独身貴族は音に浸る
独身貴族の書籍が8月30日に発売です。
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是非よろしくお願いします。
ブレンド伯爵のお茶会の翌日。俺は休暇を取って自宅にいた。
ストレスのかかる出来事があった翌日は休暇を取ることにしている。
それが俺のポリシーだ。
病は気からという。病んでいると気付いた時にはもう遅いということもあり、こうやって病にかかる前にしっかりと心のケアをするのだ。
工房はコーヒーミルの販売を前に迎えてか、ルージュとトリスタンは物凄く忙しそうであるが工房長である俺にはあまり関係ない。
発注の数こそ予定よりも増えているが、俺の生産速度をもってすれば問題なく作り上げることができるし、自宅でだって生産することができるので問題はなかった。
それよりも急務はしっかりと身体を休めて気分転換をすることだ。
今日はどのようにして過ごすべきか。などと考えながら家事をやっていると、ジャケットのポケットから一枚の紙が出てきた。
それはカタリナから貰った歌劇場のプレミアム席のチケットだ。
カタリナが特別に入手したものであり、カタリナの所属する管弦楽団の演奏であれば予約することなく、どの時間帯でも座ることができるのだとか。
「そういえば、使ってなかったな……」
結構前に貰ったが色々と忙しかったり、気分が乗らなかったりと使っていなかったな。
今日は一日家で過ごそうかと考えていたが、久しぶりに演奏を聴きに行くのも悪くない。
「よし、決めた。歌劇場に行く」
そうと決まれば、行動は迅速にするに限る。
いつもの私服ではなく少し気合いの入った服装に着替える。
今日座るのはプレミアム席だ。当然、そこに座るのは富裕層だろう。
みすぼらしい衣服で行っては悪目立ちしてしまうからな。とはいえ、貴族のパーティーといったわけではないので、堅苦しさを感じない程度に抑える。
「これでいいだろう」
鏡で自分の姿をしっかりと確認し、俺は家を出て中央区にある歌劇場に向かった。
●
歌劇場にやってくると前回よりも賑わっていた。
掲示板でホールのスケジュールを確認すると、カタリナの所属している管弦楽団のコンサートが書かれている。どうやら今日もやっているようだ。
ちょうど開演に近い時刻ということもあってか中々に混み合っている。
あちこちで騒がしい声が聞こえていた。
以前までは客のほとんどは富裕層でエントランスやロビーにも秩序があったのだが、今やそれは失われて雑然としている。
歌劇場に通う人が増えるのは悪くないが、場の雰囲気を損なわない良質な客が減ったように感じる。
俺は歌劇場の落ち着いた空気が好きだったのだが、客が増えるというのも考えものだな。
「申し訳ありません、当日チケットは完売いたしました」
係員が頭を下げて告げると、並んでいた客たちが残念そうな声を上げて散っていく。
どうやらカタリナの言っていたように予約が殺到し、中々チケットが取れなくなっているようだ。
しかし、プレミアムチケットを持っている俺は問題ない。
「申し訳ありません、本日のチケットはもう……」
「知人から招待チケットを貰っているんだが……」
申し訳なさそうに頭を下げる係員にチケットを見せると、目を大きく見開いた。
「大変、失礼いたしました! そちらのお席でしたら空いておりますので、すぐにご案内させていただきます!」
さすがはプレミアムチケット。普通の席とは違って、係員が席まで案内してくれるようだ。
これがコネとお金の力か……中々に悪くない。
係員の後ろについていき奥へと進んで行く。前回との違いは階段を降りるのではなく、むしろ上がるようになったことだ。
プレミアム席は歌劇場の二階に当たる場所みたいだ。
一階の入場口よりもやや装飾の凝った扉をくぐると、まるでパーティー会場のテラスのようになっていた。
「こちらになります」
係員の示した席は先頭だった。
少し視線を前にやると舞台の上がもろに見える。
どうやら以前遠目に確認したやたらと奏者と近い席のようだ。
そんな席の一番前にいると考えると、奏者よりも目立った場所にいるように感じられて恥ずかしいな。
まあ、階下の席からは角度的に見えないことがわかっているので問題はないがな。
イスに座るととても座りやすい。かなりいいイスを使っているらしく背中にフィットするようだ。長時間座っていても負担がないように作られているのだろう。
「お飲み物はどうされますか?」
イスの良さに満足していると案内した係員がメニュー表を持って、そのようなことを尋ねてくる。
さすがはプレミアム席、無料で飲み物まで付いてくるらしい。
「水でいい」
「かしこまりました」
他にも色々とあるようだが俺は音楽を楽しみに来ているのであって、茶を飲みにきているのではない。必要となる水だけを頼んで係員を下がらせた。
しばらくすると、係員が水を持ってきてくれた。
グラスの中にはわざわざ氷が入れられている。水であっても気を抜くことはないようだ。
