上『親友の妹』
今朝、久しい名前から連絡が来た。
『妹が婚約したんだ。その男が妹に適した奴なのか、お前に見てほしいって妹が言ってる。近いうちに地元に戻れないか。俺も、お前に見てもらうのが一番安心できるように思う』
親友の鈴宮ユウマからの連絡だった。高校時代の友達で、高校時代と言えば俺にとってはほぼすべてが黒歴史だったが、彼だけは違う。ユウマとは出会いこそ高校だったが、人生通して永遠の親友だ。彼も同じように思ってくれている。
だから、妹の婚約者の品評なんてものも頼ってくれるのだ。
ユウマの妹とも知り合った仲だ。あまり会いたい関係ではないけれど、他でもないユウマに頼まれては、無下にできない。高校時代、俺は友情やら愛情、愛着を無下にしないと決めて生きることにしたのだ。
俺はすぐに準備を済ませて、翌朝にでも出よう、と返事をした。
それから妻のいるリビングへと出た。
「サキちゃん、鈴宮、覚えてる?」
「ああ、鈴宮くん? 高校の時のお友達でしょ?」
サキちゃんは、子どもの洋服を畳みながら応えた。たしかユウマとも面識がったはずだ。
「妹が婚約したらしいんだ。それで、その男がどんなもんか見に来てくれって頼まれて……」
「なにそれ?」
サキちゃんは笑った。
「百年前の話じゃないんだから。妹さんがどんな男と結婚しようと、妹さんの自由じゃない? 他の男たちが寄って集って品定めするようなことでもないでしょ?」
「それは俺もそう思うけど、ユウマの頼みだし……。それに、その妹も俺に見てもらいたいって言ってるらしいんだよ」
「変なの。……それで? 地元に帰るのね?」
「そうなんだ。行って会って帰ってくるだけだから日帰りできると思うけど、とにかく、そのあいだ子どもの面倒を見てほしくて」
サキちゃんと出会ったのは、東京に出てきたあとだった。
俺は小説家としてデビューして上京してきた。サキちゃんは当時の担当編集だった。今は仕事はしていなくて、専業主婦となっている。
「なにぃ、わざわざ。私の子どもなんだから、私が面倒みるのは当然でしょ」
サキちゃんはそう言って笑う。
そうか。そうだろうか? 俺にはよく分からなかった。良い人間というのは、配偶者に子どもの面倒を丸投げするのを良しとはしないのではないか。
幼少期、俺は父に『男らしくあれ』、『女に優しくあれ』とそのふたつだけを教わった。妻に家事と子ども世話を押し付けて、妻にはあまり関係ない交友関係のために家を出るのは、女に優しい行為とは思えなかった。
「子どもが二人いるような気分ね。ひとりはもう大きいのに、好きなことばかりやってる放蕩息子よ」
サキちゃんが言った。
「すまないね、自分でも情けないと思うよ」
「いいの、作家と結婚するって、きっとそういうことだから。覚悟してたことだよ、ちょっと身勝手なことくらい」
サキちゃんはそこでちょうど畳みものを終えて、ふう、と一息吐いた。
*****
翌日、俺は一応、一泊できる分の用意を持って東京を出た。
昨日のうちに鈴宮ユウマに連絡を入れて、俺は駅から地方の鉄道に乗り換えて、鈴宮家を目指した。
ユウマは地元で就職した。彼の職場も、生活も、堅実を体現するような態度だった。
地元では、東京の大きな企業に就職しようと試みる人間が多かったが、ユウマは実家から出るつもりがなかった。五歳離れた妹がいて、親の代わりに面倒を見るつもりだった。けれど、彼の職場は別に小さな場所なんかではなくて、良い仕事に就いて、親孝行をしていた。
俺はユウマのことを尊敬している。
俺とは違う。彼は正しい努力を積んで、世間に認められる良い男になった。
俺は違う。正しい努力なんて積まなかった。たまたま文が書けて、たまたま目をつけてもらえて、だからなんとなく作家になった。
前に寝た女に、「小説書きなんて、黒歴史になるだけだ」と言われたことがある。
俺は恥ずかしくて、顔が真っ赤になった。小説なんて書いていても、いつか『恥』になるだけだ。その通りだと思った。他人を意味もなく苦しめ、そのうえ何もできない自分が、唯一縋った文学すら、他者からすれば『恥』でしかない。
文学など、どだい努力ではない。
