うようなただの悪漢だとは、どうも思えなかった。
一目見たときのあなたは、まるで没落貴族のように思えた。
退廃と耽美の共存。
あなたは、あなたのいるそこだけ、まるで異国の風景かのように美しく、自分だけの力で生きているような力強さがあって、それでいて、家が堕落して不幸に見舞われてしまった直後みたく、厭世的な病弱さのようなものもあった。
あなたを愛しておりました。あなたを、愛してしまいました。
それが、私の、いわゆる初恋でした。私は当時、11歳でした。あなたは高校の兄のクラスメイトで、16歳になる年。
あなたと会ってすぐに、あなたが小説書きであることを知りました。兄に、作品を読ませてもらったのです。
私たちの若い頃と言っても、絵にかいたような不良なんてもう流行っていなくて、むしろ軽蔑の対象でした。
あなたは漫画の中の不良男子というより、まさに没落貴族のような荒れぶりだった。大酒呑みで、女たらし。暴力漢としても名をはせていたが、むしろ、あなたの悪名はその不道徳性にこそあった。男気だとか、そういうホモソーシャルで好まれる悪漢ではなくて、同性からも忌み嫌われ、異性から不信感を持たれる悪漢。それでいて、女をたぶらかし、男を何十人もつれて、偽りのコミュニティで虚構の友好関係を保つ。
あなたの小説を読んだとき、ああ、あなたは弱い人なのだ、と思いました。
あなたを守り、擁護してやらねばならない、そんなような気にもなりました。
私にとって、あなたは自由の象徴であった。
あなたは人の眼を気にすることなく、他人を顧みず、ただ己の快楽に従う。それはいわば、デカダン的な不良でした。
けれど、あなたの小説の中に、私は確かに、『弱さ』を見ました。
あなたは他人を顧みることがない、けれど顧みぬ結果の報復に、あなたは常に怯えている。これほどの臆病者は、そういないだろうと思います。
あなたを殺すのは酒か、たばこか、女か。あなたはそういった死の陰を恐れている。それに限らない、あなたは臆病で、常に何かに怯え、酒に逃げ、女に甘え、そうしてまた負債を増やしていく。いつその負債があなたを殺すかも、分からないのに。
この人を理解しているのは私だ。そんな傲慢を胸にしたとき、幼心に私は恋を自覚した。
けれど、五歳も離れている。私にとって、高校に上がらんとする年齢の男なんて、ほとんど大人みたいなものだった。
私は幼い恋心を胸に秘めて、時が経つのを待った。中学に上がる辺りで、私は年々、年齢の差が小さくなっているように感じた。
昔は長く感じた一年が、すこしずつ縮んているような気がして、つまり、一年程度の年齢の差が、それほど大きくないように思えた。もう少し、もう少し経てば、きっと、五歳の差なんて小さいものになるような気がしていた。
あなたが高校を卒業した後、兄との関わりもずっと減ってしまって、私もあなたと会う機会がなくなった。
私はむしろ、あなたに会えない時期のほうがずっとあなたを想っておりました。
私はあるとき、兄があなたと久々に会って、酒を呑むと聞き、兄に同行しました。私が16のときでした。
その日の会には私たちの他にも何人もの男女がいて、そのほとんどが兄と同年代の者たちだった。お座敷におかれた卓を男子が6人ほど、女子が5人ほど囲んで、煙草を吸って、お酒を呑んでいた。
「あっ、ユウマだ。その子は?」
私たちは待ち合わせより少し遅れて現場に到着しました。兄の友人のひとりが私たちに気づいて、手で室内へと招きました。
「妹だ。妹のマイだ」
「へえ、それが噂の……」
私はその頃、兄の同級生の間では少し話題になっていたようでした。高校に上がると、とたんに男に持て囃されるようになりました。
けれど、そんな評価に一切の価値を見出せない私もいました。あなた以外の男から寄せられる好感など、まるで無意味に思える。
兄は友人たちの群れをかき分けて、どかどかと部屋の中に入り込むと、あなたの隣を陣取った。それから、
「おう、マイもこっちにおいで」
なんて言って、私をあなたの隣の席へと招いた。お座敷だったので、隣の人間と肩がぶつかるほどの距離だった。
私は心臓の高鳴りがあなたに聞こえていないか不安になるほどだった。顔の紅潮も。できることなら、今すぐこの場を逃げ出したいような気持だった。
幾年ぶりに再会したあなたは、やはり美しかった。現代のダビデ、ドン・ファン、ヒュアキントス、あるいは蘭陵王――そうだ、あなたに鬼の仮面をつけてしまいたい、そう思った。
そうすれば私の鼓動も幾分か落ち着くし、それに、まるでパンに群がる魚のように、あなたの美貌に寄って集る女どもも多少は落ち着くでしょう。