軽く水分を補給すると、サイドテーブルの上にグラスを置いた。
しばらくじっと待っていると、やがて舞台の垂れ幕が上がった。
管弦楽団の奏者が次々と舞台の袖から入場し、設置されたイスに向かっていく。
以前ならば奏者の集団にカタリナも混じっていたが今日はいない。
休みなのだろうかと首を傾げていると、少し遅れて入場してきた。
鮮やかな紫色のドレスを身に纏い、銀色のイヤリングが輝いている。
ちなみにドレスは、レナードに連れ回され、衣服店での撮影報酬としてもらったものだ。
カタリナが舞台に現れると大きな拍手が巻き起こった。
「随分と人気者になったものだ」
奏者としてだけでなく、作曲家としても活躍してヒットを連発しているためにかなり人気が上がっているようだ。
なんて思いながら拍手をしてやると、次に指揮者であるエルフの男が入ってくる。
相変わらず女からの人気は高いようであるが、カタリナの人気に比べると低いように思える。その辺りの人間関係も複雑そうだな。
エルフの一礼が終わると、奏者たちが楽器を構える。
真剣な表情で楽器を手にする奏者たちの空気に呑まれて、自然と騒音は無くなった。シーンとした空気がホールの中に響き渡る。
プレミアム席は席自体が少なく、感覚がしっかりと空いているのでいい。普通の席だと隣の者の身じろぎや息遣いが聞こえてしまっていまいち集中できなかったからな。
静かな空気と一体化するように待機していると、エルフが指揮棒を振るった。
すると、奏者たちが一斉に音を奏でだす。いきなり激しい音の飽和だ。
いきなりトップスピードで始まる知らない曲に驚いたが、それ以上の衝撃があった。
それは音の聴こえ方だ。普通席で聴いていた時よりも音の聴こえ方がまったく違った。
音の臨場感が半端なかった。
楽器から奏でられる音が直接届けられているような気さえする。
これは普通の席よりも高い代金が求められるのも当然だな。
●
プレミアム席での曲を堪能していると、また曲が終わったのか拍手が巻き起こる。
エルフをはじめとする奏者たちが深く一礼をすると、次の曲の準備に入っていく。
忙しくなく奏者や係員が動き回る中、エルフは悠然と舞台の中央に立った。
「最後の曲ですが、我が団が誇る作曲家カタリナによる新曲です。どうか心行くまでお楽しみください」
エルフの発表によりホール内がざわつく。カタリナの作った新曲を一番に聴けるのが嬉しいようだ。
ざわつくような声が響き渡るが、それは次第に歓迎の拍手へと変わっていった。
観客の期待を表す拍手にエルフは優雅に一礼。
そうこうしている間に奏者の準備が整ったようだ。舞台の上に残っている者はオーケストラよりも少なくヴァイオリンやヴィオラ、コントラバスのような弦楽器を扱う者が増えており、パイプオルガンが設置されていた。
これはもしかして、あの曲をやるのではないだろうか? 楽器構成から奏でられる曲を推測した俺は思わず前かがみになる。
エルフが指揮台に昇り、全員が楽器を構える。
緊張した空気が漂う中、エルフがゆっくりと柔らかく指揮棒を振るった。
すると、コントラバス奏者たちが低い音をゆっくりと奏でていく。
四小節が終わると、ヴァイオリンを構えたカタリナが高い音で同じリズムを追いかけた。
そして、また四小節が終わるとカタリナの隣に座っている淡い桃色の髪をしたヴァイオリン奏者が違う音で追いかけ始めた。
この特徴で気付いた人もいるだろう。これは前世でとても有名な曲だ。
クラシック曲なので歌詞はないため、鼻歌で音程やリズムを伝えてカタリナに作らせたものだ。
リズムを聴いた時にカタリナが美しい音だと大興奮していたもの。
それも無理はない。これは大逆循環と呼ばれるコード進行。これは美しい曲を作りやすいコード進行だ。
四小節単位でコードが循環する特徴をもっており、バロック時代から現代まで多くの作曲家が重宝していたものだ。
幾重にも音が重なり、混じり合い、高められていく。
それにこの曲は前世でも五指に入るくらい好きだった。カタリナに作らせて歌劇場でいつかは聴いてやろうと思っていたが、タイミング良く聴けるとは思わなかった。
……やはり、この曲は最高だな。美しい曲のコード進行と言われるだけあって、音色が素晴らしい。これを聴いているだけで日々の疲れやストレスから解放されるようだ。
これを家でも聴きたいな。俺にはカタリナから貰った音の箱庭がある。
とはいえ、ここにそれを持ち込めないような気がするな。
個人的に数人の奏者に声をかけて、報酬を対価に演奏してもらって録音するのが無難か。
一番に思い当たるのはカタリナであるが、がめついし面倒くさそうだ。
対価としてもっと色々な曲を教えろとか言われそうだ。
それに目の前で演奏しているカタリナの音色はあまり好きではない。好みの音色を出している他の奴らに声をかけることにしよう。
いかんいかん。考え事はここまでだ。
今は目の前の音楽に集中することにしないと曲に失礼だ。俺は目を瞑って音の世界に浸るのであった。




