独身貴族は生ハムの原木をスライスする
工房から自宅に帰ってきた俺は、早速と原木と向き合った。
全ての工程を終えてようやく食べることができる。
今まで傍にいながらお預けを食らっていたが、もう我慢する必要はない。
アキレス腱の根元辺りにナイフを入れる。
骨に到達するほど深い切れ込みを作ると、今度は横からナイフを入れて三角形になるように削り取る。
次にどの辺りまで切るか目星をつけて、その形通りに切れ目を入れていく。
皮は中々に硬いためにナイフで手などを切らないように注意だ。焦らずにゆっくりと刃を通していく。
大きな肉を捌いている感じが堪らない。
切れ込みを作ると、外側にある皮をナイフで大きく切り取る。
黄土色の皮が削げると、内ももの赤い肉が露出された。実に綺麗だ。
切り取った脂身は後で保存用として使用するので、捨てずにきちんと取っておく。
表面についている黄色い脂は酸化している証なので、ナイフで丁寧に取り除いた。
こうすることで肉を味わう時に雑味のないピュアな味わいとなるのだ。
「よし、生ハムをスライスだ」
この日のためにきちんと買った生ハム用のナイフ。
皮を切り取ったナイフと比べ、刃が長くとても薄く柔軟性を備えている。
研ぎ棒というナイフのような形をした砥石とこすり合わせる。手前から奥へと滑らせるようにシャッシャと三回。
布巾で鉄粉を拭い取ると準備完了だ。
露出した赤身へ慎重にナイフをくぐらせていく。
基本的にナイフは上から下へ。細い方から太い方へと滑らせるのが鉄則だ。
表面が平らで厚みが均等になるように意識する。
すると、ナイフの上に薄い生ハムが載ってくる。
「お、おおお……!」
ぺりぺりと気持ちよく剥がれて、薄い生ハムが出来上がっていく。
遊び心に身を任せてそのままナイフを滑らせると、かなり長く薄い生ハムが取れた。
「大きく薄く取れたか?」
大きな生ハムをじっくりと眺めると、中央部分は色味の強い赤となっていた。
薄くスライスできていれば、薄っすらと透けて見える。
そうじゃないということは、生ハムを薄くスライスできていない証拠だ。
恐らく赤身の強い部分は味がとても濃いだろう。
しかし、かなり分厚いわけではないので食べられないわけではない。
「これはこれでアリだ」
プロの職人に切り取って綺麗な生ハムを味わうのも悪くないが、自分で四苦八苦しながらスライスするのも悪くない。
とはいえ、生ハムを大きくスライスするのは邪道だ。
基本的にスライスするべき大きさは一口分が望ましいからな。
どこまで切り取れるかチャレンジはここで止めにして、真面目にやることにする。
先ほど同じようにナイフを滑らせる。
きちんと一口の大きさにカットできたらピンセットで摘まんで皿に盛り付ける。
後はその繰り返しだ。
表面に大きな凹凸ができないように赤身にナイフを入れて、ぺりぺりとスライス。
しかし、それは納得のいく形と薄さではない。
「……難しいな」
形が直角ではなく、Uの字に曲がってしまっている。
これは真っすぐに刃を入れられていない証だ。
肉の繊維を二度断ち切ってしまっているのだろう。
無駄な損耗は味の劣化や風味を損なうことになる。
至高の生ハムを味わうにはしっかりと刃を真っすぐに入れなければいけない。
それでも生ハムをスライスするのは難しく何枚も失敗をしてしまう。
それでもめげずに切り取ってはピンセットで摘まんで、ずらしながら一枚ずつお皿に盛り付ける。
そうやって繰り返すこと十枚目にして、ようやく納得のクオリティを誇る生ハムが取れた。
「……長さ五センチ。脂肪分もきちんと入っている上に薄くスライスできている! 完璧だ!」
この一枚はプロが切り取ったと言っても過言ではない。
トリスタンやルージュであれば、プロの料理人が切ったと思い込むことは間違いないだろう。
「よしよし、この調子で次も……ちっ、難しいな」
先ほどのスライスを意識してナイフを動かしたつもりだが、次の一枚のクオリティは微妙だった。
一枚目、二枚目に比べればとても薄く、形も綺麗ではあるが納得のいく形でない。
ただでさえ原木は凹凸が激しい上に、ナイフを滑らせることによって形も徐々に変わる。
それもきちんと織り込んだ上に薄くスライスするのはとても難しい。
「生ハムをスライスするプロの職人がいるわけだ」
焼き鳥やウナギに通じるような奥深さがあるな。
黙々とスライスをしていくと、やがて皿には大輪の花が咲いていた。
「これほどの量の生ハムが並ぶと壮観だな」
フグの刺身のように薄く立体的に盛り付けられた生ハム。
皿自体は大きくないが見た目がとても華やかだ。