私にはわかる。その女どもに、あなたは愛せない。きっと、あなたの力強さや、奔放さや、単に美貌に惹かれているに違いないのだ。私は違う。私はあなたの弱さや臆病さ、孤独ごと愛している。
「いくつなんだ?」
ご友人のひとりが私の年齢を問いました。
「今年、16になる年です」
と私は応える。
「そうか、そうだったか、初めて会うがね、きみはちょっとした有名人だぜ。芸能の道に興味はないのかね」
ご友人が言う。
「こいつは芸能事務所に就職したいんだ。」
兄が友人を指して、そう言った。
「そうだ、きみは芸能人になるべきだぜ。いい女優さんになる」
将来何になりたいかなど、考えたこともなかった。もうこの何年かは、私の人生は、ほとんどあなたのものだったからだ。自分の将来など案じたことがなかった。けれど、芸能人というのも、なんだか面白そうに感じました。
「16? 未成年じゃないか。酒が呑めないのに、こんなとこ連れてくるんじゃねえよ」
あなたは、唐突に、冷たい声で、囁くようにそう仰った。それは、兄を叱る言葉でした。
「いいだろアキラ、久々に会いたがってたんだよ」
「こんなけだものばかりの場所に連れてくるなんて、お前はよっぽど妹を大切にしてないんだな」
兄はおそらく、というか、ほとんど確実に、私のあなたに対する恋心に気づいておりました。それはもう幼い少女の、大人の男への憧憬ではなくて、まさしく、女が男を想う恋心でした。
「そいつは違う、いいかあ、お前ら。俺の妹に手ぇ出してみろ、俺がぶっ飛ばすぜ」
兄は酒に酔って、家にいるときとはまるでテンションが違った。けれど、彼の言葉に嘘はない、と私は思う。
兄に大事にされていると自覚があった。この場に連れてこられたのも、あるいは、兄にとって私に対するサービスのようにも感ぜられた。あなたに合わせるのが、私に何かカンフル剤のような効果をもたらすのではないか、と企んでいたのだと思います。
私はあなたに会えない二年と少しの間、まるで、ほとんど死人でした。これは、それを見かねた兄の、いやらしい陰謀だと思われます。けれどそれが兄の、たったひとりの妹に対する愛情だということくらいは、馬鹿な私にも分かっていることでした。
「そういえば、アキラ。前の女はどうしたんだよ」
兄の一言は、私にあなたの本性を暴露して、彼はくだらない男だと、だから諦めるのだという一言に聞こえた。けれど、あなたがどんな人間か、それは私が一番知っていることだ。
むしろ、兄の一言を聞いた、その場にいる女たちのほうが、表情がむっとしたのが分かった。
「前の女? 誰だっけ」
なんでもないように言い返すあなた。
女たちはさながら修羅場のような空気を醸して、ふたりの会話を見ている。楽しく吞んでいたのに、この男はいったいなぜこんな話を振るのだ、と兄を責める視線があった。
ああ、この女たちも、あなたを分かっていない。女たちはあなたの傍若無人ぶりに惹かれているはずなのに、その中で特別な扱いを受けたがっている。その他大勢の女とは別の、特別な一人になろうとしている。自分以外にそんな扱いを受けている女がいれば、それは敵だと思っているのだ。
浅い。この女たちに、あなたを理解することはできない。
私には、なんだか、あなたを真に愛することができる才能があるように感ぜられる。
あなたを恐怖と脅迫のどん底から引きずりだしてやれるのは、私だけのように思うのです。
女たちにとって、後入りであなたの隣を陣取る私は、敵に違いありませんでした。この売女が、と目で訴えられておりました。
「ほら、いただろう、感じの良いのがひとり」
「もう忘れたな。俺は女を拒まないからな、俺に失望して、勝手に消えたんだろうな」
女たちがほっと息を吐いた。その前の女というのは、あなたにとって特別ではなかったらしい。
それからみんな、下品な話題で盛り上がって、やれ誰を抱いた、誰に抱かれた、などと盛り上がって酒が進んだ。酒とは、罪深い飲み物だと思った。自分の性を安く見積もることの、どこに高貴さがあろうか。どこに価値があろうか。くだらないと思った。大人とは、くだらない生き物だ。
安い愛らしきものを重ねて、異性を知ったつもりになって、分かり合ったつもりになって、馬鹿だ。
「酒の席にいるんだ、きみも呑むべきだ」
やがて、あなたは私にそう言った。
「きみ」だなんて言って、二年であなたは私をお忘れになったのだ、と私は寂しくなりました。
けれど結局、私は勧められた酒を、勧められたように呑んでしまった。