世間で認められる音楽や、スポーツや学問。それらは正しい努力であって、安定した生き方につながるが、文学は違うらしいのだ。
社会からすれば、俺は孤独な日陰者だ。
結婚をしてから、俺の中に昔からあった疎外感や虚無感のようなものはむしろ大きくなった。
人は、誰かと一緒にいるときこそ、より強く孤独を自覚するのだ。
ほんとうは、ぜんぶ辞めたい。努力なんて、これ以上したくない。努力すればするだけ、自分の無能さを知らされる。俺が必死に縋りつく努力なんて、他の誰かからしたら努力とすら認められない、ちっぽけなものだ。頑張ったって、惨めな気持ちが残るだけなのだ。
「おお、来たか、アキラ!」
ユウマの家を訪ねると、玄関先まで出てきたのは鈴宮ユウマその人だった。
「久しぶり、ユウマ」
俺はユウマと握手をした。
「まだ禁煙なんてしてないよな? 久々に一服しようや」
ユウマはそう言って、俺を家の中へは招かず、自分が表へと出た。
彼はポケットから電子タバコを取りだして、フィルターを差す。ブゥン、と音がするとそれを咥えた。
俺も紙巻きの煙草に火をつけた。
「家の中で吸ったら、やっぱ怒られるのか?」
俺はユウマに問う。
「いや、吸ってみたこともないから、怒られるかは分からん。今はこの家、俺と母ちゃんと俺と、妹が住んでるんだけど、家のことはほとんど俺がやってるんだ。だからまあ、家で何してても怒られないとは思うよ。でもほら、俺って妹が未成年のときから吸ってるし、母親も病弱なんだ。やっぱり気ィ遣うっつーか」
「そういうもんかね」
「お前は家で吸ってても怒られないのか? 今、持ち家なんだろ、もう?」
「いや、前は怒られたよ。うちは娘もいるからな。……でも俺って吸ってないと、仕事が進まないんだ。吸うためにいちいち外に出てたら、作業が進まないってごねて、部屋でだけ吸わせてもらってるよ」
東京に出たときは部屋を借りていたが、結婚して、娘ができるタイミングで新築一戸建てを購入した。その年は一作ヒットして、俺は有頂天になっていて、ローンも組まずに買った。今思えば、ありえないなと思うけれど、金ならあった。あれが俺の人生の再興到達点だったに違いない。
「立派だなあ、お前は。札つきの不良が、今じゃあ売れっ子作家か」
ユウマが言う。
「何を言ってる、お前こそ、立派じゃないか。やっぱり作家業なんてダメだよ。ちゃんと勉強して、ちゃんと就職しないと」
「今どき、定職就いてりゃ偉いってことはないだろ。やっぱり恥ずかしいよ、実家暮らしは。お前は、結婚もしてるじゃないか」
それから、少し黙った。
俺には分かるのだ。俺がいくら尊敬していようと、ユウマも、自分の人生を恥じているのだ。俺とはまったく違った軸で、彼もまた、自身を落伍者だと思っている。
堕ちているのに、堕ち切れていない。そういう人間にしか、分からぬ苦悩というものがある。
「マイちゃん、もう家にいるのか?」
「ああ、婚約者も一緒だ」
マイというのは、ユウマの妹のことだ。鈴宮マイ、それが彼女の名前だ。
「どんな男なんだ?」
「感じの良いやつだったよ。若いのにしっかりしてて」
「だったら結婚くらい、させてやればいいじゃないか」
「別に俺があいさつさせろって言ったわけじゃないよ。妹があいさつさせたがってたんだ」
「なんで俺まで呼ぶのか、本当に理解できないな」
俺は吸い殻を地面に捨てて、踏み躙ってから、ああ、善人はポイ捨てなんてしないか、と後悔した。
「ほら、マイ、俺たちが高校生の時、お前に惚れてたろ」
あー、あんまり思い出したくないかもなあ。
「いつの話だよ。理由にならないだろ」
「まあ気が進まないのは分かるけど、ほら、俺って結婚してないからさ。既婚者のお前に見てもらうなら確かだと思うんだよ」
既婚者などと、まるで世間に適応できた人間のように呼んでほしくないような気がした。
俺は立派な人間なんかでは、断じて、ない。
「おい、行くぞ」
ユウマがそう言って吸い殻を捨てると、俺の肩を叩いた。
本当に、気乗りしない。そもそも、マイちゃんともあまり会いたくない。なんで来てしまったのだろう。