やや不格好ではあるが気にならない範囲だろう。
「早速食べてみるか」
料理は色々と用意するつもりだが、まずは切り立てのものを味わいたい。
一枚だけ手で取って口に運ぶ。
口に中に広がる香ばしい風味。
既にスライスされて販売されている生ハムとは一線を画す濃厚さと上品な味わい。
肉質はしっかりとしており、癖は非常に少ない。
生ハムに慣れていない者でも非常に食べやすい味だ。
噛めば噛むほど凝縮された旨みがにじみ出てくる。
「店主がオススメするのも納得の味だな」
この味を知ってしまうとバラ売りされている生ハムの味が霞んでしまう。
それほどまでにこの生ハムの原木は素晴らしい味だ。
慌ててマジックバッグの中に保管している赤ワインをグラスへと注ぐ。
赤ワインを煽ると、口の中でワインの旨みや渋みと結びつき、また違った味へと変化していく。
「シンプルに赤ワインに合うな」
なんだかこのまま生ハムと赤ワインだけで晩酌したくなるが、それは勿体ないので程々のところで切り上げる。
まずはトマトを薄くスライスしていき、お皿に盛り付ける。
塩胡椒を軽く振りかけたら、生ハムを千切って乗せていく。
そこにお酢とオリーブオイルをたっぷりとかけて、千切りにした大葉をふんわりと乗せ、最後にブラックペッパーを少しかければ生ハムとトマトのカルパッチョの完成だ。
次に用意するのはカマンベールチーズ。
これを一口大にカットすると、それを生ハムで丁寧に巻いていう。
その上にバジルを軽く振りかけると、カマンベールチーズの生ハム巻きの完成だ。
単純な料理だがそれがいい。今日の主役はあくまで生ハムだ。
過度な装飾は生ハムの味を損なうだけだろう。
バケットをオーブントースターで焼き上げ、主役が出そろったところで俺は食卓についた。
「いただくとするか」
生ハムとトマトのカルパッチョにフォークを伸ばす。
「さっぱりとしたトマトと濃厚な生ハムがよく合う」
生ハムがやや分厚かったせいか味が濃い部分もあったが、フレッシュなトマトはそれを見事に包みんでいた。
通常、生ハムを何度も食べていれば、その塩気で味がしつこく感じるが、お酢とオリーブオイルのソースがまろやかにしてくれる。
さらに大葉の風味やブラックペッパーの風味が時折やってきて、味に何度も変化を与えてくれている。
日差しがきつくなり食欲の落ちてくる季節であるが、この料理ならばいつでも食べられそうだ。
バケットの上にそのまま乗せて食べても美味しく頂ける。
生ハムのカルパッチョを味わうと、次にカマンベールチーズの生ハム巻きに移る。
カマンベールチーズのクリーミーな味わいと、濃厚な生ハムの塩っけがとても良く合う。
「当然のように美味しいな」
少し振りかけたバジルの風味が実の爽やかで、グンと食べやすくなっている。
ブラックペッパーを少し振りかけるのもアリだが、俺は断然こっちの方が好きだな。
トマトと生ハム。チーズと生ハム。約束された相性の良さだ。
どちらの料理も赤ワインがとてもよく進む。
気が付いたら一杯目のグラスは空になっており、慌てて二杯目のワインを注いだ。
料理を摘まみつつも、そのまま生ハムも頬張る。
何の調理も加えていないが、生ハムの味を単純に楽しめる。
自宅で切って好きなだけ生ハムを食べることができる。その自由さが美味しさ以上の満足感を俺に与えていた。
ゆったりとした夜の時間を楽しむと、食器を洗って片付ける。
洗い終わったお皿の布巾で拭うと、風呂に入って歯を磨いて就寝……であるが、まだやるべきことがある。
それは生ハムの保存だ。
当然、このまま赤身を剥き出しにしていれば表面が乾燥し、腐ってしまう可能性がある。
それを防ぐために切り出す時に取っておいた薄く切った脂身を乗せて蓋をするのだ。
そこに透明なスライムの皮でグルグル巻きにして、生ハムを保護する。
こうすることで生ハムの表面の乾燥や劣化を防ぐことができるのだ。
「む? しかし、俺の場合はマジックバッグがあるから、そのまま入れればいいのか?」
処理を終えてからそんな思考がよぎった。
「まあ、別にこのままでいいか」
原木の手入れも含めて俺は楽しんでおり、いつでも切り出せるのがいいのだ。
マジックバッグに保存して取り出すので、いつもとまるで変わりない。
そう結論づけた俺は、このままリビングのテーブルに設置しておくことにした。
また食べたくなったら好きな時に切り出せばいい。そう思うと不思議と頬が緩んだ。
「これが生ハムの原木を持つということか……悪くない」
俺は生ハムの原木をしばらく見つめ続け、風呂の支度を整えるのであった。