私には、この苦い液体の何に大人たちが惹かれるのか、まったく理解できなかった。良薬は口に苦しとはいうが、これは良薬には思えなかった。現に、大人たちはすぐにぐったりとなって、へんなテンションで喚いていた。
「どうだ?」
あなたは酒屋の連中を一通り見回した後、私を見下ろして問うた。
「おいしくありません」
私がそう答えると、あなたはぐいと私に近寄って、腕を腰に回した。あなたの、そのあざとくて、気高い、しかしやらしい腕に抱かれ、私は多幸感に包まれるような心地でした。
「そうか、やっぱりガキだ、なあ、まだまだ子どもだ。こんなところに来ちゃだめだ」
あなたはそう言って、愉快そうに、豪快に笑った。
「おいしくないのに、なぜ呑むのでしょうか。身体にも、良くないでしょうに」
「死ぬ気で呑んでるんだよ、みんな。生きてるのが悲しくて、呑まなきゃやってられねえんだ」
それから、ぐいっとウィスキーを喉に流し込んで、あなたは黙り込んだ。
それからの記憶が、おそらくあなたには無いでしょう。
あなたは会の参加者がぽつぽつと消える中、ひとりで呑み続けていた。やがて、ふらりと立ち上がると、代金を数えもせずにお金をテーブルの上に投げて、どこかへ行ってしまった。
兄は寝ていて、私はどうしようと悩みましたが、あなたの様子が気になって、後を追いました。
あなたは二軒ほど先の飲食店の前で倒れ込んでいました。
かわいそうに、と思って、私はあなたに駆け寄った。あなたは眠っていたわけではなかったようでした。居眠りしてしまったのではなくて、きっと、帰ろうと歩き始めたは良いが、すぐに力尽きてしまって、転がってしまっただけのようでした。
「くるしい」
あなたは掠れた声でそう囁いた。
「どこが苦しいんですか?」
私はあなたの上体を起こして、背中をさすってやりました。
あなたはやっと起き上がったと思うと、唐突に、私にくちづけをしました。
私の胸の炎が、いよいよ燃え上がって、頭頂まで焼き尽くすような心持でした。
「よし、これでよくなった」
あなたが言う。私には、なんの口づけだか分からなかったし、直前の会話もすべて脳から吹き飛んでしまって、なにがよくなったのかも分からなかった。
それからあなたは宿を取って、私をそこへ連れて行った。ホテルなんかではなくて、あなたの友人の店だか何かで、「二階、借りるよ」と言って、寝室へと私を連れ込んだ。
私はどういう事態だか、さすがに分かっていました。この何年かで、私は大人になってつもりでした。
あなたは事が終わると、ベッドの脇に座って、煙草をお吸いになりました。
「だめだ、ユウマに怒られるなあ、これは」
「大丈夫です、私、黙っていられますよ」
私は布団にくるまったまま、そう言った。
「そうか、そうか。うん」
あなたは私に言うでもなく、何度もうなずいた。
「そういえば、私、兄から借りてあなたの作品を読みました」
私は出し抜けにそう言った。
「そう、どうだった?」
「あなたは、弱い人なんですね。あなたは死ぬことを恐れている――女や、酒や、たばこに殺されることを」
「ふふ。はははっ、こいつは面白い。……そうだ、俺は怖いんだよ。怖くって仕方がない。断罪が、怖いんだ」
私だけが、あなたを分かってやれる。
私だけが、あなたの弱さを知っても、愛し続けられる。
そういう自負があった。あなたはまた、私の前から姿を消した。
次にあなたに会ったのは、何年もあとで、あなたは東京に出て、作家になっていました。
私もすっかり大人になりましたが、あなたへの恋心は消えていませんでした。何人の男に愛されても、抱かれても、まるであなたとは違う。まったく別の生き物ではないかしら、と思うほど、まるで違った心地でした。
あなたを愛せるのは私だけ、私を愛せるのもあなただけなのです。
十年近く連絡も何もなく、そろそろ私にも、あなたに捨てられたのだと分かった。
だからといって、私の胸の煌めきが治まるわけでもないのでした。あなたが私に火をつけたのだ、あなたに消してもらわねばならない。
私が東京に行ったとき、あなたは流行作家になっていた。
あなたの作品は、まるで変ってしまった。そこに、臆病さの陰はなくて、実体のない孤独だけがあった。無価値で無意義な、虚構の孤独を演じて、あなたは読者にサービスしていました。それは、あなたの本心ではなかったはずだ。
あなたは他人の孤独になど、興味がなかったはずだ。他人を癒すための作品ではなかった、あのころの作品は、まるで、助けてくれと叫んでいるような、悲鳴のような作品だった。傲慢さの中に、あなた自身を癒すためだけの言葉が隠されている、そういう小説だった。