「マイ、ケンジくん、アキラ来てくれたよ」
ユウマが玄関の戸を開けて、家の中に声を響かせた。
俺はユウマに続いて靴を脱いで、内へ上がる。ユウマに引っ張られるようにリビングへと入って、食卓に備えられた椅子の背もたれにスーツのジャケットをかけた。
マイちゃんとその婚約者はリビングの前のソファに腰かけていた。
「あっ。……はじめまして、瀬戸ケンジです。マイさんの、婚約者です」
瀬戸くんは立ち上がって、俺に挨拶をした。
「ああ、どうも、初めまして。芹澤アキラです」
「芹澤さん、久しぶり」
マイちゃんも立ち上がって、瀬戸くんの隣で、まるで、聖母のような微笑を浮かべている。
「マイちゃん、ひさしぶり」
俺も軽く会釈をした。けれど、ああ、しんどい。何なのだ、この空気は。絶対に俺がいるべきではない、それだけは分かる。
ユウマやマイちゃんは旧知の仲なので構わないが、瀬戸くんからしたら俺はどこの誰だかもよく分からない中年男性である。
俺はそれから、しばらくユウマと過ごした。
おそらく、ユウマからしたらこっちが主な目的であったのだ。俺たちは二人で街に出て、日が落ちるまで好きに過ごした。
晩飯はマイちゃんと瀬戸くんと食べることになっていて、俺たちは若い頃だったら考えられないほど早く帰宅した。
「瀬戸くんは、今なにをやってるの?」
俺は夕飯の食卓で問うた。皆、酒を飲んで、それなりに話しやすい空気になってきていた。
「僕は仲介業者です。商社ってやつですね」
瀬戸くんは何でもないようにそう言って、牛の肉を口へ運ぶ。
「へえ、立派だね」
「でも、聞きましたよ。芹澤さん、作家なんでしょう? それも売れっ子だとか」
瀬戸くんは眩しい笑顔でそう言った。ああ、この人は善の人なのだな、と思った。
「大したことないよ、作家なんて。デビューから流行まで、全部運が良かっただけなんだ」
「世の中のたいていのことは運次第でしょう。運も実力のうち、って言います」
瀬戸くんが言った。これは先輩に可愛がられ慣れてやがるな、と思った。まあ、俺は社会人経験がないから、よく知らないけれど。
「俺に許された実力はせいぜい運だけってこった」
「別にそう言ったわけじゃないですよ」
瀬戸くんはそう言って、声を出して笑った。
「瀬戸くん、きみはマイちゃんと結婚するべきだ。俺は彼女を昔から知ってる。彼女は幸せになるべき人間だし、きみだってそうだ。君が望んで、マイちゃんもそれを望むのなら、誰の許可を得るべくもなく、結婚するべきだよ」
「俺もそう思うよ。挨拶に来てくれたのは嬉しいけど、大事なことは本人たちで決めるべきだ。俺の許可なんて、取らなくていいのさ」
俺の考えに、ユウマも同調した。
ユウマに挨拶をさせる道理はある。病弱な母と一緒に、ここまでマイちゃんの面倒を見たのは、他でもないユウマなのだ。学生時代の、不良生徒だった彼からは想像もできない。
そんな彼が心を一新して大切に守ってきた妹を、どこの馬の骨かもわからぬ男が連れて行くというのは、なるほど、悲劇的である。
しかし、俺に相談する必要なんてまったくない。
初恋など、誰でもするけれど、誰もが忘れるものだ。
俺に勝手に惚れていたからと言って、俺が納得するような男と結婚しなくちゃいけないなんて、そんな道理はない。
それとも、こんな出来た男と婚約した姿を見せて、俺に後悔をさせたいのだろうか。残念だが、後悔はもうし飽きた。
瀬戸くんは立派な男だ。彼と結婚すれば、かならず幸せになれるだろう。マイちゃんは、彼と結婚するべきだ。
そこに俺が口を出す権利なんて、ないのだ。立派な男と結婚できる女に、たまたま惚れられていたらからと言って、何を後悔するのだろう。俺はマイちゃんと結婚したいなんて、思ったこともない。
それに、いったい、何年前の話なんだ。マイちゃんが俺に惚れていたなんて。
そのあとも彼女はいくつもの恋愛を経験しているだろう。
いや、しかし、そう割り切るとますます、自分がここに呼ばれた理由が分からなかった。
「アキラ、今日は泊っていくか?」
ユウマに尋ねられる。
「いいや、帰るつもりだよ。念のために一泊用の用意はしてあるけど、なんのトラブルもなく済んだし、ぼちぼち帰るよ」
