冬の到来
ユールは、口の端にクリームがついていることも忘れ、庭の中央で突っ立ったまま夜空を見上げていた。夜空には星々が控えめに瞬いているだけで、あえて凝視するほどの不思議さはどこにも見当たらなかった。が、彼は知っているのだ。もうじきそこに彗星が現れることを、そしてそれが落下することを――。
ユール、と不意に名前を呼ばれた。はっとして振り返ると、庭のベンチに座っている彼の父親がこちらに向かって手招きしている。ユールは夜空と父親を交互に見て、それから一歩踏み出したが、その足をすぐに元の位置に戻してしまった。
「彗星はまだやってこないよ」と父親は言った。「残りのケーキを食べなさい」
ユールは頷くと、駆け出した。庭のベンチに座るなり彼は、急かされているかのように、テーブルにあるケーキを勢いよく頬張りはじめる。
「この子ったら」ユールのとなりにいる彼の母親が微笑んだ。「口の周りがクリームだらけじゃないの」
母親がユールの口元の生クリームを拭った。向かい側に座っている父親は、その様子を眺めながら表情を緩ませた。
テーブルには具材たっぷりのピザや温かいスープ、いちごの載ったケーキなどが用意されていた。ささやかな贅沢を施した夕食で、毎年、この時期になるとユールの母親が腕を振るって作るのだ。
食事はすでに終盤に差しかかっていた。
ケーキをあっという間に平らげたユールは、ふたたび庭の中央まで歩いていって、それから夜空を見上げた。
どのくらいの時間そうしていただろう。やがて、ユールは夜空の景色の変化を素早く感じ取り、続けて興奮した声で叫んだ。「彗星だ!」
その小さな彗星は、真っ白な尾を煌めかせながら夜空を流れていた。ユールのはるか頭上をじっくり通り越すようにして、着実に地上を目指している。
ユールは束の間、一年に一度だけのイベントに思いを馳せた。そのイベントとは、今まさに目撃している彗星のことだった。彼は毎年、このときを楽しみにしているのだった。
「ユール、暖かい恰好をしなさい」
母親がそう言いながら、ユールの元に歩み寄ってきた。と思ったら、彼は母親に分厚いダウンを着せられた。次いで首にマフラーが巻かれ、さらには手袋まではめられた。十一月の下旬で、寒さはまだ厳しくはないのに、少々大袈裟な恰好だった。彼の両親もまた彼と同じように、それぞれダウンを身に着け、マフラーを巻いていた。
「そろそろね」と母親が言った。
ああ、と父親が頷いた。「いよいよだ」
「パパ、肩車して!」
ユールがお願いすると、彼の小さな身体は父親によって軽々と持ち上げられた。目線が一気に高くなり、遠くの方で彗星が地上に近づいていく様子がより見て取れるようだった。彗星は今や火球のようになっていた。
「十、九、八――」特等席に座ったユールは、間延びした調子でカウントダウンをはじめた。「七、六、五――」
父親のとなりに立っている母親が、ユールを一瞥してやわらかく微笑んだ。
「四、三――」
カウントダウンに合わせて、父親は踊るようにゆっくりと身体を揺らせている。
「二――」彗星は地平線に呑み込まれていく。「一」
ユールの声は夜の空気の中へ溶けていく。周囲に静寂が訪れた。
次の瞬間、水平線の向こうから光が生まれ、それは瞬く間に地上を覆いつくした。迫りくる光はあまりにも眩しく、ユールは思わず目を閉じた。遅れるようにして、くぐもったような轟音が微かに聞こえ、さらに、凍えそうなほど冷たい強風が頬を叩いた。これらの現象はほんの短い時間で起こり、過ぎ去っていくのもまた早かった。ユールは彗星が落ちたことを悟った。
程なくして、ユールが瞼を持ち上げると、あたりにはすでに静寂と夜闇が戻っていた。
それから――。
「雪だ!」とユールは叫んだ。
家々や街頭の明かりに照らされながら、真っ白な雪が音もなく降っていた。緩やかな風にのって舞い降るその様を仰ぎ見ると、まるでスノードームの中にでも入ってしまったかのようだった。ユールは降り止んでしまうまで見届けるつもりなのか、きらきらと輝く真っ白な来訪者たちをその瞳で一心に受け止めていた。
「きれいね」と母親が言った。
ああ、と父親が言った。「壮観だな」
ユールたちが暮らすその地域では毎年、彗星が決まった場所に落下し、季節が変わることを教えてくれる。地面に衝突した彗星はその瞬間に弾け、内包していた雪を上空へと放つ。それは初雪であり、冬の到来を知らせるものだった。
ユールはさきほどから舞い落ちる雪にすっかり目を奪われていた。夢中になるあまり彼は寒さのことを忘れていたが、一気に下がった気温に対して身体は耐えらなかったらしく、盛大なくしゃみが飛び出した。
ユールが鼻を啜ると、彼の両親は声を上げて笑い、両側から温めるように彼を抱きしめた。
「風邪を引く前に部屋へ戻ろうか」と父親が言った。
お楽しみを十分に味わい尽くしたユールは大きく頷いた。そして彼と、彼の両親は白く染まりはじめた庭を後にした。
食事の片付けも終わり、ユールが掃き出し窓を閉めようとしたとき、一片の雪が部屋へと迷い込んだ。彼はそれを手のひらで受け止める。橙色の明かりで満ちた部屋で、手の中の雪はやわらかく輝いていた。
ユールは雪が溶ける前に口を開いた。
「ようこそ、地球へ」