安っぽい読者へ媚びへつらった孤独らしきものを振りまいて、あなたは金にしていました。けれど、私にはあなたの葛藤が手に取るように分かった。そうじゃない、資本主義に負けたのだ、あなたは。あなたの書きたい作品は、こうではなかった。もっと、懐に小刀を指すような、陰のある作品だったはずだ。
発行部数が何万部だかで、開かれた会でした。
兄が呼ばれたので、私もそれについていったのです。
またもや和室の旅館だか何だかで、低い卓を、雑誌社のなんとかさんだとか、担当編集のなんとかさんだかが囲んでいた。
彼らは顔に仮面をつけたような笑顔であなたに媚びて、次は私の出版社でどうか、などとゴマを擦っておりました。
あなたは、まるで変ってしまった。
そこに座る男が、私の初恋の、その男であろうか。
失望しました。
黒い髪を短く刈り上げて、まるで、まっとうな人間だという顔をしている。老いて、貴族らしき美貌も廃れ、もうとっくに、百姓の男のようでした。
ああ、本当にあなたは悪い人だ。私に、私が知らなかった様々な感情を教えてくれる。
私はわけもわからず、お酒の席の隅で、ただ泣いていました。
兄は、そんな私を優しく抱き寄せて、
「ごめんね、マイ。ごめんね。ぼくが悪かったんだ、会わせてやるべきじゃなかったね」
と言って、頭を撫でてくれました。兄はどうやら、あの晩のことを知っていたようでした。あなたは私の眼を見ようともしなかった。
「おい、アキラ、ちょっと」
兄がそんな風にあなたを呼びつけて、やっと、あなたは私との対話を受け入れました。和室から出て、声をひそめて。後ろにはすぐ便所があって、石鹸の匂いが漂っていました。
「やあ、マイちゃん、久しぶり」
あなたは微笑んだ。老猿のような、歪な笑みでした。
「私、あのことは、ちゃんと秘密にしてました。兄にも、言ってませんわ」
私はあなたの顔を直視できないようでした。申し訳ないのではない、あなたの顔を、もうこれ以上見たくありませんでした。できれば、私の幼い初恋を、綺麗なまま記憶に閉じ込めておきたかったのです。
「俺が、言ったんだ。すまないね、約束、守れなくて」
「どうして……」
「恋情より愛情、性欲より友情、だ」
私の初めては、すべてあなたに捧げたというのに。
あなたはあの夜のことを、後悔しているようでした。
妹の私と寝たことがきまずくて、兄と関わりが取れなかったのでしょう。そして、私との一夜のことを打ち明け、謝罪し、兄との友情を取り戻した。
「後悔しているのなら、誰にも言わず、お忘れになったらよかったのに」
失望しました。
絶望しました。
でも、きっと、胸が痛くなるのは、あなたを愛しているからだ。
「だめなんだ、忘れようたって、だめだ。あのとき言ったね、君は。僕は弱い生き物だって」
「…………」
「怖くって、仕方ないんだ。未成年の、それも親友の妹と寝たんだ。今に、ひどいことが起こる。必死で良い人になろうと努めてきたけど、やっぱり無理だ。性欲に支配されているんだ、僕は。根っからの悪人なんだ、心の中に色を好む悪魔がいてね、そのためなら何もかもを犠牲にしてやるってツラぁしてるんだ。きっと、このでたらめで創り上げた名声も、作家としての人生も、今に終わるんだ、もう何もかも、壊れる寸前なんだよ」
ああ、なんて、かわいそうに……。
あなたは強くなったんじゃない。資本主義に負けて、社会に迎合して、強くなったんじゃない。
臆病で、弱虫の、あのころの、子どものままなのだ。
ひとこと、私が、すべてなかったことにしよう、とそう言えば、あなたは随分と生きやすくなるのだろう。
お互い、あの夜をなかったことにして、まるで初めて会ったように、すべて真っ新な状態で、また親友の妹としてあなたに接しよう。そういえば、あなたは救われる。
――でも、絶対、言ってあげない。
これは、ささやかな復讐なのです。
醜い女の、哀れな初恋に向けた、鎮魂歌のようなものです。
この子を妊娠したのは、あの夜。あのときです。婚約者の男に会ってもらった、あの夜。
この子は、私が幸福にします、責任をもって。あなたに認知してもらうつもりもない。これ以上あなたに関わらせるつもりもない。
だけど、最期に、ささやかな鎮魂歌を唄ってあげたい。
この子を、あの女に抱かせてほしいのです。
それが何になるのか、何の意味があるのか、私にもわかりません。
けれど、そうすれば、この子も、初恋も、すべて覚めるような気がするのです。
この恋が、きっと、永遠にあなたを苦しめますように。
この後悔を背負って、あなたの人生の一番の後悔になって、ひとつひとつの私に関わる思い出が、そのすべてがあなたを苦しめますように。