「駅まで歩くだろ。酒も入ってるんだし、せっかくなら泊っていけよ。明朝に、俺が車で送ってやる」
「かまうなよ。女房に子どもを任せてあるんだ。申し訳ないから、さっさと帰るよ」
それから少し無言の間があって、おかしくてたまらない、という風にユウマが吹き出した。
「大悪党・芹澤の言葉とは思えんなあ。いつからそんな女を大事にするようになった?」
「いつからって……」
たしかに昔の俺、俺だけではなくて、ユウマも、地元が誇る悪人だった。とはいっても、学生にできる範疇の悪事を働いていたに過ぎないが。
とにかく、俺は弱い人間だから、たくさん不道徳なことをした。けれど、もう辞めた。俺は善い人間になる。
「そうですよ、芹澤さん。久々に会ったのだし、ぜひ泊っていって」
と、マイちゃんも言った。みんなしてそう言うのなら、と、俺はやはり人の厚意に甘えることにした。
彼女の言葉は、まるで妻のことなど放っておけ、とでも言いたいかのように聞こえたが、これは俺が悪人だからそう思ってしまうのだろう。
俺と瀬戸くんは鈴宮家の部屋をひとつずつ借りて、一泊していくことになった。
その夜、風呂を借りて、与えられた部屋で、俺は少しでも仕事を進めようと机に向かっていた。文学は、いつのまにやら、俺の趣味から仕事へと変貌していた。そこに、かつてのような救いはなかった。
ただ、せめて、今まで俺が苦しめ、迷惑をかけてきた幾人もの人たちへの罪滅ぼしにでもなってくれ、と、せめて誰かを呪うのではなく、誰かを救ってくれと続けてきた生業だった。俺はもう救わなくていい、今度は文学で誰かを救いたかった。
コンコン、と扉をノックされて、俺は立ち上がらずに、
「ユウマか?」
と扉の向こうの者に尋ねた。
「私です、マイです」
と応答がある。
「入っても?」
「構わないけど、どうかした?」
マイちゃんが扉を開けて、入室した。
彼女は寝巻に身を包んでおり、シャワー後のようで、髪を下ろしている。あまりじっくりと見なかったが、髪を下ろしていると、俺の知っているかつての彼女ではなく、大人の女だと思った。俺が知っていたころは、若くて、なにより幼かった。
「お仕事ですか?」
マイちゃんは問いながら、ゆったりと俺の方へと歩みより、やがてベッドの上に腰を下ろした。
「うん」
「順調なんですか?」
「いいや、だめだね。まったくだめだ。もうたいして売れることもなく死んでいくんだと思うよ」
デビュー作は売れた。二作目も売れた。流行作家だともてはやされた。
そのあとは、ずっと閑古鳥が鳴いている。
性と暴力を抜けば、俺の作品には何も残らなかった。かつていた世界を最大限美化して、過度に脚色して、格好つけた作品を書いた。そしたら売れた。そういう作品が、過去の自分を救うと思っていた。
けれど違った。もう今は、何を書いても救われた気持ちにはならなかった。
「ふふ、そんなこと言って。芹澤さんって、ひねくれてるのね」
「ああ、そうだよ。知らなかったかい?」
「いいえ、知っています。あなたのことは、全部」
「…………」
俺は振り返った。ベッドの上で、微笑む美女を見る。
妖艶で、世界を滅ぼす悪魔にも見える微笑。
その眼は、俺のすべてを、本当に見透かすような眼だった。
俺の知る彼女の姿は、最も新しいものでも、彼女が高校生くらいのときだったはずだ。
そのときとは、当たり前だが、まるで別人のように見えた。
十代のころから、彼女は美しく、やたら男どもにモテた。それは彼女の同級生に限らず、俺の同年代の者まで噂にするほどだった。彼女は当時から、ユウマの自慢の、大切な妹だった。
そのころは華奢な女子だった。か細く、弱々しく、触れたら壊れてしまいそうな少女だった。
今は肉がついて、女らしい体つきになった。
「なにか用事があって来たんじゃないの?」
俺は問うた。
「別に。お話がしたくて……、ケンジさん、どう思います?」
瀬戸ケンジ。彼女の婚約者だ。
「少しだけ、気障ね。そうでしょう?」
「そうかな。俺はそうは思わなかったよ。良い旦那になりそうだ。少なくとも経済面は不安がない」
「芹澤さん、結婚って、愛よ。お金じゃない」
彼女は話し方も、以前と変わったように思えた。子どものときと比べたら当たり前なのだが、今は大人の余裕のようなものを感じる。
「愛しているんだろう?」
「……さあ」
「愛しているのなら、そのうえ金も心配ないとなれば、結婚したほうがいいだろう」
「…………」
マイちゃんは黙った。
「マイちゃん、俺ほど良い男は、滅多にいないんだからね。あれくらいが妥協点さ」
俺は冗談で、そんなことを言った。
「芹澤さん、あなたは私の初恋なのよ」
「知ってるよ。まさか、引きずっているわけでもないだろう」
「引きずってるのよ」
俺は一度机に戻した顔を持ち上げて、椅子をくるりと回して、マイちゃんの方へと向き合った。
「忘れなさい。初恋なんて、誰もが多少は引きずる。だが、どこかで踏ん切りをつけるもんさ。マイちゃん、さっさと忘れたほうが良い。ちゃんと向き合わなかった俺への当てつけなのか、単に俺が納得する人と結婚したいのか、魂胆はまったく分からんが、とにかく俺のことは忘れろ」
「あなたは、私のこと、お忘れになった?」
マイちゃんの表情は、妙に落ち着いていて、それでいて妖艶で、なんだか不気味な感じがした。
とろりと溶けるような眼をしている。
「まだ酔ってるのかい。マイちゃんは、俺の親友の妹だ。自分の妹のように、大切に思ってるとも」
「それじゃあ、私の初恋に、踏ん切りをつけさせて?」
マイちゃんはそう言って、ベッドから立ち上がり、寝巻の前のボタンを一つずつ、ゆっくりと開け始めた。
「ど、どういう……? だめだ、マイちゃん、君は、婚約している男がいるんだぞ」
寝巻のシャツが開かれ、黒色の下着が露わになった。
「抱いてほしいの。『あのとき』のように」
瞬間。
俺は胸をナイフで突き刺されたような心持になった。
そうだ、これは罰なのだ、きっと。俺の人生とは、過ちの連続であった。
執行人の一人に彼女がいて、彼女もまた、俺の過ちのひとつだった。誰も忘れていない。俺がどんなに償ったつもりでいても、被害者は許しはしない。当然だ。
俺がいくら悔いたって、被害を一方的に被った者たちが、俺を許す道理などないのだ。
「マイちゃん、辞めよう。やめてくれ。……俺が悪かった、若いときの俺は、ろくでなしだった。――でも、心を入れ替えたんだ。改心した」
「あれは、若さゆえの過ち?」
「そうだ、そうなんだ。赦してほしい。俺は、俺は善い人になりたいんだ、もう、罪悪を重ねたくはないんだ、赦してくれ……」
俺は地面に這いつくばって、マイちゃんから逃れるように、カーペットに頭をこすりつけて、とにかく謝罪を繰り返した。
婚約者を持つ女を抱くのは、悪いことだ。善い人間は、そんなことをしない。
俺は20歳になる手前まで、ろくでなしのクズ、ゴミ人間だった。否、今もきっと、ゴミ人間のままだ。
人のなりそこない、ひとでなし。きっと、ひとでなしとは、俺のために創られた言葉だ。
酒に溺れ、女に呆けて、勉学や努力を拒み、大人になれず、誰からも見捨てられた。
しかし、俺は過去の行いのすべてを、後悔している。
善い人間になりたい。その意志に、一切の嘘はない。
「ならば、やはり、抱いてほしい。抱いてくれたら、これで最後。すべて忘れて、私は新しい人生を歩むことにする――」
マイちゃんは屈むと、足元で這いつくばる俺の耳元で、聖母のような優しい声で、そう囁いた。
罰? 否、これは救済だろうか。
「――抱いてほしい。あなたを忘れるために」
*****
今朝、俺はユウマに駅まで送ってもらった。
ひどく憂鬱な気分だった。朝になると、部屋には俺しかいなかった。俺は人妻を抱いたのだ。それは、悪人のすることだ。
今朝皆が目を覚ましてきたとき、まるで昨晩のことは一切なかったことかのように、簡単な挨拶をした。
瀬戸くんに、申し訳ない。世の中に、真に、善人と言える者があるのならば、それはきっと彼のような人間だと思う。
「それじゃあ、アキラ。また」
ああ、さようなら、親友。
かつての悪辣極まる俺の姿を知っていて、それでもなお愛してくれる親友よ。
今は、君の顔を見ることもできない。